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秋草の美学①:ゆりかごから棺桶まで

先月、日本美術史の大家・源豊宗による著書『日本美術の流れ』という本を読んだ。彼は序章で、以下のように述べている。

私は日本と中国と西洋、それぞれの美術を象徴するものとして、西洋はヴィーナス中国は龍、そして日本は秋草をあてることができると思うのです。

源豊宗『日本美術の流れ』

個人的に、この言葉にものすごくハッとするものがあった。それがどのような性質のものなのか、自分の中の何と結びついたのか、もう少し深めて考えていきたいと思い文章に起こすことにした。

【源豊宗の提唱した、各文化の美術的特徴】

源豊宗(1895-2001)は、日本を代表する日本美術史家、文学博士である。 日本美術が「秋草に象徴される美術」だというのは、源が1966年に発表した論文「日本美術における秋草の表現―日本美術の様式的性格―」において初めて提唱された。

以下、簡易的にではあるが、源が西洋・中国・日本の美術を比較した内容についての記述を書き出してみる。

<西洋:ヴィーナス>

  • 客観的、写実的、リアリズム

  • 官能美を志向

  • 対象をダー・ザイン(そこにあるもの)としてとらえてゆく

  • 人間のダー・ザインは身体即ち肉体=ヌードは一番適切な人間表現

  • 現実を映しながら、純化し理想化する

ミロのヴィーナス(Photo by NakNakNakPixabay

<中国:龍>

  • 精神的

  • 超越的、幽玄

  • 深遠性

  • 高潔な理想的な人生への追及

  • 芸術そのものが、高い人間的理想の実現

孫億「波に龍図」京都国立博物館蔵(出典:ColBase

<日本:秋草>

  • 主観的

  • 情緒的・情趣的

  • 時間的世界観(うつろいという意識、過ぎゆくものに対する哀感)

  • 平明・平面的(ヨーロッパ的な意味での空間的世界をもたない)

  • やさしさ、和やかさ(雄大とか厳粛というような、力の緊張を強いる要素をもたない)

俵屋宗雪「秋草図屏風」東京国立博物館蔵(出典:ColBase


この三文化の違いについて、美術の範疇を飛び越えて自分の中でリンクする事柄がいくつかあった。それこそが、私がこの内容についてもう少し深めて考えてみたいと思った動機だ。それらを一つずつ挙げていく中で、日本人の「秋草」性に思いを馳せていこうと思う。

【1】日米の「童謡」が見せる世界

日本人の両親のもとに日本で生まれた私は、片手で数えられる年齢の内に家族でアメリカへ引っ越すことになった。そこから現地校(小学校の最年少学年であるキンダーガーテン)に編入し、先生も生徒も全員がアメリカ人の中、たった一人の外国人として生活する日々が始まる。

(Photo by Jose FigueroaUnsplash


渡米当初はまだ幼児だったこともあり、英語で童謡を歌う機会があった。日本語の童謡も、日本の幼稚園には少し通ったので多少は入っている。日本で生まれ育った人、アメリカで生まれ育った人を100%とすると、日本語も英語も私の知っている童謡の数はそれぞれの半分程度だろう。そんな少ないサンプル数でも「なんかちがうなぁ」という漠然とした感覚があった。いま思えば、これはそれぞれの文化における、自分の生きる世界へのまなざし方の違いだったのかもしれない。

①季節の描写

まず第一に、英語の童謡は季節に関する歌がほぼない。日本語では何かにつけて季節感を出すし、特に行事に関する歌が多い。たとえば『お正月』『ひなまつり』『こいのぼり』『たなばたさま』『うさぎうさぎ』……。行事から離れても『さくらさくら』『ちいさい秋みつけた』『ゆきやこんこ』など、季節感たっぷりだ。アメリカではイースターの歌も、ハロウィーンの歌も、サンクスギビングの歌もなく、春夏秋冬を謳う歌をみんなで歌うこともなかった。(クリスマスだけは別で、これは逆に何でこんなにあるの?っていうくらい数がある。)

②風景の描写

そして、日本は風景や自然について描写した歌が多い。『夕焼け小焼け』『うみ』『あめふり』『北風小僧の寒太郎』など、それぞれの情景が目に浮かぶような曲。その光景を前にした時に、思わず口ずさみたくなるような歌が数多くある。雨が降っただけで「ぴちぴち、ちゃぷちゃぷ、らんらんらん♪」となるなんて微笑ましい。英語で雨の歌となると『Rain, Rain, Go Away』という、人間の意思を感じるものになってしまう。

(Photo by 森ゆゆphotoAC

個人的に英語で歌の情景が広がる童謡、というのでパッと思いつくのは『London bridge is falling down』『Are You Sleeping (Brother John)?』だが(ネイティブはまた違うかもしれない)、それぞれロンドン橋や教会の鐘が浮かぶので人工物になってしまう。自然物だと『Row, Row, Row Your Boat』での川を思い浮かべるが、これもあくまで歌の中心はボートの方なので人工物だ。

③擬人化の描写(歌う対象への感情移入)

日本語の童謡は動植物の擬人化が多く、しかも情緒的であることも特徴だと思っている。『犬のおまわりさん』『どんぐりころころ』『こぎつね』『めだかの学校』など、思わず親しみを感じるような描写に満ちている。英語でも動物を主人公とした童謡はあるが、『Baa Baa Black Sheep』『Five Little Monkeys』『Itsy Bitsy Spider』などと比べると分かるように、歌う対象への感情移入の度合いが圧倒的に少ない。

まだまだ挙げようと思えば他にもあるが、今回のテーマに沿った大きな違いはこの辺りだろう。

源は日本美術について「自然をいつも四季と結びつけて見ている」とし、情趣性の面においては、主観が対象によって誘われ出てきた情緒や感動を、また逆に対象を通じて表現しようとすると指摘している。これは童謡の世界でも、①季節の描写、②風景の描写、③擬人化の描写(歌う対象への感情移入)ですでに達成していると考えられる。

それに対して英語はもっと歌詞が客観的で、(情景ではなく)光景と登場人物と状況をはっきりと説明する傾向にある。源がヨーロッパの美術を指して客観的、空間的世界、視覚的感性と言及したのと通じるものが大いにあると思う。(アメリカはヨーロッパではないが、日本文化よりは明らかにヨーロッパ文化の方が近い。)

子どもの頃の私が「なんかちがうなぁ」と漠然とした感覚を抱いたのは、この自分の生きる世界へのまなざし方の違いだったと考えると腑に落ちる。

自分を取り巻く膨大な量の情報を、どのように抽出・認知し、どのように輪郭を与え、どのように表出していくか。それは文化によって傾向があると思っている。こういった文化的スターターセットとして、童謡の果たす役割は大きい。

もともと、幼少期に慣れ親しむ童謡、童話や絵本の世界は、大人になってからも言葉の端々にあらわれるもので、これらに触れる過程で音韻規や音韻的意識をからだに刻みこんで「絶対語感」を養っていく。これが後々の「声に出して読みたくなるような」リズミカルな文章や俳句、短歌、韻を踏む詩などの世界への土壌となる。そのことについては把握していたが、この「世界へのまなざし方」については薄ぼんやりとした感覚が広がっているのみだった。何となくのモヤモヤの正体が少しはっきりしてきたような、そんな気分になっている。

(Photo by CDCUnsplash

【2】日中の「詩歌」が見せる世界

源豊宗『日本美術の流れ』の内容から、私の中で結びついた二つ目のものは日中の詩歌の違いについてだった。

詩歌における日中の違いについて、法政大学国際日本学研究所の王敏は、中国の倫理道徳重視の固定性思考に対し、日本は自然融合感重視の関係性思考の傾向が見られると指摘している。つまり中国人は「正義を求める」意識が強く、日本人は「自然を求める」意識が強いのだ。

ここからは、日中の詩歌における美意識や価値観の違いについて、具体的に見ていきたいと思う。

①天の原ふりさけみれば…

王によると、日本人と中国人では「なつかしさ」の感じ方に違いがあるとのこと。日本人が「故郷」と聞いて思い浮かべるイメージとして、「うさぎ追いし、かの山~♪」に象徴されるように、山や海、川、森などの景色、風土が一般的だ。しかし、そのことを知ると中国人は軒並み驚いてしまうとのこと。「故郷がなつかしい」と言った時に、中国人は家族や親戚、友達の顔を思い浮かべながら懐かしみ、風景などはその後にようやく出てくるおまけのようなものだからだ。

この日本人特有の望郷の念を強く感じるのが、あの有名な阿倍仲麻呂の和歌だという。

天の原ふりさけみれば春日なる 三笠の山に出でし月かも」

この歌は情景描写そのもので、淡々と月の出を詠ったものだ。しかし「ふるさと」を思い出して、その「ふるさと」と一体となり、自分を静かに没入させている様子がありありと伝わってくる。帰国が叶わず唐で骨をうずめることになった阿倍仲麻呂の人生を思えば、日本人は余計にグッとくるものがあるのではないだろうか。(それも長く愛されている一因かもしれない。)

ふるさとから連想されたのが人々の談笑や言葉の記憶でなく、自然の情景であるところに、仲麻呂の日本人たる面目が現れている、と王は言っている。

(Photo by 名古屋太郎Wikimedia Commons

②辞世にこめられる人生観

人生最後に詠む、己の人生を総括する集大成の歌は、その人物の人生観が大きく反映される。

王によれば、中国人の場合は、どれだけ倫理道徳を優先しているか、責められるような生き方をしてこなかったこと、正義にもとることはしていないこと、こういった姿勢で自己主張しようと懸命になるそうだ。特に歴史上の人物ほど、大義に殉じた己の生涯であったことを誇示しようとする点が共通していると指摘している。彼らは「正義を求める」生き方を第一にしており、それこそが生きる価値と思われているからだ。

しかし、日本人は万葉の頃から自然の風土に託して己の生涯を総括するのをもっとも自然としている。日常的に訓練された風土と一体で心を感じる習癖を拡大して、感性のよりどころへと普遍化させるのである。倫理観を指針にしている中国人の一般的な見方からすれば、日本人の辞世は内省的であり、思想主張の少ない印象に映るようだ。

中国の理念志向に対し、日本の自然志向。この違いが、人生を締めくくる歌に色濃くあらわれている。

③漢詩の扱いの違い

そもそもの大前提として、中国人にとって詩はまず志を詠むものと位置付けているとのこと。古来より「詩は志なり」といわれ、倫理道徳と一体なのだ。その中で自然を取り扱うことは多々あるが、人間の意思を伴っていなければ自然を詠う意義は小さいと考えられる。倫理観や歴史観、思想、哲学が感じられるほど中国人にとっての自然観は充実するというのだ。

しかし四季の移ろいと共に生きる日本人は、中国の漢詩をも四季別に編纂してしまう。中国人にとって、漢詩は思想傾向や時代精神に沿って整理・編纂されるものなので、「季節で分類」という発想そのものに驚きを感じるようだ。

(Photo by pcsfishPixabay

ちなみに日本では、李白・杜甫よりも白居易のほうが好まれ、平安文学にも多大な影響を与えたという。白居易の方が花鳥風月の自然や、哀愁や心情を詠ったものが多く、日本人の感性に合うからだろうと王は推察している。しかし中国での位置付けは断然、李白・杜甫のほうが高くなる。これは、社会性や倫理道徳を注目するからとのこと。中国から日本に入ってきた漢詩が、日本人の感性のフィルターに掛けられた結果、白居易が好まれるようになっていく現象は興味深く感じる。

④日中それぞれの自然観

それでは、中国人の自然に対する感覚とは一体どのようなものなのだろうか。

中国人は古来、儒教によって人間中心の考え方を基本にしてきた。自然に対しては人間を一段高く据えて気遣うか、突き放して眺めているかになる。日本人のように自然に同等の生命の息吹きを感じる心情はないと王は説明している。ちなみに、キリスト教でも創造主である神はあらゆる生き物の最高位に人間を置いているため、自然への感覚は西洋にも似たような傾向がある。日本人の自然観が自然本位とすれば、中国人や西洋人の自然観は人間本位といえるだろう。

日本人は自然と人との間に垣根がなく、相対化して自然と共存し、人間も他の動物と同じように自然の一部と考える。動物も植物も、もろもろの触れ合うものすべて、親しい仲間意識でもって見つめる自然観。それは、前述の童謡の話題で挙げた「擬人化の描写(歌う対象への感情移入)」にも繋がっていると考えられる。王も具体例を挙げて、小林一茶の俳句から童謡、童話、文学作品に至るまで、すべてに自然界の生き物を同じ視線で見つめる習性が見られることを示している。

詩歌における自然の扱いについては、中国では植物と共に生きるという感覚よりも、植物の特性を以って人間を引き立てるという意味合いが強く、「自然融合感」に象徴される日本人の感覚とは対照的に、中国人の感覚では自然との「主従関係」が現れるそうだ。中国人は「人間の幸福」や「理想」を草花に託すが、それは日本人のように自然に融合し、人間と自然を対等に見るという発想とは大きく異なる。人格を表現するために、自然を使うのである。(たとえば「玉蘭」「海棠」「牡丹」はいずれも「富貴」の象徴、「芙蓉」「桂花」「万年青」は「幸福・富裕」を願う象徴となる。)

蘇漢臣「秋庭戯嬰図」(出典:國立故宮博物院 National Palace Museum Facebookページ

関西大学博物館学芸員の施燕も、中国絵画における自然について似たような例を挙げている。たとえば、上の文人画は一見すると姉弟が遊んでいる場面を描いているように見える。しかし、人物の周辺にあるものはそれぞれ「芙蓉=高貴・裕福への願い」「石筍=健やかな成長への祈り」「菊の花=人格の高潔さへの望み」の意味が込められている。また、中国絵画における山は、時代の背景に応じて祖先崇拝や帝王、権力の象徴、儒教、道教思想、また文人の理想などと結びついて様々に捉える傾向があり、複雑な山容や理想の境地の表現をあらわしているという。

そう、ここまで読んで分かるとおり、日中の詩歌に対する姿勢は、美術に対する姿勢とおおむね重なるのだ。中国では正義・大義・倫理道徳・志といった高い人間的理想の実現、高潔な理想的な人生への追及、精神的なものが描かれる。日本では徹底して時間的世界観で、雄大とか厳粛というような力の緊張を強いる要素をもたない自然観に基づいた情緒を描く。表現の手段が変わっただけで、自分の生きる世界へのまなざし方と美意識は同根のものであることが、これらのことから見て取れる。

【3】子どもの始語と文化環境

この文化的傾向については、子どもが言葉を話し始める初期の時からあらわれるようだ。

仏国立科学研究機構の主任研究員(当時)ベネディクト・ド・ボワソン=バルディの研究に面白いものがある。フランス・アメリカ・スウェーデン・日本の子ども(生後10-18か月)の始語を調べたところ、文化的風習が子どもの始語の内容に大きな影響を与えていることが判明した。ある一定の言語的・文化的グループに所属していることのほうが、個人的選好よりも、違いを生む大きな要因となるというのだ。

欧米三か国(フランス・アメリカ・スウェーデン)の中での違いも興味深いのだが、実用的な名詞が頻出する点では共通していた。それらに比べ、日本は全く異なる様相を呈している。名詞について、人の名前やオモチャや食物などを指すモノの名前についての語彙はより少なく(人の名前ではアメリカ人の場合15%に対して7%)、雨や雲、葉っぱ、太陽そして月といった自然の要素を口にするのだ。ボワソン=バルディは、これを指して「詩的傾向が見られる」と表現している。

そして日本の子どもに見られるもう一つの大きな特徴に、オノマトペが始語のうちで半分以上を占めることも挙げられている。

(Photo by acworksphotoAC

大阪総合保育大学教授の小椋たみ子によると、養育者が乳幼児に話しかける時に使用する言葉(育児語)の大きな特徴としてオノマトペがあるとのこと。オノマトペはシンボル媒体と事物の結びつきが強く、子どもには認知的に獲得しやすい語なのだ。実験でも、ほとんどの幼児語は母親が発した育児語の中の語彙で、オノマトペはその中でかなりの割合を占めている。

しかし、育児語におけるオノマトペの割合には文化で差がある。日米の育児語を比較して、日本の母親の方がオノマトペの語彙の使用頻度が高く、長い期間使用しているとの報告がある。米国の母親が子どもの自立を育てることに価値を置くのに対し、日本の母親は情緒的なコミュニケーションの確立に重きを置き、母親自身の発話をコトバの未熟な子供に合わせる傾向があるとのこと。

この点については、日本語と英語の言語としての違いにも留意しなくてはならないと私は思っている。オノマトペには意味階層があり、以下のように分類される。(数字が大きくなるほどオノマトペであらわしにくくなる。)

  • レベル1:音、声

  • レベル2:動き、形、手触り

  • レベル3:身体感覚、味、匂い、色

  • レベル4:論理的関係

英語を始めとする多くのヨーロッパ言語はレベル1のオノマトペしか発達していない。それに対し、日本語のオノマトペはレベル1からレベル3と幅広くカバーしているため、そのぶん数も多くなる。

しかもオノマトペは言語の一部でありながら、言語音以外の音の側面も持ち合わせる特異な存在と考えられている。サバンチ大学准教授の加根魯絢子らの研究によると、オノマトペは左脳で言語音として処理されると同時に、右脳で環境音としても処理されるというのだ。

このことから、言語野以外の右脳に刻み込まれたオノマトペは、ただの言語よりも直感的かつ感覚的な共有を可能にする言葉と考えられる。日常に遍在している身体的、視覚的、聴覚的感覚のみならず、より繊細な感情や複雑な諸概念をも反映している。こういった類の言葉を文化的に発展させ、かつ生まれた時から浴びせ続けるのが日本語世界なのだ。

ちなみにオノマトペは、言語形成期を過ぎてからの学習が難しいとも言われている。日本語母語話者にとっては、一語に情報が凝縮し、具体的な描写力を感じるオノマトペ。その語感と感性を結びつける土台作りは、赤ちゃんの時から始まっている。

(Photo by Rawpixel.comAdobe Stock

ボワソン=バルディは「言語の用い方で表現される文明が、いかに彼らの始語に刻印を残しているかを観察するのは実に興味深い」と書き記しているが、これには私も強く同意する。

言語の伝達様態は、その文化で何となく共有される世界観を大きく映し出している。前出の童謡の時にも述べた、「自分を取り巻く膨大な量の情報を、どのように抽出・認知し、どのように輪郭を与え、どのように表出していくか」の学習は、生まれた時からすでに始まっていて、その影響が始語にもあらわれていると考えらる。

【4】終わりに

今まで私は、言語表現や音・音楽からの認知の違いについて関心を持っていたが、まったく同じ現象が美術においてもみられることに、ほとんど気に留めていなかったようだ。しかし、源の「西洋はヴィーナス、中国は龍、そして日本は秋草」という言葉によって、アプローチを変えても共通した文化的傾向がみられることを鮮やかに認識することとなった。

こうして美術を発端に、始語から辞世の句まで並べることで「人間は生まれた時から、文化を土壌とした世界へのまなざし方を学び、成長過程でそれを強化していき、最期を迎えるまで持ち続けるのだ」ということを一段と深く理解した気分になっている。(日中米をもっと均等に取り上げられれば良かったのだが、そこは私の力が及ばず……。)日本を軸にして見た場合、どこをとっても秋草的な性質が如実にあらわれていて、源の日本美術観との一致具合に思わず唸ってしまった。

そして、どことなく相対化して自文化や母語(日本語)を見る節のある自分自身についても、少し理解できた気がする。これは、どっぷりと浸ることで土台が形成されるはずの初期段階に、二つの文化の狭間で確固としたよりどころを持たなかったことに起因するのだろう。

帰国後に英語はどんどんと抜けてしまい、今では見る影もない状態である。しかし、表面上の言語運用よりも深い根っこに刻まれた認知については、その後の人生にも長く残っているようだ。図らずも、そのことを真正面から受け止める機会にもなってしまったように思う。

<主要参考文献>

  • 秋田喜美(2022), 『オノマトペの認知科学』, 新曜社, [認知科学のススメ].

  • 内田伸子(2005), 「小学1年からの英語教育はいらない−幼児期~児童期の「ことばの教育」のカリキュラム−」, 大津由紀夫編, 『小学校での英語教育は必要ない!』, 慶應義塾大学出版会.

  • 小椋たみ子(2006), 「養育者の育児語と子どもの言語発達」, 『月刊言語』422号, 大修館書店.

  • 施燕(2020), 「『秋草の美学』から考える日本と中国絵画における風景の表現」, 中谷伸生編, 『風景論 : 東アジアから見る・読む・考える』, 関西大学出版部, [関西大学東西学術研究所研究叢刊].

  • ベネディクト・ド・ボワソン=バルディ(2008), 『赤ちゃんはコトバをどのように習得するか:誕生から2歳まで』, 藤原書店.

  • 源豊宗(1985), 『日本美術の流れ』, 思索社.

  • 王敏(2006), 『日中2000年の不理解――異なる文化「基層」を探る』, 朝日新書.

  • 王敏(2008), 『日本と中国 相互誤解の構造』, 中公新書.

  • 王敏(2011), 『鏡の国としての日本――互いの〈参照枠〉となる日中関係』, 勉誠出版.

  • Anne Fernald, Hiromi Morikawa. ”Common Themes and Cultural Variations in Japanese and American Mothers' Speech to Infants” Child Development, Vol. 64, No. 3 (1993).

  • Junko Kanero, Mutsumi Imai, Jiro Okuda, Hiroyuki Okada, Tetsuya Matsuda. "How Sound Symbolism Is Processed in the Brain: A Study on Japanese Mimetic Words" PLOS ONE, 9 (5): e97905 (2014).


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