見出し画像

発達障がいを持って生まれた人間が、読者モデルになり、うつ病を克服して社会復帰するまでのお話

「お前の人生、めちゃくちゃ面白いから見たい人沢山いるよ」

⑴僕は発達障がいを持って生まれた

物心ついた時から言葉が上手く喋れなかった。
それは発達障がいだと知ったのは高校生の時。
吃音症という障がいだった。

・吃音症(きつおんしょう)とは、言葉が円滑に話せない、スムーズに言葉が出てこないこと。

社会人になった今でも、難発性の症状・発作が出る。
言葉を発している時、いつ、どのタイミングでやってくるか分からないが、事前に「あ、やばい。これどもるな」と察知は出来る。

今でこそ、冷静に対処策をある程度考える事が出来るようになったが、小さい頃はそうはいかなかった。

学校の授業では、教科書を読まないといけない国語の授業が大嫌いだった。
「自分の番では、どれくらい音読しなくてはいけないのだろう」

そんな事を考えながら、自分の順番が回ってくるまで、周囲の声は自分の心音で掻き消されるように鼓動はどんどん強くなっていく。

そんなプレッシャーの中だから、順番が回ると案の定どもる。こんな日の繰り返しだった。また、やってしまった。吃ってしまった。

クラスメイトにはよく真似をされていじめにも合い、悔しくて泣く事もあった。学校に行くのが嫌になって保健室登校になり、遂には不登校も経験した。

高校の時は「お前暗いし喋り方変だし気持ち悪いんだよ」「普通に喋れないの?」とも言われた。

周囲は普通に喋れる中で、間違いなく自分は異質な存在であった。マイノリティは排除される。それが現実だった。

障がい=悪いことだと思うようになってしまった。

中学生の時には原因不明の内臓疾患により脾臓を全摘した。
中学も半分近く通えず、高校卒業まで入退院、通院を繰り返して、13歳から始めた治療は12年間かかり、25歳で治療が終わった。

そんな人生で思ってる事は1つだけだった。

「ふざけんなよ。何で自分ばっかり病気になってこんな目に合わないといけないんだよ」

思春期という多感な時期。
この生まれ持った理不尽さを誰にも共感してもらえず、認めてもらえず、ただただ辛かった。

自分を産んでくれた両親には、こう言った。
「何で自分は普通に喋れないの?」
「こんな事なら自分なんて生まれてこなければ良かった」
理不尽の矛先を、両親に何度もぶつけて迷惑もかけた。

自分の言葉に自信が持てず、周囲と話す機会も減って行った。
性格も引っ込み思案になり、表情も暗かった。人生も楽しくなかった。自分の心の拠り所は、チャットで会話が出来るオンラインゲームに没頭して寂しさを紛らわすことだった。

喋りたいけど、喋れない。なんだよそれ。

⑵見つけた自分の居場所、読者モデルという世界

そんな劣等感の塊だった自分に、人生の転機がやってくる。大学1年生の時だった。

友人達にも恵まれ楽しいキャンパスライフを送る事が出来ていた。
「お洒落になりたいなあ」そんな気持ちで本屋でたまたま開いた雑誌で衝撃的な出会いをした。

後に、俳優となる当時ファッション雑誌のチョキチョキでカリスマ読者モデルだった君嶋麻耶くんだった。

あまりにも洗練された完璧なファッション、一般人離れした顔立ちに衝撃を受け、一瞬で虜になってしまった。

うわ、めちゃくちゃカッコいい…

この時、何の根拠もなく「この人みたいになりたい。努力すればなれるかもしれない。同じステージに立ってこの人に会いたい。」そんな思いが芽生えた。彼に近付きたい。彼になりたい。とにかく彼のファッションや好きなブランドを真似した。

そして、読者モデルになるために、原宿に通う日々が始まった。2008年頃、原宿東急の地に建っていたGAPから、表参道ヒルズまで声を掛けられるまで何度も歩き回った。

ここは、美容師さんがモデルハント(街中でサロンモデルを探している美容師さん)をしている、いわばゴールデンコースであった。

そして色んなお店も回り、ファッションセンスも磨いた。「どうしたら読者モデルになれるのか」それだけを考えて動いた。

地元から原宿まで往復1700円。学生には痛い出費であったが、バイトしてお金を貯めて週に何度も原宿へ行って歩き回った。

歩き始めて約2ヶ月後、遂に念願のモデルハント(街中でサロンモデルを探している美容師)をされ、名刺をもらい、写真撮影をお願いされた。日本でも有名な人気サロンからも声を掛けてもらい、願望は次第に確信へと変わった。

そしてその数ヶ月後、運良く撮影予定だったモデルさんの都合が合わなくなって、あるサロンさんが僕に撮影の依頼をしてくれた。
そこから「読者モデル」としての活動がスタートした。

原宿系雑誌の読者モデルという世間からみたら本当に小さな世界ではあったが、とにかく、もう必死だった。

「ここで結果を出して絶対に売れてやる。何が何でも見返してやる」

自分の心には学生時代苦い思いをした復讐心しかなかった。
自分の劣等感を何とか変えないと、生き苦しさは拭えず、どこかで崩れてしまうような気もした。

貰った案件に対してどうすれば最大の成果を出せるか必死に考えた。周囲の期待に応えたいと、がむしゃらにやった。そして、気がついた時には毎月、様々な雑誌・サロンから声を掛けてもらえるようになった。

月3〜4誌前後に掲載されるようになり、撮影だけで多い時は月に10万近いお金を稼ぐこともあった。多い時は1日に数件、週に4〜5回の撮影が入った。

画像1

画像2


「今度こういう企画を考えているんだけど、長谷川くんを使いたいんだ。やってみない?」
「是非ウチの美容室で専属モデルをやって欲しい」
「ファッションショーがあるんで出てください!」

自分を必要としてくれる場所がそこにはあった。
この世のどこにも居場所がないと思っていた自分に---

自分の身の周りには様々な変化が起こった。
「読者モデルやってるんですね!すごい!」
誌面に露出する機会が多くなってから周囲の目が変わっていくのが分かった。目の色を輝かせてくれる人もいた。

誰もが名前を知っているような有名人、タレント、モデル、名刺替わりになったこの肩書きで、普段知り合えない人たちと出会えるようになった。

「応援してます!」「ファンです!」いわゆるファンも出来た。
手紙を貰ったり、街中で声をかけてもらう事もあった。

相変わらず自分の吃音は治らないけど、以前よりはずっと良くなった。今の自分は確かな自信を掴めていたからだ。自身を肯定出来るようにもなっていた。劣等感は、この成功体験で覆いかぶせる事が出来た。

自分自身の性格も明るくなった。笑顔でいる事も増えていた。
あれだけ下を向いていた人生だったのに、180度、いや360度、間違いなく、自分の人生はガラリと変わった。

美容師の専属モデルも、雑誌の専属レギュラーモデルも掴めた。雑誌で自分の特集も組んでもらえた。メディアにも出る事が出来たし、可愛いモデルの彼女も出来た。

素晴らしい。凄く売れたわけではないけど、そこそこの実績を出す事は出来た。自分が目指していた事、目標にしていた事の大半は達成出来た。

あれだけ自分の事を笑ってた奴らが態度をガラッと変わる所を見ると人間の醜さが垣間見えてしまい、正直、可笑しくてたまらなかった。

「自分で成功を掴み取った。もう何も怖くない。何をしても上手くいく。2年前の自分とは違う。」

不遇の環境の中で育ち、急激な成功を掴んでしまった為か、次第に傲慢さが増した。驕りも見えた。天狗になってしまった。世間の厳しさも知らないまま---。

時間というものは有限である。つまり、夢のような時間は終わりを迎える。就職活動という現実がすぐ近くまで迫っていた。

自分の劣等感が本当に克服出来ていない事を、この後痛感することになる。

⑶就職活動からの逃げ

大学3年にもなると、周囲の環境もガラリと変わり、いよいよ就活モードに入って行く。大学では就職活動のガイダンスも組まれ、本格的に自身の進路を決めなくてはいけなかった。

そして、就活に面接があることはもちろん知っていた。
面接では、しっかりとコミュニケーションを取らなくてはいけない。そんなこと、自分には出来ない・・・・どうしよう。

自分の覆いかぶせていた劣等感が露出してしまう。
そんな事は恐怖でしかないし、いじめられた学生時代のトラウマが蘇る。

「ダメだ。自分には出来ない。こんなの本当に無理だよ。そうだ、読モの活動頑張ろう。」

逃げ癖がついていた自分は何も行動しなかった。というよりも、行動出来なかった。面接で恥ずかしい姿を見せる自分が受け入れられず、どうしても、一歩が踏み出せなかった。なるべく現実のことは考えないようにした。

読モの活動に戻れば、周囲もチヤホヤしてくれる。「読者モデルの自分」として接してくれる。面接で吃り苦しそうに喋る恥ずかしい姿は、誰にも見られることもない。

そんな自分にとって最高に都合の良い環境で、現実と向き合えない自分の弱さから逃げて、読モという有限の成功体験を手にした場所で、現実逃避した。

現実の時間が刻一刻と過ぎていく中で、結局就職活動に本腰を入れることなく大学を卒業した。夢の時間は終わりは迎えた。

・いよいよ面接へ
卒業後は飲食店でアルバイトをしながら、「自分探し」という甘美な響きを動機付けてアルバイトの日々を送った。もう読者モデルという肩書きもない。

目標も、所属も無くなった。どんどん不安が強くなる。周りの友達は、社会人という新しい環境に、もがき苦しみながら、成長してどんどん適応している。

みんな、それぞれの苦悩とか葛藤を抱えながら、精一杯今を過ごしている。「苦しいのは自分だけじゃない。」本当は心の奥底で理解していたはずだ。

「自分の人生、このままでいいのだろうか。何事も逃げてばかりの自分に本当に満足しているのだろうか?」

そんな筈がない。何も満足なんかしていない。だから劣等感を抱えているんだ。このままじゃ駄目だ。やっぱりちゃんと就活しよう。向き合おう。何者にもなる事が出来ない。
そう決心して、少し遅れての就職活動が始まった。

⑷面接で自分の名前が言えない

自分が抱えていた劣等感に思い切り殴られた。

読者モデルの経歴を武器にしたおかげか、書類選考は割とすんなりいった。

そして、面接が始まった。開始早々、大きな事故を起こしてしまった。

面接では自分の名前が言えなかった。正確に言うと、10秒近くかかった。

「あの・・・え、えっと・・・は、はせがわ・・しょう・・た・・と申します。よ、よ、よろしくおねがいします」

成人した大人が、面接でたった1分間の自己紹介もロクに出来ない。小さな子でも、自己紹介はきちんと出来るだろう。

吃音というのは一度出てしまうと、中々普通の話し方に戻らない。「吃ったらどうしよう。」囚われてしまうからだ。

吃音であることは言いたくなかった。自分の最大のトラウマでありコンプレックスを、余計なプライドが邪魔をして伝えられなかった。

面接の前は強い緊張で面接の前後は何も口に入らなかった。何度もトイレで吐き気を催す。移動中も身体の震えも止まらない。
「何を話そうか。どうやってアピールしようか」じゃなくて「どもったらどうしよう。」そんな事しか頭に浮かばない。

吃りまくる格好悪い姿を見せるのが嫌で、とにかく、吃らずに面接で話す事に必死になって自分のことばかり考えてしまう。それが故に、ショックも大きかった。

「自己紹介さえ出来ないのかよ。本当に何も出来ないな自分は。」情けなくてたまらなかった。

書類選考が通り、必死に企業研究をして、面接で話す内容を考えても、どんな準備をしても、肝心の面接で全て躓いてしまう。自己紹介で名前すら話せなくなる。

面接でもっと話したいことがあるのに、考えた言葉が出てこない。結局、1-2行で簡単に伝えてしまう事も少なくなかった。

違うんだ。本当はもっとこういう事を伝えたいのに。喉に蓋をされていて話すことが出来ない。苦しそうに話す姿を見て笑う面接官もいた。そんな自分に焦燥感と、悔しさ、怒りがどんどん蓄積されていく。

何度も諦めて、再びチャレンジする。でも、どうしようも出来なかった。
遂に心が折れてしまい一旦身を引く事にした。

就職を諦めた僕は、ある事を決意した。このままじゃだめだ。このままでは、自分はこの世界で生きていけない。

もう時間がかかってもいい。20代は自分の弱さ・劣等感・障がいとひたすら向き合って闘おう。 ダメだったときは…

この時は既にうつが影から姿を見せている事に当時は気づけなかった。

⑸うつ病という地獄から見えた先

「読者モデル時代のような成功体験を掴めば、吃音が良くなるかもしれない」吃音は、自信のなさ(自己肯定感の低さ)から出ている事も一因していたので、劣等感を克服すれば、吃音が改善出来る可能性があると考えた。

吃音の次に何が劣等感か?を考えた時に、学生時代、きちんと勉強してこなかった後悔が強く残っていた。

祖父が開業獣医で小さい頃から祖父の仕事を近くで見て来た事もあり、憧れはあった。医者にもなれるし、上手く行けばとんでもない成功体験になる。よし、このカードを使おう。

勉強をすれば、思考も深まって新しい発見も出来て、病気に対する向き合い方も見つかるかもしれない---

「勉強をする目的」として「獣医になる」という手段を使った方が正しいかもしれない。

25歳職歴なし無職。自分自身と、人生を切り開くために、残された最後の手段。無謀とも言えるチャレンジ。完全に自信を喪失していた自分は、成功体験を掴むべく勉強を始めた。

・受験勉強の始まり
朝8時から夜の10時まで、とにかく勉強した。後がないから、本当に必死だった。
数学は小学生の2桁の足し算引き算からのスタートだった。

新しい事を知る事がとにかく楽しくて、苦手な勉強もどんどん進んでいった。朝から晩まで自習室で勉強して疲れた身体も、外に出れば心地よい風と気持ちの良い空気が包み込み疲れを癒してくれた。

素直に勉強が楽しい。今までの感じた事のない、読モとは別の充実感がそこにはあった。苦手だった英語も、どんどん好きになれた。

ただ、相変わらず余計な感情が芽生えてしまう。今までの感情がフラッシュバックしてしまっていた。先の見えない不安もあり、落ち着かない事も増えた。

勉強を始めて約2年の2015年頃から自分に対してネガティブな言葉が増えてきた。同時に体調不良も目立つようになってきた。

「これが上手くいかなければ自殺するべきだ。そうでなければ自分は生きている価値なんかない」

そんな0か100かの思考、認知の歪みも出てきた。

この頃から精神科にも通い始め、薬を飲みながら勉強を続けていた。既に勉強を始めた時点から早期覚醒、不眠、心身症、精神不安、希死念慮など多くの、いわゆるうつの症状が出始めていた。

普通に考えれば、精神科に通い始めて薬を飲み始めた時点で止めるべきだが、人というのは追い詰められると、視野がどんどん狭くなっていく。でもやめられなかった。

勉強をやめることは、自分にとって成功から手を離すことと同義だった。死同然だった。

そんな中、そんな極限の精神状態の中で無理くり勉強をしていた身体が遂に悲鳴をあげた。
2016年10月18日の朝、遂に身体を壊してベッドから起き上がれなくなった。

うつ病になったのだ。
(正確にはうつ病と診断とされるのはもっと後だが)

・うつ病の治療
うつ病になった人には分かるかもしれないが、本当に何も出来なくなる。本も読めなくなるし、映画の内容も分からない。理解出来ない。とにかく頭が回らなくなる。

精神的に一番辛く、友達にも誰とも連絡を取れず、親友でさえ連絡出来なくなってしまった。

薬の副作用が酷く、体調も良くならない。希死念慮が一番強くなってしまい、振り払うのに必死だった。やばい、地獄だ。

もう全ての事がどうでも良かった。人生を終わりにしたい気持ちが強かった。頭に浮かぶのは自分のことを否定する言葉ばかり。

それでも、体調が良くなるのを必死に願って、しばらくの間、ベッドで数ヶ月を過ごした。

うつ病は、この世の一番の地獄だ。

・うつの脱出から再度の就職活動へ
「うつはずっと続かないだろうから、良くなったら出来ることをしていこう」
うつ病を治したい気持ちが強かったので、そう自分に言い聞かせた。
少しでも体調が良くなったら、外に出た。庭まで出れた自分を褒めるようにした。

本を読めるくらいになるまで回復したので、色んな本を読み、体調の良い日は近所を散歩して日光浴をした。うつ病の治療を始めて暫く経った頃だった。いつものように散歩をしているとある事に気付いた。

「そうだ。今までの自分の人生が上手く行かなかったのは障がいのせいじゃない。自分の病気と向き合えない心の弱さだったんだ。」

何があればいつも病気のせい。自分の弱い所から逃げて、都合の良い解釈をして病気のせい、環境のせいにしてきた。そんな事で人生が上手くいくはずがない。

自分は障がいがある。治る事もないし、治療もできない。ずっと付き合っていかなくてはいけない。それが不変の事実だ。障がいであるという事実を、そもそも排除できるはずがないのである。

・あるがままに、物事を受け入れる。

そんな当たり前の真実に気づくまでに、28年かかった。
そしてこの事に気付いてから、自分の人生が一気に好転した。障がいを克服した日だった。

「自分の障がいを前面に出そう。そして今はそれをポジティブに捉えている事を伝えよう。」

うつはまだ寛解していないが、何かが好転している気もした。このチャンスを逃したらもう次はないだろう。

今度こそは。3度目の正直だ。
そう決心して、体調が良くなって少しづつ再開していた受験勉強を辞めて再度就職活動をする決心が出来た。

⑹29歳、社会人1年目

そしてまた就職活動をはじめた。28歳、職歴なしの無職、うつ病の治療中。
うん、文面だけ見れば、以前よりも厳しい就職活動になる事は間違いない。

だけど、以前とは違うコミュニケーションをした。

「自分には吃音という言語障がいがあります。」

面接の冒頭で、学生時代に言えなかった自分のコンプレックスをさらけ出した。恥でも何でもない。自分には障がいがある。ただそれだけの、ありのままの真実を伝えた。

緊張を抑える薬を飲んだりしてもかなり吃ったが、就活をして約5ヶ月、何とかとある会社から内定を貰い、入社する事が出来た。この時、既に29歳になっていた。

ここの会社では、名刺の渡し方、マナーなど、社会人としてのベースを教えてくれた。働く人にも恵まれ、充実感もあり吃音も以前より良くなった。社会人生活をこの会社で過ごす事が出来て良かったと思う。

⑺250人の前で発表した日 

そして僕は、上記の内容を簡潔にしたものをなんと250名近い社員の前でプレゼンした。

きっかけとなったのは、元々ITを志望していた事もあって30歳の節目にFiNC Technologiesという会社に転職が決まった時のことだった。

入社前に「良ければ、弊社の創立記念に全社研修を行っているのですが、お越しになりませんか?」とお声掛けをいただき、参加させていただいた。

入社前という事もあってか、凄く緊張していた。
そんな中研修は進み、研修内でプレゼン大会が行われ発表者を決めることになった。

全チームの中から、予選を勝ち抜いてきた中から8名が選ばれる。なんとその中の一人に僕が選ばれた。今まで書いてきた事をありのままに話して、発表の権利を得た。

250名の前、しかも入社前でみんな知らない人だ。でも自分の病気の事を知ってもらえる良い機会にもなる。しかも、もしかしたらこんな大人数の前で話すことはないかもしれない。

やばい、そう思うと超ドキドキする。
待ち時間、今までの自分の人生が回想される。色んなことが頭をよぎった。本当に色々あった。苦しいことが多かったかもしれない。自分の人生はずっと吃音と共にあった。

自分の、あらゆる根源。治ることもない、会話も出来ない。しかもいきなり発作も起こる。本当に嫌な奴だ。

言葉を上手く話せない人間が、まさか予選を勝ち抜いて250人の前で自分の最悪のコンプレックスを抱えた人生について発表する。なんだそれ、映画のエンディングみたいだ。 昔の自分なら絶対に出来ないや。

そんな事を考えているうちに、7人目の僕に順番が回ってきた。大きく深呼吸をして、改めて周囲を見る。このフロアには沢山の人がいる。みんなが僕を見ている。

照明が暗くなって、みんなの顔は見えなくなった。よし、きっと大丈夫。頑張ろう。だって自分の障がい、弱さを受け入れたじゃないか。そう自分に言い聞かせた。

そして、発表が始まった。自己紹介をした後、冒頭でこう言った。

「実は、自分には発達障がいがあります---」と。

約5分の発表は終わった。
僕はこの時、不思議と全く吃る事もなく、人生で最高のプレゼンをする事が出来たのだ。

あの時、障がいと向き合っていなければ間違いなくここの舞台には立っていなかった。同年代よりも、遅れている人生かもしれない。

でもやってきた事は何一つ無駄ではなかった。そう確信し、自分自身を誇りに出来た瞬間だった。

⑻エピローグ

そして年月が経ち、最近上司と1on1の面談をした。
近況の報告、色々な相談事をさせていただき、
「自分で何かを発信しようと思ってます」と伝えた。

上司からの返答は、以外なものだった。

「お前の人生、めちゃくちゃ面白いじゃん。だから、どんどん発信した方がいいよ。障がいとメンタル克服して普通に働いてる人って中々いない。見たい人沢山いるよ。」

そうなんだ。自分の人生は他人から見たら面白いんだ。
それならば、何か違う角度で物事を伝えられるかもしれない。
不特定多数が見るネットの世界に、実名で自分の人生を、投下することにした。

今でも日常で言葉が出ない時が沢山ある。未だに「アイスコーヒーください」って上手く言えなくて、夏なのにホットコーヒーを頼むこともある。

今でも自己紹介で自分の名前がうまく言えない。でもそれでいい。

「自分は元々上手く話す事が出来ない」からだ。それが真理である。
だから、そんな自分を責める必要は全くないのだ。

人は自分の嫌いな所に執着してしまう。でも、自分を理解出来れば、見える景色は違うのだ。劣等感を受け入れた自分の人生は、今までと違うものになるだろう。

障がいを克服出来てから新しい目標も見つけられた。
僕と同じように環境や病気が壁となり、自分らしい人生を歩む事が出来ない人達を、一人でも多く救うことが僕の目標だ。

「あるがままに物事を受け入れる」
講談社現代新書で出版している岩井寛先生が書かれた「森田療法」という本は、自分のうつ脱出のきっかけの1つとなりました。同じ悩みを抱えている方の一助になれるかもしれません。僕の人生のバイブルです。

自分の文章が、誰かの救いになれますように。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?