他人の研究の価値が分からないとはどういうことか:谷村ノートと森田ノートから考える

物理学者の谷村省吾先生(以下、谷村氏)が昨年出されたpdf(通称「谷村ノート」)に対する、科学哲学者の森田邦久先生(以下、森田氏)の応答が出された。

http://kisoron.hus.osaka-u.ac.jp/events/reply.pdf

平井靖史先生のツイートに従って、「森田ノート」と呼ぶことにしよう。

このリプライは、昨年11月のトークイベントでも予告されていたものだ。

森田ノートは、谷村ノートにおける森田論文(『〈現在〉という謎』所収)への指摘について逐一応答したものになっていない。「もっと緻密な議論を」という谷村氏に対し「まったくおっしゃる通りで、もっと練っていきます」(森田ノート、p.27)と受ける箇所もあるくらいで、あらためて自身の論文を弁護してはいない。森田氏の主眼は、谷村ノートで繰り返される「哲学は物理学を無視している」との批判をしりぞけること、そして、森田氏の研究を含む、哲学(形而上学)への谷村氏の評価に対する抗議にある。

何度も繰り返し述べたが、哲学者は科学の成果をないがしろにしていない。むしろ、ここが最大のすれ違いだったのではないか? 私の観察では、谷村氏が一方的にこちらの問いの価値をないがしろにしている、それだけだと思う。(森田ノート、p.31)

谷村ノートで突きつけられた、徹底的で辛辣な批判の数々を一部は受け入れつつも、大部分は「いや、さすがにそれは言い過ぎでしょ」と押し返す森田氏。少し頑固なところもありながら、素朴で飾らず、誠実な森田氏の人柄が滲み出ていると感じた。

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私は『〈現在〉という謎』の発行当初から、この論争に強い関心を持ってきた。「時間」というテーマへの長年の興味もあるが、「学問のスタイル」や「探究の価値」をめぐる対立に、目を離せないものを感じてきた。

このnote記事では、「谷村ノートと森田ノートのどちらに軍配が上がるか?」といった視点は取らない。そんなジャッジができるはずがないし、私自身の素人意見を書いても仕方がない。私がむしろこの論争からくみ取りたいのは、「ある学問的研究の価値を評価するとはどういうことか」ということである。

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幅広い分野の研究者と接していると、他の研究者(や研究者集団)への、いわゆる「ディスり」を聞く。それもかなりの頻度で。よりちゃんとした言葉でいえば、その研究の「価値に対する疑念」だ。私自身も、学生時代から今にいたるまで、数多くの研究に対して、心の中でその価値への疑問を感じてきた。…「そんなことして意味あるの?」「そのアプローチで何かが分かったことになるの?」「それで、何が嬉しいの?

でも、いったい、研究の「価値」とは何なのか。ある研究の価値にケチをつけるとき、私たちはいったいどんな理由でそれを行っているのか。それを考えるうえで、谷村ノートや森田ノートは、これ以上ないケーススタディになっているように思えるのだ。

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谷村ノートは、哲学者たちの探究の価値を疑う言葉で満ちている。以下は、同じく『〈現在〉という謎』に参加した青山拓央先生(以下、青山氏)の章に関する記述である。

しかし、「時間」や「物質」や「意識」など現実世界に密接に関わる概念に関して現実離れした仮定を立てて(現実離れしていることをおそらく本人も内心では承知しながら)、「熱い」とか「痛い」とかの、現実にあなたも感じていらっしゃるであろう経験に関する概念を言葉の上でのみ吟味して、「いまは心身一元論を疑う立場を採っているので、意識が物質の物理状態だと仮定することは論点先取だ」などと言語的揚げ足取り対戦を交わして、現実離れした仮説(意識は物理系の物理状態ではないという仮説)を論理だけを用いて否定することがいかに難しいかと論ずることに、いかなる価値があるのだろうか? 率直に言って、私はそのような議論に寸分の価値も認めない。そのような問題を1秒でも(実際には何週間も)真剣に考えてしまった時間が惜しいくらいである。(谷村ノート、p.17、強調はnote筆者)

ちなみに、谷村氏はこれを脊髄反射的に言っているのではない。数年にわたる森田氏や青山氏とのやりとり、コメントとリプライ、熟考を経たうえで「寸分の価値も認めない」と言っている。このような谷村氏に対し、森田氏は「谷村氏が一方的にこちらの問いの価値をないがしろにしている」と抗議する。

しかしこういうことは、「哲学」と「物理学」といった大きな学問区分のあいだでだけ起こるものではない。現に、森田氏と谷村氏も、彼らのノートのなかで、マルクス・ガブリエルの哲学と量子力学のQBismをそれぞれ批判している。

たとえば、近年話題になったマルクス・ガブリエルという哲学者が著した『世界はなぜ存在しないのか』という著書があるが、この中で、ガブリエルは彼独自の「世界」や「存在する」の定義を与えて、「世界が存在しない」ということを論証している。しかし、「世界」や「存在する」に対して与えられた定義が勝手なもので、私たちがこれらに対してもっている理解とかけ離れていれば、それを用いて「世界が存在しない」ということを論証したと言われてもどういう意義があるのかわからない。(森田ノート、p.5、強調はnote筆者)
量子論の解釈に QBism(Quamtum Bayesianism)という一説があるが、これは提唱者のフックス(Fuchs)が(おそらく面白がって)そう命名したものであり、たしかにこれは一つの主義・主張であって、「量子ベイズ主義」と呼ぶにふさわしいかもしれない。QBism は物理実験で正否の決着がつくようなものではない。物理学者の大勢はQBism を肯定も否定もしていないし、物理学の一部だとは思っていないだろう。(…)私はQBism に対して、公平な観点から見て、あれは見当違いの説だと思っている。(谷村ノート、p.73、強調はnote筆者)

このように、哲学者が別の哲学のアプローチの意義を疑問視し、物理学者が別の物理学者の学説の意義を疑う。こうしたことは、学問において普通だし、むしろなくてはならない健全なことだと言えるだろう。

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しかし、こうした「他人の研究の価値への疑念」は、なぜ生まれるのだろうか。

「研究」という活動を、何らかの「問い」を立て、それに自ら「解を与える(すくなくとも、解に近づく道筋を示す)」営みだとすれば、価値を疑う対象は余地は「問い」と「解」それぞれについてあるだろう。さらに、「問い」の価値を疑う場合にも、その理由はさまざまあると思われる。以下、パッと思いつく範囲で、「研究の価値にケチをつける観点」を列挙してみる。

(A)問いの価値への疑念
 (A-1)問いが意味をなしていない
  (A-1-1)問いのなかに、すでに論理的な矛盾が含まれる
  (A-1-2)問いのなかに、意味を持たない概念が含まれる
  (A-1-3)問いのなかに、事実と異なる前提が含まれる
 (A-2)問いはすでに解決済みである・疑似問題である
 (A-3)問うことに価値がない
  (A-3-1)批判者にとって価値がない
  (A-3-2)研究者本人を含む、すべての人にとって価値がない

(B)解の価値への疑念
 (B-1)方法への疑念
  (B-1-1)問いを解く見込みのない方法がとられている
  (B-1-2)より有望な方法が無視されている
 (B-2)解の正しさへの疑念
  (B-2-1)論証が論理的に正しくない
  (B-2-2)すでに知られた事実と食い違う

この分類が妥当かはすぐには分からない。抜けやダブりもあるかもしれない。違う整理の仕方もあるだろう。たとえば、谷村氏自身は、以下のような分類を示している。

哲学者はしばしば「科学者に問題を共有してもらえない」と嘆いているが、問題共有の失敗にはいろいろなパターンがあると思う。
(1)科学的あるいは経験的見地から結論がはっきりしすぎていて、それを問題として取り上げる意義がわからないパターン:時間の経過は実在するか、絶対的現在は存在するか、天敵と出会った1万年後に恐怖の意識が生じることがあり得るか、現象ゾンビは存在し得るか、など。
(2)何をどう問題視しているのかわからない、言葉の意味がわからないパターン:過去は実在するか、など。
(3)正当化・保証されていないということはわかるけれども、正当化する方法があるとは思えないし、哲学的議論によって決着がつくとも思えないパターン。とくに自己正当化の問題:科学における帰納的推論はつねに正しい結論を導く保証があるのか、唯物論 的方法は正しいのか、自然法則は外部世界にあるのかまたは人間の約束事にすぎないのか、物理定数の値は未来永劫変わらないか、など。
(4)哲学者の思考様式に染まらないと問題化しない問題というパターン:科学はメタフィジカルなコミットメントを負うか、 など。
(5)問題設定が粗雑すぎて科学的検討の俎上に載らないパターン:原因と結果とは何か、など
(6)一般性を帯びすぎた極論選択問題になっていて、どれを選んでも満点の正解にはならないパターン:実在論・反実在論論争など。
(谷村ノート、p.98、強調はnote筆者)

これらの六つの「パターン」は、ある程度は先に挙げた(A-1-1)~(B-2-2)と対応づけることもできそうだ。

いずれにせよ、他人の研究の価値に疑念を持つ理由には、複数のタイプがあることを認識することが重要だと思う。

谷村ノートにも、数多くの種類の批判が含まれている。たとえば、次の一節。

私は哲学という学問の歴史的価値は認める。しかし、いまや人類が世界を観察したり世界を操作したりするテクノロジーは百年前の人類が想像もしなかったレベルに達している。それでも何千年も前から使われている言語という道具のみに頼って哲学研究を営むという気が、私には知れない。(谷村ノート、p.61、強調はnote筆者)

ここで見られるのは、哲学研究の「(B-1)方法への疑念」と言えるだろう。ちなみに、こうした批判(「言葉だけで何がわかると言うのか」)は頻繁に聞かれる。当然、哲学者の側にも答えが用意されているはずだ。その一例として、青山氏の過去の著作から引用しておく。

分析哲学の手法(…)の独自性はどこにあるのでしょうか。それは、言語を基礎的で自律的なものと見なし、言語の機構(メカニズム)を何か別の機構のもとで説明するよりも、逆に、言語の機構の解明によって他の機構を説明していくところにあります。分析哲学史における「言語論的転回」(linguistic turn)と呼ばれるのは、この逆転的な発想です。(青山『分析哲学講義』、第1章)
(…)たまに、次のような批判を聞くことがあります。──分析哲学者がいくら自由や幸福や死などについて論じても、それは結局、言葉としての「自由」「幸福」「死」を論じているにすぎない。言葉についていくら論じても、実際にどう生きればよいか、つまり実存的な哲学については何も分からない──。 しかし、この批判はそれだけでは表面的と言わざるをえないでしょう。われわれの人生は言葉の介在によって初めて、このような人生としてあるからです。「自由」「幸福」「死」といった言葉への考察なしに、いきなり自由・幸福・死そのものについて思考できると考えるのは、哲学的にナイーブすぎます(それがどれほどナイーブかは、実際にやってみればすぐに分かります)。(青山『分析哲学講義』、第1章)
(…)次のような批判を聞くこともあります。言語は人間の主観的なものであるから、客観的な自然のあり方とは関係がない──。こうした考えの持ち主もやはり、人間のあらゆる認識が言語なしには成立しないという事実を軽視しています。後の講義で触れる通り、科学的な実験・観察でさえ、言語的な構成物としての理論なしには実行できません(…)。言語から完全に中立な客観的認識というものはありえません。人間は、科学者としても一人の生活者としても、言語なしには生きられないのです。(青山『分析哲学講義』、第1章、強調はnote筆者)

谷村ノートに戻る。下記は「(A-2)問いはすでに解決済みである・疑似問題である」パターンの批判と言えるだろう。

物理学は「全宇宙の万物において一斉に時間が経過している」という直観をとっくの昔に明確に否定しているのである。現実にあると言えるのは、マクロ観測系それぞれの現在とそれぞれの時間経過だけである。動的時間論(絶対的な時間の経過が実在するという立場)も極論だったが、静的時間論(時間の経過は実在しない、すべての時刻が同等に実在するという立場)も極論であり、両方とも不適切である。各自の固有の時間経過が織り重なっているという描像を物理学は支持する。これもまた、哲学的方法ですべての可能性を列挙しようとしたが、哲学者は極論しか思いつかず、哲学者の想像力は物理学には及ばなかったケースの一つだろう。「《現在》という謎」は、哲学の問題としては終わっているのであり、あとは物理学が引き受ける問題になっている。(谷村ノート、 p.103、強調はnote筆者)

谷村氏は、「現在主義か永久主義か」といった時間の哲学の問題設定が、物理学に照らして意味をなさない、と考える。物理学を真剣に勉強すれば問題にならないような問題を、哲学者はいつまでも考えている。そんなことに価値があるのか? という見方だ。

これに対しても、一つの応答となりうるような一節を、同じく青山氏の著作から引用しておく。

時間の哲学を表面的に見るなら、時制論者と無時制論者の対立〔引用者:今の言葉づかいでは「現在主義と永久主義」の対立に対応〕によってそれは駆動されてきたと言えます。でもこの対立は、集団と集団の間だけでなく、一人ひとりの時間論者の内部でも生じているに違いありません。時制論者も無時制論者も、相手の思考に無視できない力を感じ、だからこそ言葉を尽くしてそれを批判しているのです。そうした引き裂かれた精神がなければ、この対立にそもそも参入していく強い動機は得られないでしょう(これは、クオリアをめぐる心の哲学での対立とよく似ています。…)。(青山『分析哲学講義』、第9章、強調はnote筆者) 

谷村氏は、青山著がいう「引き裂かれた精神」を感じていないために、時間の哲学における「問い」の価値を認めないのかもしれない。しかし、もし谷村氏が、少なくとも森田氏や青山氏のなかに「引き裂かれた精神」があることを(本人が実感できなくても)認めているならば、批判は「(A-3-1)批判者にとって価値がない」の領域に入ってくるかもしれない。

もちろん、谷村ノートはこのほか森田論文や青山論文の「中身」についても、その論理の誤りや物理学の知見との齟齬を指摘している。それらは「(B-2)解の正しさへの疑念」に括られるだろう。

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このように、谷村ノートにおける哲学批判には非常にたくさんの観点が同居している。それに同調する人も、反論する人も、どの観点に賛成・反対するのかということを、整理してから考えていく必要があるように思う。それでこそ、「谷村ノート」というこの歴史上稀有な文章の価値を、私たちは最大限活かすことができるだろう。

極めて不完全な考察だが、いったんここでおしまいにする。


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※その後、谷村先生のコメントを受けての投稿:



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