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『ホドロフスキーのサイコマジック』

 「明日は在宅勤務だし、せっかくなのでこれから映画でも観に行こうかと思ってたけど、都内のコロナ感染者数が急増し始めたからやっぱり観に行くの迷ってるんですよね」
 帰宅がてら、隣を歩く同期に話しかけてみた。口ではこう言ったが、実はちっとも迷っていなかった。頭の中には「映画を観に行く」という選択肢しかなかった。こうして徐々に社交辞令を吐くのが上達していくのだと思う。毎日臆面もなくウソを吐きながらカネを稼いでいると、段々とじぶんのツラが厚くなっていくような心地がする。マスクでコロナの感染を防ぎ、ウソでじぶんの流出を防ぐ。新しい生活様式。

 同じ部署の隣の席の同期とは、まだ適切な距離感の取り方が分からない。同期は同期でも他の同期であれば、こうはならなかったと思う。
 相手とは職場では口を利かないことがほとんどだが、未だに毎日一緒に帰宅しているし、帰り道ではタメ口混じりの敬語で仕事以外の話もする。
 生活の保障が見込めるなら就職なんてせずに大学院に残りたかったとか、どうして今じぶんがここで働いているのかがよく分からないとか、既にこの生活に飽きてしまったとか、転職が視界をよぎっているとか、要するに相手とは「同期」という括りの人間に対して本来共有すべきではない次元の話が自然と出来てしまうので、余計に距離感の取り方が難しい。他の同期との飲み会の帰りにタメ口でLINEを送ってしまったときは、三日ぐらい落ち込んだ。距離感を間違えてしまったと思った。何もかもすべて話してしまいそうだし、きっと彼とは一緒に酒を飲むべきではないのだと思う。

 元々は他の映画を鑑賞するつもりだったが、あいにく目当ての映画は満席だった。このまま帰宅する気分でもないし、いつか観に行こうとも考えていたので、何となく『ホドロフスキーのサイコマジック』を観ることにした。ホドロフスキーは酒も煙草もカフェインも摂取することなく、あの「無意識にクる」映像を作り続けているらしい。私はじぶんの頭でイケない人間なので、映画館でアメリカ産のキツいビールと塩味のポップコーンを購入した。じぶんの行動が完全にただのサラリーマンと化してきており、瞬時にデカい絶望に襲われた。
 そういえば、サラリーマンのサラリー(salary)はラテン語のsalariumに由来する。ローマ時代の人間の給与は「塩」で支払われていたらしい。すなわち、かつて「塩」は貨幣の代替物であったということである。これを踏まえると、私はじぶんで稼いだ「塩」で塩味のポップコーンを購入したらしい。またデカい絶望に襲われた。延々と貨幣を循環させるだけで、最終的に私の手には何が残るのだろうか。

 閑話休題。本作の概要を示そう。ホドロフスキーによれば、サイコマジックとは、精神分析が用いる方法とは真逆の手法を利用して、トラウマに苦しむ人々のこころに癒しをもたらすセラピーである。精神分析は「言語」を用いた形で患者のトラウマに向き合う科学的な治療法であるが、ホドロフスキーの提唱するサイコマジックとは、「言語」ではなく「行動」を利用したセラピーなのである。
 ここでの「行動」とは、ホドロフスキー自身がトラウマに苦しむ患者に「触れる」とともに、患者自身がシンボリックなパフォーマンスを行うことを意味する。じぶんを苦しめるトラウマからじぶんを解放するイメージを盛り込んだ行為を儀礼的に行うことで、患者はトラウマに抑圧された自己からの自由を手にし、文字通り新たなじぶんへと再生していくのである。サイコマジックは、アートを利用したイニシエーションによる本来的自己への還帰(歓喜)の物語とでも呼べるかもしれない。

 本作は、ホドロフスキーの過去の作品が、ホドロフスキー自身のトラウマに呼応した「彼が彼自身を救うためのサイコマジック」の実践例であったことを示すとともに、ホドロフスキーの元を訪れる様々なトラウマを抱えた人々が、実際にホドロフスキーというパフォーマーの手によって「癒し」を獲得していくプロセスを捉えたものである。父親からの虐待によって自殺願望に苛まれた男性、母親を一度も愛したことがない女性、結婚式の前日に婚約者が自殺した女性、吃音症に苦しむ中年男性など、ホドロフスキーに悩みを打ち明ける人々の姿は多種多様である。このように、個々人の悩みや苦しみの原因はバラバラであるが、彼らを苦しみからの解放への道へと誘う上でホドロフスキーが重視するものは通底している。それは「家系樹」である。

 なぜ「家系樹」なのか。ホドロフスキーによれば、我々が経験する苦しみは、我々の祖先の苦しみが、我々と祖先が共有する集合的無意識の中で渦巻いているがゆえに生じる。すなわち、家系樹を辿ればじぶんが直面する苦しみと同じ苦しみを負った祖先がどこかに存在した可能性が見えてくるということである。同じ家系樹を共有する者達は、世代を超えて同じ苦しみの連鎖に苛まれる。だから、苦しみと向き合う上では、じぶんが根を持つ集合的無意識との対話を経ることが、苦しみからの解放に近付く一歩となる、というのがホドロフスキーが家系樹に着目する理由であろう。
 吃音症の中年男性を治癒する際のホドロフスキーは、自ら父性の原型となることで、男性の抑圧された男性性に力を授ける。また、深刻な鬱病に悩む高齢女性への治療の際には、女性を抱き締めながら、彼はこう答える。あなたの苦しみは私の苦しみである、と。
 ――――個々人の家系樹は、さらに「宇宙の意志」という巨大な世界樹に連なっている。ここで個々人が各々の集合的無意識に立ち返ることこそが、全体が個物との調和をなす基底となる。
 このようなビジョンが、彼のセラピーからは垣間見えてくるのではなかろうか。

 アートを媒介に個々人の傷を癒す活動に注力してきたパフォーマーたるホドロフスキーは、やがてサイコマジックの実践の場を社会へと移していく。ソーシャル・サイコマジックである。メキシコ麻薬戦争へのプロテストとして、ホドロフスキーのサイコマジックは、無辜の人民の死への黙祷の意を世界全体に捧げる媒介項となるのである。今までのじぶんの他律的な人生に絶望し、他者に対する信頼の情を失った老女が、ホドロフスキーから言われた通りに公園に根を張る大木に毎日水をやる儀式に参与していく内に、自分の生が大木の生の中に組み込まれているということ、すなわち世界と自己の「つながり」を徐々に取り戻していくように。

 友人と映画を見に行くと、同じ映画館の中で、同じスクリーンに目を向け、同じ映画を見ているはずなのに、何だか友人だけがウケていて私の方のツボには入らないといった現象がよく起きる。映画を見終わった後に、居酒屋やレストランで延々と映画の感想や解釈を話し合うことも楽しいけれど、私はそれ以上に映画を鑑賞している最中に「笑い」という形で各々の感性のズレが露呈する瞬間を観察するのが好きだったりする。

 本作に関して言うと、前述の吃音症の中年男性へのセラピーのシーンで、思わず私は笑ってしまった。こればかりは堪え切れなかった。私は私の職場の隣の席の同期とはぎこちない関係にあるが、映画館の中で私の隣の席に座る中年男性は、私と同じものを見て吹き出していた。見ず知らずの相手でも「笑い」を共有できる誰かが存在するということは、とても嬉しい。なぜならば、じぶんが世界と共振している感じがするからだ。

 上記のシーンでは、「父性の原型」たるホドロフスキーが、男性の睾丸を強く握りしめながら「言語」という男性性の屹立を促すわけである。活力を注入された男性は、雄々しく大声をあげ、そして全身を金色の塗料で塗りたくった状態で勢いよくフランスの街に飛び出していく。かつて吃音症であった彼は、もうここにはいない。思いのままに言葉を話し、喜びで顔を綻ばせる彼の姿がスクリーンいっぱいに映し出されるわけである。
 過去作『エンドレス・ポエトリー』を少し振り返ろう。本作では、権威主義的な父親に対する青年ホドロフスキーの反発や、彼が強烈な恋に落ちる様子、そして詩人として独り立ちしていく姿が、こころが躍るような極彩色とともにダイナミックに描写されていく。
 同作では、ステラという名の豪傑な女性詩人が、青年ホドロフスキーの睾丸を掴んだまま町を歩き出すというマゾヒスティックなシーンがある。結局の所、独立独歩の行動詩人たる彼は、この「睾丸が握られている感じ」に耐え切れず、ステラとの別れを経験することとなる。相手を見つめることで、じぶんが相手の鏡となり、じぶん自身がカラッポになることに耐え切れなかったのであろう。
 このシーンを、本作『サイコマジック』にてホドロフスキーが吃音症の男性に行った治療法に重ね合わせてみれば何が見えてくるであろうか。思うに、ホドロフスキーは自身をフロイトと明白に差別化しているが、彼もフロイト同様、実は根っからの父権主義者、いや、別の意味で超が付く父権主義者なのではないか。かつてじぶんが忌み嫌った父親は、いつもどこかでじぶんのことを支配し続けるのである。ホドロフスキーはじぶんを縛り付けた父親との無意識の中での対話を通じて、じぶんに何も与えなかったがゆえに、すべてを与えてくれた父親の姿を再認識し、これにじぶんを投影し直すことで、新たな父性の獲得に至ったのではないかと思う。奪うのではなく、真なる生を与えるという父性を。
 さて、私は彼から何を授けられたのだろうか。答えは秘密である。

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