物理学と「時間の流れ」(Tweetの補足)

一昨日、私が投稿した上記のツイートについて、あらためて補足します。

この投稿は、「時間」というテーマで物理学者、心理学者、神経科学者、哲学者が、それぞれ異なる問題意識から本を出していることを面白く感じ、その印象を――ややデフォルメして――言葉にしたつもりものでした。

ここでは、前段の「物理学者の時間の本:「時間の流れは存在しない、なぜなら〜。ちなみに、それは心が生む錯覚」」の部分についてだけ、若干の訂正を含め、補足します。

ここで念頭にあったのは、少なくない物理学者がとる(と思われる)、いわゆる「永久主義」的な時間観でした。たとえば、次のような時間の見方です。

「物理学者を信じる我々にとっては、過去、現在、未来の区分けは単に、しぶとくはあるが錯覚に過ぎない意味しかもたない。」アルベルト・アインシュタイン、(ブオノマーノ著、村上郁也訳『脳と時間』より引用)

ちなみに、こうした見方は「絶対的同時性」が成り立たないことを相対論で示したアインシュタインから始まったと思われがちですが、哲学者の青山拓央氏は「ニュートン力学においてすでに、「今」は物理学にとって不要で定義困難なものになっている」と指摘し、物理学者デイヴィッド・ドイチュの著書から「ニュートンの物理理論のなかには、時間の流れへの言及はひとつもない」といった記述を引用しています(『心にとって時間とは何か』)。

このような、「時間の流れはない」という見解を貫いて書かれたのが、数日前に発売されたばかりの吉田伸夫著『時間はどこから来て、なぜ流れるのか?』です。

同書から引用します。

相対性原理を認めるならば、「現在」だけがリアルなのではなく、「過去」も「未来」も同じようにリアルだと考えざるを得ない。「現在」という物理的に特別な瞬間など、もともと存在しないのである。どこからともなく作用して運動や変化を生み出す「時間の流れ」も、あえて想定する必要がない。」『時間はどこから来て、なぜ流れるのか?』p.76

吉田氏は、「物理現象が過去から未来へと順番に決まっていくのではなく、現象全体を単一の整合的な対象として扱うという手法」(p.194)――私の理解では「永久主義」の時間観――をとったうえで、時間の方向性の謎やタイムトラベルのパラドックスなどを、首尾一貫した仕方で解消していきます。

※重要な補足として、吉田著では「「存在」よりも「生成」の解明を目指すべき」(p.197)と考えた物理学者プリゴジンを取り上げつつ、すべての物理学者が本書のような(永久主義的な)時間観をとるわけではないことに注意を促しています。

もし、時間の流れが錯覚にすぎないのであれば、「ではなぜ、時間の流れを私たちは感じるのか?」という問いが生まれます。これを考えているのが、冒頭のツイートの2,3行目に述べたとおり、心理学者・神経科学者だと思います。

なお、吉田著『時間はどこから来て、なぜ流れるのか?』では、最終章が「時間はなぜ流れる(ように感じられる)のか?」と題され、ブオノマーノ『脳と時間』などを参考にしつつ、心理・神経科学的な解説がなされています。この章には著者ならではの視点も多々あり、(一部、私自身とは見解が違う点もありますが)非常に面白いです。

ご推察かもしれませんが、私がTwitterで「物理学者の時間の本:「時間の流れは存在しない、なぜなら〜。ちなみに、それは心が生む錯覚」」と書いたきっかけは、この吉田著を読んだからでした。同書や、アインシュタイン、ドイッチュの言葉のことが頭にあり、物理学者の多くは「永久主義的」な時間観のうえで「時間の流れは心・脳が生み出す錯覚である」という見解をとると想定していました。

が、その後のTwitter上でのやりとりを経て、安易な一般化だったかもしれないと思っています。物理学者のなかにも、世界の側で時間が流れている(それをどういう意味にとるにせよ)と考える方もいそうですし、「時間の流れの説明」を、心理学や神経科学に譲らず、物理学の課題として引き受ける方もいるのかもしれません。

「永久主義/現在主義」のような哲学用語を使って科学者(物理学者)のスタンスを語ることの危険性は自覚しているつもりですが、本note自体も人によっては批判に値するかもしれません。いずれにせよ、当初のツイートは雑で無防備すぎると感じられたため、ながなが補足した次第です。(このテーマの議論は、慎重を期さないと容易に相互不信につながります。100年来の論争が教えてくれるとおり。)

「哲学」については触れずじまいでしたが、現在、『心にとって時間とは何か』を精読しながら考え中です。いずれどこかに書きたいと思います。

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