学校教育について思うこと

 ふと思ったんですけど、ぼくは西田幾多郎さんが好きで、場所的論理の有・意・無(真実在)から字を借りて息子の名前を付けました。ーそれは置いておいて、ぼくはそんなわけで知覚−主客の分裂−調和といった様に、何かを獲得するには先ず、それを獲得したいのに(主観・無)、未だ獲得していないという事実(客観・意)から、そうして分裂した主客が合一に向かって意識を働かせたり行動したりする過程に成長があると考えている。
 しかし学校では、学級をまとめるにはそうした経験をさせる前に教える必要のある物事がある。理想は経験から学んでもらうこと。その過程には助言が必要なこともあるし、或いは見守りに徹して旅をさせることもある。問題はその様な子供の"自然な学び"に任せていると、これも子供の自然な性向から"自分達にとってより楽しい"方向へと秩序を崩しにかかることだ。その行く末に秩序の無い社会としての学級崩壊がある。子供はその様な社会をただ自由なものとして楽しむ。しかしそこでは学校の教えるべき学業や基本的な道徳が損なわれてしまう。
 だから学業や指導の声が生きるようにルールや授業を受ける上での姿勢等を事前に共有しておく必要はある。しかしそれが行き過ぎるとどうなるか。あらゆる経験は未然に失われ、本来的な学びが損なわれる。だから学級運営上必要とされる教育と、本来的な学びと、その均衡を保ちながら教育する必要がある。子供を従わせることで教育が済むのなら楽かもしれない。思想を取り入れると、学校教育は難しくなるのが現実だ。そのあわいをどう取りもつのか。従わせることや思想に偏るのではなく、均衡のとれた微妙な立ち位置(それは偏った両の立場から批判を受ける。なぜならどちらにも所属しないから)に身をおくこと。

 でもそのような姿勢はけっこう疲れる。"これが正しい"と振り切れたらどんなに楽か。"なにが正しいのかはその時の条件や文脈によって変わる"としたとき、ステレオタイプな"正しさ"は常に"考えの至らない"ものとして批判できる。しかし現実にはそのような短絡的な認識が多数派を占めている。"正しさ"は常に相反する意見のどちらかにあるのではなく、その両のあいだで右往左往するいちおうの結論をその度に考え実践していくことだ。世界は"右"のみでも"左"のみでもうまく回らない。ーそのような当然の認識が働くには、先ず"自分の意見"は自分の感覚によってかならずどこか偏りのあるものだということを自覚すること、そして自身の感覚とは相容れない考えを、その"相容れなさ"によって間違ったものとして結論づけるのではなく、より客観的に捉え直そうと努めることだ。"目的"とはかならずこの様な過程によって接近される。よりよい教育が統制と非統制の間でうつろうように、統制すること、および統制しないことの意味がその目的のために理解されるなら、議論はより正しく建設的なものになると思う。
 学校は世間の批判を受けても、実際には文科省からの通達が無ければ大して変わらない。世間からの批判を"どこ吹く風"と聞き流すのではなく、文科省のアクションを待たずにそれぞれの良識を働かせて考えるべきだし、批判する側は"おかしい"と声をあげると共に"なぜそのような問題を抱えているのか"内情を知るべきだ。学校の抱える問題の中でも、世間の目に触れる表に現れた出来事は、全てそういった内情に端を発している。批判がこの内情に向けられることで、学校がより教育的な環境に変わることを望んでいる。学校は学校のみの力によっては決して変わらない。

 

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