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アングロ・サクソン、カルヴァン縛り

 宗教改革以前のカトリ ック神学の特徴は、「人間の性質はアダムの罪によって堕落したが、もともとは善を求める意志と、善を求める自由をもっている。人間の努力は救済のために役にたち、キリストの死の功業にもとづいた教会の秘跡によって、罪人は救われる。」というものだった。

 中世の教会は、人間の尊厳や意志の自由や、努力の有効性を強調し、愛を確信する人間の権利を強調した。人間は、すべて神に似ているという点で平等であり兄弟である、と考えられた。

■アングロ・サクソン諸国のプロテスタンティズム
 カルヴァンの神学は、アングロ・サクソン諸国に対して、ルッターの神学がドイツに対するのと同じような重要性を持っていた。カルヴァンもまた、教会の権威やその教義を盲目的に受けいれることに反対したが、彼にとって宗教とは、人間の無力さに根ざすものであった

■自我の否定と人間的プライドの破壊
 すなわち自我の否定と自尊心の破壊ということが、彼の思想の中心テーマである。この世を軽蔑する人間のみが来世に対する準備に自己を捧げることができる、自分が自らの主人であると考えてはならない、と彼は説いた。

■保守的な中産階級に支持された
 カルヴァンの体系の心理学的意味を理解しようとするとき、原則的には ルッターの教えについて述べたことと同じことが当てはまる。 カルヴァンもまた、保守的な中産階級に対して教えを説いていた

 彼らは激しい孤独と恐れとを感じていた。そして彼らの感情は、個人の無意味と無力、努力の無駄を説く、カルヴァンの教義に表現されていたのである。

 結局、カルヴァンの帰依者は主として保守的な中産階級から成っていたと言える。フランス、オランダ、イギリスでも、彼の主な帰依者は発展した資本家たちではなく、職人や小商人たちであった。もちろん、彼らの中にも繁栄していた者はあったが、その他大勢の人々は、資本主義の発生によって脅かされていたのである

 このような階級に対しカルヴィニズムは、すでに ルッター主義について述べたと同じように訴えた。カルヴィニズムは、自由の感情を表すと同時に、個人の無意味と無力の感情も表す。そして、完全な服従と徹底した自我の否定により、個人は新しい安定を得られると、唯一つの解決策を示したのである。

■繁栄と崩壊の方程式
 彼は予定説に新しい形を与え、神は或る者に恩寵を予定するばかりでなく、他のものには永劫の罰を決定すると説いている。

 救済か永劫の罰かは、人がこの世で善行を積んだか、悪行を犯したかの結果ではなく、生まれる以前から神により予定されている。神がなぜ或る者を選び他の者を罰するかは、探ってはならない秘密である。神は唯、神の無限の力を示したかったから、そうしたのに過ぎない
 
 カルヴァンの神は、神の正義と愛という観念を出来る限り保存しようと努めているにもかかわらず、愛も正義も全く持ち合わせていない、専制君主の姿を呈している。新約聖書に激しく逆らって、カルヴァンは愛の最高の役割を否定して次のように言う。「スコラ学派の人間が、信仰や望みよりも慈悲の方が上位にあると述べているのは、混乱した想像力の単なる空想に過ぎない」。

 予定説には、心理的に二重の意味がある。予定説は、個人の無力と無意味の感情を表現し強めている。人間の意志と努力に価値がないということを、これほど強く表現したものはない運命についての決定権は人間の手から完全に奪われ、運命を変化させるために為しうる事は、何一つ存在しない。人間は神の手の中にある無力な道具に成り下がっている。

 ルッターの場合と同じように、この教義のもう一つの意味は非合理的な懐疑を沈黙させる働きにあるが、予定説の教義は一見したところ、懐疑を沈めるよりも強めるように見える。個人は前にも増して、永劫の罰に定められているか救済に定められているか知りたい、という疑惑に苛まれるのでないだろうか。

 運命がどのようなものであり、どうすれば確信できるのか、このような問いに対しカルヴァンは何も答えなかったが、彼やその帰依者たちは、選ばれた人間であるという確信を実際に持っていた。彼らはこの確信を、以前にルッターの教義について分析したときと同じ自己否定のメカニズムによって獲得したのである。

ーーここで大切なのは、 ルッターの世俗的な権威に対する態度が、彼の教えと密接に関係していることを理解することである。個人に対し自分の功績を価値のない無意味なものと感じさせ、また、人間を神の手の中にある無力な道具に過ぎないと感じさせることによって、 ルッターは個人から人間の自信と尊厳との感情を奪い取った。

 時代が進むにつれ、ルッターの教えは経済にまで影響を及ぼすようになる。いちど個人が誇りと尊厳の感情を失うと、魂の救済が人生の目的であるという感情もまた失われる。その結果人々は、自分の外にある目的(経済的生産力や資本の蓄積など)が人生の目的だと考えるようになるのである

 (ルッターは)人間はただ世俗的な権威に従うだけでなく、経済的成果という目的にも従うべし、という方向へも道を開いたのである。 この傾向は、今日ではファシストにおいて頂点に達した。 彼らは人生の目的は「より高い」権力や指導者、民族共同体のための犠牲になることである、と強調している。

■勝ち組にこだわる理由 
 このような確信を持てば、予定説の教義は安定性を確保する。一旦救われていることになれば、その救済の状態を危険に陥れるようなものは何もなくなる。なぜなら、救済は彼自身の努力によるものではなく、彼が生まれる以前に既に定められていたのだから。しかし、ルッターの場合と同様、根本的な懐疑は絶対的な安定性の追求を生む。

 予定説の教義は、このような安定性を与えたが、懐疑は依然として背後に残る。ー(神がなぜ或る者を選び他の者を罰するかは、人間が探ってはならない秘密)ーそのため、「自分の属している集団こそ、人類の中で神に選ばれた人々でなければならない」という強迫観念が生まれてくるのである。

エーリッヒ・フロム「自由からの逃走・第三章 宗教改革時代の自由」東京創元社 より

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