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お菊さんは何故、祟らねばならなかったのか。朗読・皿屋敷を配信しました。

こんにちは、月邑です。
今日は朗読・皿屋敷をスタンドfmで配信しました。
百物語まで残り7本。
今日は93本目に配信した皿屋敷について、少し深掘りしていこうと思います。


1.日本三大怪談の中で最も異色な作品


日本三大怪談といえば、四谷怪談・牡丹灯籠・番町皿屋敷。
いずれも落語、講談、歌舞伎、演劇、ドラマとして長く愛されている作品です。

四谷怪談も牡丹灯籠も男女の恋愛の行き違いで、女性が霊魂として末代まで祟るというのが共通のストーリー。
しかし、皿屋敷だけはあで艶のある話はなく、とにかく主人から折檻をされたことで怨霊となり、家を祟って潰してしまうというお話です。

番町皿屋敷は何故、このような違いがあるのかを考察していこうと思います。


2.皿屋敷だけが持っている特徴

番町皿屋敷には、大きな違いがあります。
それは、お菊さんの身分。

四谷怪談のお岩さんは、結婚後家から追い出されたとはいえ、田宮家の一人娘。田宮家は役職を持った家で、それなりの名家であることが伺えます。
ゆえに、病気で容貌が悪くなってしまっても立場で婿を迎え入れることができました。(幸か不幸かはおいておいて)
婿を迎えているので家督は伊右衛門に継がれているのかもしれませんが、やはり良いところのお嬢様であることに違いはありません。

一方、牡丹灯籠のお露さんは言うまでもなく名家の娘です。旗本の一人娘。旗本の結婚は、旗本の家同士で結ぶのが当時の通例だったので新三郎とは身分違いの結ばれぬ恋。
女中のお米を連れて町を歩くのでもわかる通りです。

では、肝心のお菊さん。
お菊さんはお女中さんです。
(播州皿屋敷では殿様の家臣の妾の設定があります)
お城のお女中さんなので、良い家の出身であるんだろうと推測はできますが、お菊さんには「家の家督」問題がありません。
特別な権利を持っているわけでもなく、身分も他の二人と比べれば低い。

すっぱり言ってしまえば、お菊さんだけが普通の女性なのです。

青山の家の中では替えが効くお女中さんというポジション。
名家に奉公にでるのは、平民からすれば名誉なこと。本当に、いくらでも替えはきくこです。だから青山家の乱暴な主人達は、お菊さんをあんなに無下に扱うことができるのです。

お菊さんは折檻され、空き部屋に押し込められ、松の内があける15日に殺されることが決まっています。

自分が死ぬ日が近づいてくる気分は、どんな気持ちだったのでしょうか。
ひょっとしたら自分の無力さを嘆いていたのか。
それとも、主膳達の無体な仕打ちに怒っていたのか。
可哀想だと思い、自分の出来る限りをやる女中達を恨んでいたのか。
食事もとらず、水も飲まないお菊さん。
彼女は一体何を考えていたのでしょう。
残念ながら、田中貢太郎の小説にもその心情は描かれていません。

3.幽霊になるまで注目されないお菊さん

田中貢太郎の皿屋敷にはもう一つ特徴があります。
なんと、お菊さんのセリフは怨霊になって皿を数えはじめるまで一言も存在しないのです。

主に主膳の妾、主膳の奥方、そして主膳本人の3人しか話していません。

ちょっと捻った見方をすると、お菊さんは怨霊になるまで「取るに足らない人だった」という解釈につながります。

お菊さんが、特別になるためには。

自分が死んで怨霊になる方法しかなかったのではないでしょうか。

青山主膳の奥方のセリフから、奥方は人の話を聞かない人だと言うことが察せられます。
また、主膳本人も女中の言い訳を聞こうともせず、刀を抜いて指を叩き落とす非道っぷり。
きっとお菊がいくら訴えたとしても、聞く耳を持とうともしないはずです。

お菊は皿を割りたくて割ったのではない、ただ不幸な事故がおきてこういう風になってしまったのだ。
それを伝えたかっただけなのかもしれません。

なんだかそんなことを思いついて「あぁ、現代人と通じるものがあるなぁ」と思わざるを得ませんでした。

3.死んで特別になろうとする人

ちょっと酷いこと言いますが、よく「死をもって何かを訴える」という、悲しいことをしてしまう人がいます。
私も考えたことがあるし、全員がそうとは言いませんが、何人かは思い当たるのではないでしょうか。

死というものから遠ざかった現代において、「追い詰められて死ぬ」ということがある意味、美しく見える瞬間があります。

世界大戦を扱った映画で、死を覚悟して敵陣に突っ込む兵士の美しさ。
漫画で描かれる、確実に殺されるという死地に向かうヒーローの格好よさ。

私たちの周りの創作物には、「覚悟=死」という非常にヒロイックな感性がつきものです。
そして、創作の中で死んでしまった人、あるいは死から生還した人の姿に感動を覚える。
その美しさに影響された生死の表現を日常でもみることがあります。

「死ぬ覚悟で頑張ります」
「死に物狂いで頑張りなさい」
「死ぬことに比べたら、なんでも平気」
どの表現も、死を最上の美しいもの・恐ろしいもの・権威のあるものとして認識しているからこそ出てくる表現だと思ってます。

現代人っぽいねーと思うのですが、それが何故かと言うと、戦国時代または江戸時代に形成されたと言われている皿屋敷では、命は軽い扱いを受けていると思われる部分があるからです。多分、明治時代ごろもそうだったのではないかと思います。
田中貢太郎は1880年(明治13年)から、1941年(昭和16年)を生きた人です。
もし田中貢太郎が現代人と同じく命に価値を見出していたのなら、お菊さんの心情や、その死に何を賭したのか描くのではないかと思ったのです。

田中貢太郎の小説の中で、彼女がどう死んだのかは明確に描かれていません。
自分から井戸に身を投げたのか、それとも足を滑らせて落ちてしまったのかすら明確に描かれていません。
ですが、少なくも、小さな空き部屋で食事も水も取らないと言う描写があるので、彼女が死に向かおうとしていることは察しがつきます。
その際の描写が、

傷口をしばってやる者、水を汲んでやる者、食事を運んでやる者、それは哀れな女に対する心からの同情であったが、お菊は水も飲まなければ食事もしないで死んだ人のようになって考え込んでいた。
(田中貢太郎 皿屋敷より抜粋)
https://www.aozora.gr.jp/cards/000154/files/4484_11820.html

たったこの一文です。
窓から抜け出すために極限まで痩せて抜けようとしたと考えることもできますが、それだと井戸で皿を数えながら家を祟る行為が筋に合いません。

少なくとも、当時のお菊さんにとって自分の命は価値の低いものだったと考えられます。
ではなぜ、井戸に身を投げたのか。
何故人は、この話に共感をして何百年も経った今まで語り継がれてきたのか。

それは、お菊さんが命を賭したと思われる「共感」が鍵を握るのではないかと思うのです。

お菊さんは死をもって、ただ自分の思いに共感して欲しかった。その為に井戸に身を委ねたのではないかと想像してしまうのです。


4.何故、井戸に身を投げたのか

井戸というのはオカルト界隈に詳しい方であれば、ご存知とは思いますが、神様が宿る場所と言われています。
龍脈や竜神にまつわる話もあり、昔の人が命を司るものとして、運気にまつわるものとして、井戸を特別視していたことが伺えます。

古い井戸というのは現代の怪談などでもよく小道具として使われ、澱んだ水には良くないものが取り憑くという話すらあるのです。
今と昔ではおそらく恐れ方が違うと思われますが、現代にも井戸への畏怖という価値観は多少なりとも残されていると思うのです。

江戸時代。おそらく今よりも、もっと神仏信仰が身近にあった当時のお菊さんにとっても、古井戸は特別な場所だったのではないでしょうか。

自分の無念を伝えるために、井戸に住む何者かに身を委ね、自分の無念を伝えるべく、怨霊になってしまったのではないかと思うこともできるのです。

お菊さんは、自分の力で怨霊になることはできなかったと考えることができるのです。
古井戸に身を投げて身を委ねたからこそ、皿屋敷の井戸は特別なスポットになってしまった。
そうじゃなきゃ、もともとあったはずの古井戸が急にどうこうなると考えられないのです。
また、無念にしてもお菊さんの情は、恋慕の情と比較すると、変な話だけどじっとり絡みつくような念がありません。

お菊さんは死に向かいながら、どうやったら自分の無念を伝えられるのかと考えたのではないでしょうか。

長いものに巻かれろ、強いものの力を借りろ。
そうだ、古い井戸の力を借りよう!
どうせ15日になったら殺されちゃうし!

と、まあこんな思い切りで身を投げたのかどうかはわかりませんけれど。

ある意味でお菊さんは、自分の共感を喧伝する為に怨霊になったということが出来ると思うのです。
非常に現代っ子っぽい考え方じゃね?と思うのです。

共感をされたい、誰かに伝えたい。
うん。
自分にもあるなぁ、その気持ち。

5.私たちは現代を生きるお菊さん

なんだかお菊さんは当時のインフルエンサーの力を借りて、自分の無念を訴えている女性のように見えてきませんか?

私も見方を変えれば、現代のお菊さん的な存在っぽく思えなくもないのです。
noteやら各種SNSやらの、強い力を借りて、誰にも聞いてもらえないようなこんな与太話を喧伝している。
見方を変えると、私も、そしてあなたも、お菊さん。

あら不思議。
お菊さんがなんだかとっても身近な存在に感じてきました。

お菊さんは自分の命を捨てて、自分の訴えを届けるために古井戸に身を委ねました。
ですが、現代のお菊さんであるところの私は、なんかあれば文章にして、誰かに届かずともこうやって自分の意見を伝えようとします。

話はちょっと飛んでしまうんですが…

死を特別だと思って、訴えたいことがある人が死という付加価値をつけて命を絶つことって、あるじゃないですか。
あれ、やめてほしいと思っているんですよね。

受けた酷い仕打ちを、今は命を懸けて発信するなんてことしなくていいんです。

文章に書いたり、動画にしたり、音声にしたり。
誰にも見られないかもしれないと思うかもしれませんが、そう言う時は力を持った人の手を借りればいい。
当時は女中の言葉を真剣に聞く役所なんかありませんでした。
でも今は、困った人を助けるために行政が存在します。
頼りない機関かもしれませんけど、死ぬよりは「助けて」という方が現代では圧倒的にコストが安いんです。
特に全世界の人々が生死の間にいる今は、自分たちが思っているよりも「死」の価値は下がっています。

でも、私たちは私たちの命を特別だと思ってる。
むしろ、思いすぎている。
現代人は命を軽んじるみたいなこと言う人が言いますが、実際は逆。

結構な人が、自分が死ぬことは特別だと思ってることに疑いはないんですよ。
そうじゃなきゃ、死をもって訴えるなんてやらないんで。死をもって詫びるっつって、偉い人が自殺することなんて絶対ないんで。
私は今の時代になって、まだそんなことするやつがいるなんてと、正直悲しくなるんです。

何度でもやりなおせるじゃないですか。人生なんて。
会社潰れようと、いいじゃないですか。
また、新しいことやれば。
失敗したっていいじゃないですか。
だって、生きてるんですよ。

なんで死というものが、全てを問題なく済ませる魔法のカードとして使いたがるんですか?
それはもういいやって投げ出したことと同じですよね? って、時々言いたくなるんですよね。

死は特別じゃありません。生物の、自然の摂理です。

死んで特別になろうとしちゃダメですり
お菊さんのように数百年語り継がれる伝説に私たちはなれません。
それなら、生きて生きて、天寿を全うする方が大事です。どんなことがあったとしても。

なんか、だからお菊さんが古井戸で今も怨嗟の声を上げてますってラストがちょっと嫌だなと思ってて。
本来なかったオキクムシの話を付け足しました。
(小説版にはないのですが、バリエーションによってはオキクムシ大量発生事件を含んでいるものも存在するそうです)

お菊さんの魂が、古井戸から現世へ何らかの形で還っていったらいいなぁと思います。

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