ウェ文章①

七〇年代まで、近代文化批判としての論拠は前近代しかなかったのかも知れない。その頃の学生の一人として右手に小林秀雄、左手にサルトルやカミュの実存主義哲学といった具合いであった。

八〇年代になるまでの近代批判として有力だったのは反近代主義者小林秀雄であった。利口なやつはたんと反省すればよい、自分はバカだから反省などしないといった有名なセリフのあと、彼の戦後は『本居宣長』論の執筆に明け暮れた。近代を批判するのに前近代を持って来るというのはノスタルジアも手伝いなかなか説得力も人気もあったと言えよう。まして小林はその技巧を凝らした文章で多くの読者を持った。とはいえ前近代からの近代批判はセンチメンタルな感情に訴えるばかりでなく、それなりに有効な一面もなくはないものの、近代化の進むとともに過去のものとなっていった。小林の『本居宣長』も興味深い論点を様々に提示しつつも、近代以降の文化にはほとんど無効であることが、子安宣邦によって完膚なきまでに批判されることになる。
 小林は若くして「批評家失格」宣言をし、「天才の悲劇」を書くことに情熱を傾ける。モーツァルト、ランボー、ドストエフスキー、ゴッホの「内面」へと耽溺してゆく。
 二十世紀も終わろうとする頃になっても渡辺京ニ『逝きし世の面影』のような反近代というか前近代を理想化する時代錯誤の書が書かれたりするのが日本社会である。渡辺の書が西欧人から見た江戸、旅行者の目に映じた江戸庶民、そこから彼の望む「前近代」を描こうとするものの、そこに一体どれほどの〈有効性〉があるのかと、出版当時から激しい批判に晒されてはいたが。和辻哲郎『風土』に近い錯誤の書であったとも言われる。モンスーン、砂漠、牧場の三類型で人類を捉えようとする「人間学的考察」(これが和辻の書の副題だ)にどれほど意味があろうか。和辻は旅行者として他のアジアその他を駆け巡ったに過ぎないのだから、世界の人間がそんなに容易に捉えられるはずがなかろうに。
 では日本に土着の人たちの前近代論なら有効なのか。日本民俗学の柳田国男は農政学の官僚として出発し、朝鮮半島の農業政策に関わった(とは即ちその収奪に加担した)。その傍らでドイツの民俗学の輸入を精力的に行い、西欧近代へのアンチ・テーゼともいうべき言説群を創り出した。もっとも政治史ではなく、庶民(柳田用語では常民)の生活史こそが歴史だとする民俗学の視点は、考えようによってはスピヴァクのサバルタン思想につながる論点がある。
 そもそも民俗学はとは何か。なぜドイツ民俗学や日本民俗学があり、イタリア民俗学やフランス民俗学、あるいは中国民俗学がないのか? 要するに民俗学は大きな文明のそばで成立した(そばでしか成立しない)国民国家のアイデンティティ確立の学問であった。ラテン系のイタリアやフランスに歴史や伝統は言わずもがなで豊富にあり、その出自の歴史は目の前に豊富にあり、これは中国を考えればすぐに納得できるだろう。そこで新進の国民国民の国民は歴史や伝統を新たに創造する必要にかに対して己れを主張する必要があり、私んちも古い歴史があれば伝統や文化もあるんだよ。柳田は「日本人」南方起源説を唱えた一方、折口信夫は「常世」とか「妣(はは)が国」とか幻想の起源地を想定して、中国四千年の言説に対抗しようとした。そりゃ確かにいつからどこにあったか分からないそれらの〈故郷〉は悠久の昔に想定されるものだから最強であり、中国四千年をなるほど凌駕するものではある。日本民俗学批判は『南島イデオロギーの発生』「反折口信夫論』の村井紀や『「大東亜民俗学」の虚実』川村湊の著作が秀逸である。

 近代の日本民俗学や歴史学の起源は本居宣長と『大日本史』を編纂した水戸学派にあるとも言え、前者は中国が〈女真族〉による王朝とも呼ばれように漢民族の皇統が絶えた事態を迎えた大陸を横目で見ながら、これから文化の中心は日本にあることになると主張したのであった。日清戦争に勝利した帝国日本の大学の中国歴史学者湖南内藤虎次郎が『支那論』で〈文化中心移動説〉を唱え中国侵略の理論的根拠(妄想だけど)を与えた。
 これらの「学問」は近代批判としては充分ではなかったのは、ある意味で当然で、近代の国民国家成立後の学問は一般に帝国のために存在した帝国のそれであった。日本で最初哲学書の誉れ高い西田幾多郎の『善の哲学』が後の「京都学派」(大東亜戦争を肯定し学生を戦地に送るアジテーションをばら撒いた高山岩男『世界史の哲学』1942がその代表格)を準備したことを論じたのが廣松渉の『「近代の超克」論』である。
 帝国大学の戦争責任は未だに何ら清算されていない。帝国大学がアジア太平洋戦争に果たした役割がどれだけ大きなものであったかは、関東大震災の朝鮮人大虐殺同様に戦後の日本政府や学者たちがひたすら隠蔽して来た歴史事実の一つであろう。