2022/01/10

また新年が明けてしまい、どうしたらよいのかよく分からなくなっているので、取り敢えず以下に年末年始の所感を記録しておく。私は永遠に眠っていたいのに、なぜ新年は毎年やってきてしまうのだろうか。

■『孤独のグルメ』について

大晦日及び元旦は、カーペットに寝そべりながら、テレ東にチャンネルを合わせ、『孤独のグルメ』の再放送を見ていた。Season1・2程度は過去に鑑賞していたし、実際に同番組に登場した近所の焼肉店(美味しかったのでまた行きたい)に友人と足を運んだ事もあるが、最新シーズンまで追いかける気力は途中で完全に途切れていた状態であった。年末年始の煌びやかなバラエティのテンションについていく気力もないし、寒い中外出して人混みに揉まれる体力もないという事で、何か適当な番組はないかとチャンネルをザッピングしていたところ、私同様、気が付いたら『孤独のグルメ』の再放送に見入っていた視聴者も相当数いたのではないだろうか。テレ東の他の番組を見ていても思うのだが、他局と比較して予算の関係で特定のテーマに資金を賭ける腹の括り具合が良くも悪くも極端にならざるを得ないせいか、テレ東は相変わらず逆張りスタイルを売りにするのが上手いように思われる。

さて、通常の『孤独のグルメ』では、松重豊演じる中高年の輸入商ことゴローが、仕事帰りに野生の勘を頼りに店に突入し、黙々と飯を平らげるというシンプルな動きをやるのがストーリーの基本構成となっているが、大晦日スペシャルではスパイスが一捻り加えられていた。それはロードムービー要素である。ゴローは、年末になぜか京都の商談相手から東京までミニクーパー(刑事役を演じている時の水谷豊が乗っていそうだ)を運ぶよう突然依頼されてしまうのである。このミニクーパーに乗り、東京までの道すがら、長身痩躯の体躯を小さな車体に押し込めながら偶然出会った各地の美食と景色を廻るというのが、大晦日スペシャルの醍醐味であった。

デリケートで古く、おまけにカーナビすらついていないミニクーパーの輸送をしぶしぶ引き受けてしまった事を当初は後悔していたゴローであったが、道中を共にする内に愛着が湧いてきたせいか、元の所有者にミニクーパーを送り届けた際には一応名残惜しそうな表情を見せていた。だが、これはこれ、それはそれといった感じで、仕事を完遂したからには早速いつものように空腹スイッチをオンにするあたりに途方もないゴローらしさを感じた。

『孤独のグルメ』の面白さとは何だろうか。私自身、ゴローとは打って変わって、食への執着が強い方ではない。味云々はさておき、最低限一日身体を持たせる栄養素を摂取出来ればそれでよいと思ってしまうため、起床後にサプリメント一式を摂取し、そのまま安心してしまう事も多い。一人で旅行に出た際には食事を放棄して移動しまくる事もザラにあるし、正直に言うと食事のために店にわざわざ長時間並ぶ神経には全く共感が持てない。ゴローの姿を見ていると、インスタ映えや他者評価なんてさておき、単純に「食欲」という人間にとって根源的な欲望を満たす過程に味わえるであろう悦びを丁寧に拾い取っている感じ、ただ、身の丈に即して自分の欲望に如実に反応している感じ、またこの欲望を欲望のままに満たす事を可能としている健康な身体が無条件に成立している感じを追体験する事が出来るからこそ、鑑賞者として面白みを感じ取れるのではないかと思う。隣の家の芝生はいつも青いのだ。人間はいつも、自分に欠損しているパーツに惹かれる。

原作者である久住昌之も、たまにドラマに特別出演したりする場面があるのだが、吉田類は当然ながら、久住も本当にお酒を美味しそうに嗜む方だなと思う。今更ながら、久住が赤瀬川原平に師事していた事を知った。最近は、展示に触れる機会が多いわりに美術史を理解していない現状が悔しくなったため、日本近現代のアヴァンギャルドについて文献を齧ってみたりしているが(ちなみに今は千葉成夫の『現代美術逸脱史』を読んでいる)、赤瀬川原平経由でもう少し勉強をしたら、『孤独のグルメ』に対する見方も多少変わるのかもしれないなという気がしている。『孤独のグルメ』でゴローがやっている事も、路上観察の一環の試みなのだから。

■初詣

毎年遠出する事が多いが、今年はコロナの影響もあり、取り敢えず初詣については地元の神社、そして通勤経路にある花園神社の二社で参拝を済ませた。

地元の神社に参拝するのは10年ぶりぐらいかもしれない。由緒ある神社で、貿易等で地元が活気を帯びていた時代にはさぞかし多額の寄付金が寄せられていた事であろうが、現在は老朽化した社殿を何とか後世に引き継ごうと氏子達が努力しているようだ。とはいえ、正月早々、ボヤが起きたらしく、急遽呼び寄せられた警察官が氏子と思しき高齢者と呑気に会話をしていた様子が印象的であった。古くから引き継がれた伝統を地域社会で支えようにも、氏子の方はというと、高齢化が進んで次世代の引継ぎ手に恵まれるかどうか定かではない状況であるし、かと言って新しく地域に移住してきた住人が地元古来のカルチャーに馴染めるかというと、それもそれで色んな側面で難しい部分があろう。地縁、血縁という紐帯が解体しかかっている現在ではあるが、元旦になると「信仰」という行為ありきで何となくどこからともなく人が勝手に呼び寄せられてくる様子を見ていると、共同体を維持するファクターとして究極的に機能し得るものは、きっと愛でもテクノロジーでもなく、宗教一点に尽きるのであろうという気がしてきた。

新年ぐらいは神の御神託に与りたいので、エイと勇気を出して御御籤箱に手を突っ込んでみたところ、釣れた結果は中吉だった。火遊びは身を滅ぼすので、神の御心に従い、純真な愛だけに専心すれば救われると書いてあった。すぐそこでボヤを起こしているクセに一体何様なんだろうと思ったが、相手は神様なので、何様も何者もけっして問うてはならぬというわけだ。触らぬ神に祟りなし。

続く二社目に参拝したのは、花園神社である。新宿という土地には通勤でよくお世話になっているし、何よりも立地的には歓楽街に囲まれているにもかかわらず、一歩足を踏み入れるとどこか妖艶で浮世離れしたようなピリリとした空気感が漂っている感じに昔から惹かれているという事もあり、たまには花園神社にお参りにいってみようかという気になった。

というのは序の口で、花園神社を参拝した理由はもう一点ある。年末、鎌倉に行き、今道子の作品を見に行ったついでに、江ノ電に揺られながら長谷寺を参拝しに行ったのだが、ここでは御本尊である十一面観音の建立1300年記念にあやかり、観音の足に直接触れる特別な催事が行われていた。志納金を払うと、観音の足に直接触れられるゾーンに案内されるらしく、私が境内をふらついている間も、観音の足の前に跪き、その足に手を触れながら深く頭を下げる様子を見せる参拝者の姿が何度が目に入った。まあ、これが強烈に良くも悪くもキッチュな光景であったのだ。薄暗い空間の中、ボウと金色に照らされた巨大な観音の足元で、小さく蹲って微動だにせず祈りを捧げる参拝者の姿を遠目から見ていると、直感的に、私が本来参拝すべき対象は煌びやかな観音ではなく、もっと卑俗かつ直接的なもの、畢竟するに男根であらねばならないという啓示が降ってきてしまい、頭がそこからどうにもこうにもいかなくなってしまった。そのため、近場で男根を祭る神社がないかリサーチした結果、花園神社に行きついたというわけである。シンプル・イズ・ベスト。

仕事を定時で片付け、花園神社に向かった際には、既に参拝客が長蛇の列をなしていた。神社に集まる人々の顔を見ると、会社帰りと思われるサラリーマン、子供連れ、カップル、ヤンチャな顔をしたお兄ちゃんなど、とにかくバリエーションが豊かであった。新宿を歩くと、いつもどこか解放された気分に浸る事が出来るのは、きっとこの土地に行き交う人々の顔の多様さのお陰なのかもしれない。町全体にいつもどこかで浅川マキの「こんな風に過ぎて行くのなら」が流れている感じがするのだ。行き交う彼らは、私がなり得たかもしれないし、なり得なかった存在でもある。新宿という町の大通り、高架下、駅のホームで誰かと擦れ違う経験は、半ば忘れかけた匿名性という自由の心地良さをいつも私に思い出させてくれる。どうか一年、全てが丸く収まりますように。自由が欲しい。

■全身脱毛

先日、2回目の全身脱毛の施術を受けた。2時間強、硬い施術台に寝そべりながら、得体の知れない熱源が次々と自分の身体に押し当てられていく様子を他人事のように俯瞰していた。ノー麻酔で施術した場合の痛みは、特にVIOに関しては人によっては泣き喚くほどらしいが、私は痛覚が狂っているのか、看護師の声だけに反応するアホなイモムシ(カフカ?)みたいな感じで、施術終了の一声が耳に入るまで施術台の上で微睡んでいた。子供の頃、イボ治療の一環で液体窒素を含ませた巨大な綿棒でジュウジュウと皮膚を焼かれ続ける地獄(凍結治療法というらしい)を味わった事があるのだが、一度あの強烈な痛みを経験してしまったせいで、他の痛みは大したものに感じられなくなってしまっているのかもしれない。刺青を入れる時の痛みは、この程度なのだろうか。もっと痛いのだろうか。寝て起きたら、この身体の一面に刺青というコードが刻みつけられていたらどうしようか。そんな事を夢想しながら、看護師に身体を任せていた。

施術中は、看護師の声、レーザーを発する機械の冷めた電子音、身体に被せられたタオルが肌を擦る感触、身体に走る微かな痛みという情報だけが私の五感に付与されていたわけだが、自分に付与される情報量は、それこそ前述した『孤独のグルメ』のゴローと取引先の顧客との会話量ではないが、これぐらいのボリュームが丁度よいのかもしれないという気がした。近頃、不眠気味でもあるせいか情報を意図的にシャットアウトする必要性を意識する事が多く、睡眠時に関しては、光を遮断するアイマスクを装着したり、加重ブランケットを購入して身体に負荷をかけている。SNSのアカウントを削除したり、こうして全身脱毛に通ったりしているのも、広義で捉えれば、縛りの中に安住し、余計な情報から身を引きたいという願望の表れなのかもしれない。今年はもういっその事、緊縛でも習いに行こうかと思う。

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