『朝の走者』池田久輝(朗読用台本・無料利用可)
小説家 池田久輝(第五回 角川春樹小説賞受賞作家)が朗読文化発展のために、無料で提供する朗読用台本です。
配信、イベント等での朗読台本として無料でご利用いただけます。
利用の際はこちらをご一読ください。
『朝の走者』
突然、目が覚めた。辺りはまだほの暗い。早朝の空気。冷たい透明感。僕の部屋はぴんと張り詰めたように澄んでいた。夢を見ていたのかもしれない。いや、眠っていたのかどうかも怪しい。とにかく僕はベッドから飛び起き、ふと気付くと、誰もいない朝の中を懸命になって駆け出していた。どこへ向かおうとしているのかまったくわからなかった。ただただ何かに衝き動かされているような感覚だけが全身を駆け巡っていた。
靴底がアスファルトを蹴る。その度に湿った固さを感じる。不思議と汗が出なかった。そして、まるで疲れる気配もなかった。わけがわからないまま、それでも僕は走り続けた。
背後から追ってくる足音を聞いたのは、どれくらい経ってからのことだろう。いや、もしかすると走り始めた時からうしろにいたのかもしれない。僕が気付かなかっただけかもしれない。それくらい背後の足音は僕のものとぴったり重なっていた。
立ち止まろうかと思った。振り返ろうかと思った。けれど、どちらもしなかった。怖かったわけじゃない。追ってくる足音の正体がなんとなくわかっていたからだ。同じリズムを刻む足音。そして息を吐き、吸い込む呼吸音まで僕とまったく同じだった。
そう、背後にはもう一人の僕がいる。昨日の僕? いや、「明日の僕」に違いない。その足取りはとても軽やかで、今にも追いつき肩を並べようとしている。明日の僕が今日の僕を追い越していく。
真横から規則的な息づかいが聞こえる。そこで初めて僕は視線を振った。
「え!?」
思わず声が出た。そこにいたのは明日の僕じゃなかった。
「おはよう」
彼女だった。僕が想いを寄せる彼女の横顔がそこにあったのだ。
「もうちょっと急いだ方がいいね。先に行って待ってるから」
彼女はそう言って一歩先を駆ける。そして二歩、三歩。あっという間に遠ざかる彼女の背中。
そうか――こんなに朝早く僕を衝き動かしたのは彼女への想いだったのか。
懸命になって彼女を追いかけた。でも、追いつけない。彼女の姿が小さくなる。どんどん小さくなる……。
と、見覚えのある背中が目の前に現れた。まごついたような重い足取り。少し肩を落としたシルエット。彼女じゃない。それは間違いなく「昨日の僕」だった。
「やあ、今日は調子が良さそうだね」と、昨日の僕が言った。
「そうみたいだ。それにしてもなんだか弱々しいな、昨日の僕は」
「あと一歩が踏み出せなかったからね」
「知ってるよ。よく知ってる」
「でも、今日の様子だと大丈夫そうだ」
「うん、そうだといいな」
僕はそう答え、昨日の僕を追い越した。
アスファルトを蹴り上げる。スピードを上げた。早く、もっと早く――。
小さな彼女の姿が見える。この先で彼女は待っている。
急がなきゃ――彼女に想いを届けるために。
(了)
*この作品は「第二回 U35 京都朗読コンテスト」の一次予選の課題テキストとして使用。
小説家 池田久輝(いけだひさき)
2013年、『晩夏光』にて第五回角川春樹小説賞を受賞。翌年には続編となる『枯野光』を発表(角川春樹事務所)。 以降『まるたけえびすに、武将が通る。』(幻冬舎)、『虹の向こう』『ステイ・ゴールド』(双葉社)などを上梓。 2017年には、『影』が「日本推理作家協会賞短編部門」の候補作となる。2023年8月、最新刊『警官は吠えない』が小学館文庫より刊行。
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