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『アンダー・ザ・シルバーレイク』

はじめに:「信じるか信じないかはあなた次第です」

 皆様、陰謀論はお好きであろうか。巷にはさまざまな類の陰謀論が溢れ返っている。国民は常に電磁波攻撃に晒されているとか、広告業界は広告に性的なイメージを刷り込むことによってぼくらの潜在意識を意図的に操作しているとか、金正恩には影武者が存在するとか、新型コロナはただの風邪であるとか、挙げればキリがなさそうなのでここらでやめておこう。

 世界に生じるあらゆる事象は、実はすべて陰謀論という名のビックブラザーが引き起こしたものであって、いくら自由意志を振りかざそうが、所詮ぼくらはビックブラザーの操り人形でしかないとしたら、ぼくらは操り人形としての自己に安息の地を見出すことはできるのであろうか。ここで私がいうビックブラザーとは、ある種の強権的な政治体制の可能性もあれば、ひょっとすると遺伝子、リビドー、テクノロジーといった事柄にまで射程が広がりうるのかもしれない。とにかく、ビックブラザーという存在には、ぼくらの手の届きようがない「なにか」に対して合理的説明を付与する力があるという点だけ述べておきたい。

 さて、本稿のテーマである映画『アンダー・ザ・シルバーレイク』には、どのような陰謀論が作品の地底を這いつくばっているのであろうか。本作では、隣人のブロンド美女に恋をしたオタク青年が、ロスというエンターテイメント産業への愛憎が渦巻く煌びやかな土地を舞台に突如失踪した彼女の行方を追いかける内に、ロスという街を支配する陰謀への扉に近付いてしまうというわけである。オタクを陰謀論へのパラノイアから目覚めさせたものは、ブロンド美女のキスなのか。はたまた家賃の支払いを求める家主の怒号なのか。もっといえば、オタクが陰謀論と突然目の前に現れた美女に対して異様に執着する根本的な原因は、元カノへの未練なのか。もしくはカート・コバーンのようにロックスターとしての成功をつかみ取る自己像への執着心なのか。答えはぜひとも作品からご自身の目で見つけ出していただきたい。以下で示す文章は、本作に対する私個人の読解や感想を簡単に書き連ねたものにすぎないが、ある程度のネタバレを含んでいることをご承知の上で読み進めていただければと思う。

ダメンズの大冒険

 アンドリュー・ガーフィールド演じる主人公サムは、ロスでプール付きのアパートを借り、マルボロと瓶ビールとセックスで時間を潰し、スターとして成功しえた自分の姿を引き摺りながらフワフワと覚束ない足取りで人生を消費していくような男である。彼がどのようにこの生活を維持しているのかは全くわからない。定職に就いている素振りは微塵もない。家賃も滞納しまくりである。歩き方も何だか不自然だし、とにかく覇気がない。常時フニャフニャしている。彼に関してわかることは、女とパーティー沙汰には困っていないということぐらいである。ハッキリ言って、サムは筋金入りのダメンズである。目を離すと急にスッ転びそうな不安定さが全身から醸し出されている感じといい、時折見せる間の抜けた表情といい、セフレに対して突然ガチで陰謀論を語り始める衝動性といい、彼はまさしくダメンズ道まっしぐらな男である。サムがスパイダーマンが表紙の雑誌(アンドリューといえばスパイダーマン役といっても過言ではない)を勢いよくブン投げたシーンは、ヒーローたらんと欲する自分を拒絶した心持ちを描写するシーンとして機能しているのかもしれない。

 そんなサムは、ある日同じアパートでブロンド美女のサラに遭遇する。彼女の飼う犬におやつを与えたことをキッカケに、サムは彼女と言葉を交わす関係性になり、なんとなく流れで彼女の部屋に入って甘い感じの空気感を醸し出すことに成功する。勢いで身体の関係を持とうとしたが彼女に断られたため、不完全燃焼のまま自分のアパートに戻り、翌朝ふたたび彼女の部屋を訪れたところ、サムは衝撃を受ける。なんと、彼女のアパートはもぬけの殻になっていたのだった。
 その日から、彼女の行方を何としても掴もうとするサムの捜索活動がはじまるのだが、一番の問題は「好意を持ったとはいえ、なぜサムはそこまで深い関係性に至っていない隣人女性の失踪に対してここまで異様に深く首を突っ込んでしまうのか」という点である。一時的な恋慕の情で、彼をここまでサラの捜索活動へと駆り立てることは可能なのであろうか。つまり、ここで考えたいことは、サラに対するサムのパラノイアには、サムの深層にひしめく何らかの別のパラノイアが影響を及ぼしているのではないかということである。

何者にもなれない「俺」

 夢を追うこともなく、刹那的に日常を過ごすサムの目の前に飛び込んできた隣人美女の失踪という出来事は、まさしく彼の「何かを追うことを諦めることによって生じた空白」を埋めるものとして作用したのではなかろうか。このように考えた場合、かつてはシルバーレイクに住む他の住人と同様に「夢追い人」としてエンターテイメント業界での成功を目指していた彼を、無目的な生活を送る現在の彼の姿にしたものは何であるかという点を考察すべきであろう。

 上記の点については、大きく二点考えられるのではないかと思う。
 一点目は、ロックスターとして成功する自分の未来図が見えなくなったという点である。二点目はサムの元カノに関してである。以下、順に内容を示していきたい。

①ロックスターへの憧憬と頓挫
 彼の中でロックスターという存在がいかに大きいかということは、彼の寝室にカートのポスターがデカデカと貼り付けられていること(彼がセックスやマスターベーションに興じるのは、決まってカートのポスターの前であった)から垣間見える。彼が初めてのマスターベーションに使ったオカズが、水中に沈んだ女性の雑誌表紙であったことは、やはりニルヴァーナの『ネヴァー・マインド』のジャケットを彷彿とさせざるを得ない。また、この点は事故死したと思しき富豪セブンスの娘と、サムが貯水池の中で青姦まぎれのやり取りをするシーンにも繋がってくるであろう。貯水池の中で凶弾を浴びた娘は、サムがオカズにし続けている表紙の女性のように水中に沈み、やがて深く堕ちていく。凶弾から逃れて水面を目指すサムの姿とは対照的である。サムは『ネヴァー・マインド』ジャケットの赤子の姿と重ね合わせられているのかもしれない。

 また、自分がティーンの頃に深く影響を受けたニルヴァーナの名曲「スメルズ・ライク・ティーンスピリット」をはじめとするさまざまなヒットソングが、実は一人の正体不明な音楽家のジジイによって作曲されたものに過ぎないという事実に辿り着いたサムは、その悲壮な事実に耐え切れず、ジジイがコレクションしていたカートのムスタングを手に取る。そして、クラッシュの『ロンドン・コーリング』のジャケット顔負けの勢いで、それを使ってジジイの頭を文字通り衝動的に叩き割ってしまう。つまり、サムは自分がこよなく心酔していたロックンロールという偶像破壊の物語が、自分が嫌悪する大衆文化によって作り出された偶像であったという事実を呑み込むことを拒絶したのである。陰謀論を司る親たる音楽家のジジイを「カートのムスタング」というロックンロールのアイコンを用いて撲殺することによって、サムという赤子陰謀論という名の親との心理的決別を果たしたともいえよう。まとめると、ロックスターになるという夢が不完全燃焼のままで終わったという現実、そしてそんな自分を差し置いて次々にハリウッドの世界で成功への階段を上っていく顔見知り達への羨望と憎悪の入り混じった感情が、現在の彼の無気力状態を作り出した一因として考えられる。

②元カノへの未練
 本作中盤あたりで、サムはパーティ会場にて元カノと思しき相手と遭遇する。彼女には、既にハリウッドで成功するフィアンセがいた。元カノとぎこちない挨拶を交わすサムであったが、彼が依然として元カノに対する未練を払拭し切れていないことは、ラストシーンを見れば明らかであろう。
 サムが恋慕してやまないサラが失踪していた理由は、実は入信していたカルト宗教の儀礼に参加するためであった。サムは、チェスやゲームのマップなどを駆使して読解した暗号を元に、ある山奥の民家へと辿りつき、そこでこの真相を知ることとなる。すべてを知ったサムは、高次の世界へと超越するために、事故死したとされていた富豪セブンスと共に地下空間に未来永劫にわたって幽閉されることを選んだ彼女とビデオ通話を行った後に、その場から動けなくなりそのまま気を失ってしまう。

 問題のシーンはこの後である。目が覚めると、サムは自分が「ホームレスの王」と名乗る暗号解読の節目に登場した男に地下に幽閉されていたことを悟る。ここでの男とのやり取りの中で、サムが犬用のおやつを持ち歩いていた理由が判明する。サムは、犬を飼っていた元カノのことが忘れられず、彼女の「犬」という接点を介して、彼女といつか関係を修復できる機会をうかがっていたというのである。ここから、サムがサラの失踪事件の解決に執着していたのは、先日出会ったばかりのサラに対する恋慕の念というよりも、彼がサラに対してどうしても諦めきれない自分の元カノの姿を重ね合わせていたことがその原因にあると考えられるのではなかろうか。すなわち、元カノといくら以前のような関係性に戻ることを願ったとしても、もうフィアンセがいる彼女は自分の元に戻りようがないという現実に対する折り合いの付け方を、彼は上手く見出すことが出来なかったと考えられる。彼は、自分が彼女の恋人、そしてゆくゆくはフィアンセになるという未来を実現することに失敗したのだ。だからこそ、サムは元カノの代わりにこの物語に決着を付ける対象を、暗黙裡に探し求めていたのであろう。それがサラという存在であったということだ。

 以上、「夢追い人」としてエンターテイメント界での成功を目指していた彼の姿を変貌させたものが何であったのかという点を、ロックスターとして華々しいデビューを飾るというサムの夢、そして彼がかつて愛してやまなかった元カノという存在の二点から考察してきた。さて、これら二点を踏まえた上で、あらためて陰謀論というものを考え直してみよう。
 本稿冒頭で、陰謀論ぼくらの手の届きようがない「なにか」に対して合理的説明を付与する力があるという指摘をしていたことを、覚えてくださっているだろうか。彼を異様なまでに失踪したサラの捜索へと駆り立てた(ある意味、パラノイア状態と表現してもよい)原因にこの二点があるとすれば、これら二点は、彼にとってどのような意味を持つ出来事として捉えるべきなのであろうか。

 思うに、これらは彼の心の中で「どうしても自分では思い通りに事が運ばなかった出来事」として位置付けられているものである。自分がロックスターになれなかったこと、そして元カノと恋人としての関係性を維持できなかったことは、自分の意志では手の打ちようがないことであって、これらは事実を事実として物語化することに失敗した「ある物語の断片集」としてバラバラの状態で放置されたままであった。だからこそ、サムはRPGの主人公の如くサラの捜索活動に没頭することで、間接的に自分の中で頓挫した物語化のプロセスを、完結したひとつの物語として<カタチだけでも>修復しようとしたのではないだろうか。

脱オタク 

 過去に犬に噛まれた経験のあるサムは、本当は犬が苦手であった。作中で、女性達の声が突然犬の鳴き声に変わるシーンが挿入されているのは、彼が犬に対して女性という存在を重ね合わせているからかもしれない。犬は彼にとって恐怖の対象であり、当然自分に危害を加えうる存在なのだ。女性も彼にとって同様である。
 恐らく、元カノはサムにとってこうした恐怖を超えて、無条件に自分を曝け出すことの出来る相手であったのかもしれない。元カノは、私秘的な領域を自分と共有することを是としてくれた相手、すなわち「彼という犬」を自分の縄張りに入れることを許してくれた相手であったともいえよう。だからこそ、いくら犬嫌いとはいえ「元カノと関係性を修復したい」という深層心理を抱え込んでいたために、サムはポケットの中にいつも犬のおやつを忍ばせていたのである。したがって、隣人であるサラと最初にコンタクトを取る際に彼女の愛犬におやつを与えるという行為が功を奏したのは、元々はサムが抱く元カノへの未練がキッカケであったと考えられる。
 さて、サラ失踪の事実のすべてを悟ったサムは、今後どのように生きていくのであろうか。自宅へと戻った彼は、テレビに映し出された白黒映画の「下を見ないで、いつも上を」というメッセージに見入ったあと、しばしば覗き見していたトップレスの隣人中年女性の自宅を突然訪問し、そこに転がり込む。中年女性と身体を重ねた頃には、作中では常時「スカンクの匂い」として皆から疎まれていた彼の体臭(ロスのセレブリティの世界では、彼はスターとして大成できない除け者であり、そしてこのシーンの傍観者であり続けるがゆえの「異臭」であろう)が、なぜか女性から「パチュリの香り」として評されるようになる。そして、女性の飼うオウムの鳴き声の意味を尋ねたサムに対し、女性はサムの裸体を愛撫しながら「わからない、いつも考えてるけど見当が付かなくて」と答える。サムはこの女性の言葉に対して何も言葉を発さない代わりに、窓の外のオウムのケージを感慨深く眺めるのである。こうしたサムの行動と中年女性とのやり取りは、サムが「わからないものをわかるようにする」という欲望へのパラノイアから脱したこと、すなわち陰謀論にすがろうとする自分とオサラバできたことを暗喩するのではなかろうか。つまり、サムは良くも悪くも「何者かであろうとする俺」から「何者でもない俺」へと生まれ変わったのである。

まとめ:犬殺しとは誰なのか?

 カートも、リンチの名作『マルホランド・ドライブ』の主人公ダイアンも、最期は自分の頭を銃でブチ抜いたわけだが、サムはどうだろうか。思うに、彼は自殺しない。カートは、自分が作り上げた音楽という「商業主義への抵抗」が商業主義そのものへと回収されていった現実に耐えられず、自己破壊に走らざるを得ない精神状態に追い込まれた。
 しかしながら、サムは自分の心の支えとなった名曲が、すべて一人の人物によって作り出されていたという事実に屈しなかった。すなわちロックンロールがいくら商業主義と手を組もうが、名曲が自分の心を動かしたという事実そのものにロックンロールが持つ反権威性を見出し、音楽家をムスタングで撲殺したのである。また、サラ及び元カノという「叶わぬ恋」から足を洗い、日常的に覗き見をしていた中年女性の家に転がり込み、家賃を滞納して退去寸前状態にある自分のアパートに別れを告げたというわけである。

 ビデオ通話での別れ際に、サラはサムに「新しい犬を飼うこと」を提案する。サラにとって、「犬」という存在は無条件の愛(unconditional love)を与えてくれるがゆえに心の支えとなるものであった。この提案に対して、サムは一言電話口で「考えてみるよ」と返すのみである。彼は今後、犬を飼うのだろうか。少なくとも、犬に吠えられることや犬用のおやつを持ち歩くことはなくなるのではないかと思う。「犬殺し」が何者であるのかは、作中では明示されていない。一連の犬殺しの事件が、実際の出来事であるのか、もしくはサムの作り出した妄想であるのかも判別が付かない。
 何よりも重要なのは、「犬殺し」を探すということではなかろう。ぼくらだって、ある時はぼくら自身が「犬(dog)」として他者から存在を疎まれ、時には無条件の愛を注がれるではないか。またある時は「犬殺し(dog killer)」として「他人という犬」の体臭に鼻をつまみ、彼らを路上に置いてきぼりにして見て見ぬフリをしているではないか。結局、最後にサムの命を救ったのは、彼がコテンパンに足蹴にして冷たい視線を浴びせた「ホームレス」という存在であった。

 「犬」と「犬殺し」の関係性は容易に転倒しうる。あなたも私も、どこかの共同体では「犬」として、共同体が用意してくれた縄張りの温もりに安住している。だが、実は自分自身も「犬殺し」として他者を無自覚的に自分の縄張りから追い払っているのだ。この問いは投げっぱなしにしておくべきである。犬殺しには気を付けよ。なぜならば、サムは大人になったのだから。

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