見出し画像

わたしの中の「花」と「生」

とある写真集を見て、改めてこの頃の私自身における
「花」と「生」について。

花を問わずして凡ゆる事物に言える事と思うが、
対象の事物に対してどの様なイメージを抱くのかは
受容体である人間に対する衝撃だけだと思っている。

それが偶然、私にとって花という事物は
これまで何とも思わなかった対象であったが故に、
死者への手向けというインパクトに全てを拐われた。

今の私は原体験から想起される事物に対して
かつての想いを馳せる様にして写真を撮りたいだけで。
だから今、私は「花」という存在に救われているし
同時にあの時の辛さも、これからの希望も花を見ていると同時に感じてくるのである。

私の愛読書の一つ、三島由紀夫"金閣寺"の一節には
「父の死によって、私の本当の少年時代は終るが、
自分の少年時代に、まるきり人間的関心ともいうべきものの、欠けていたことに私は愕くのである。そしてこの愕きは、父の死を自分が少しも悲しんでいないのを知るに及んで、愕きとも名付けようのない、或る無力な感懐になった。」とある。

後悔と無念を感じ、ただ放心となった当時の私を支えてくれたのは
この一節に存在する言霊だけなのである。

ただ、前々から思うに、
そういった痛みだけを作品として昇華していくのは
私個人は好きではない。誰かの死によって完成されたかの様な疑似的思想を
ずっと引きずって生きていくには重過ぎる。
そしてそれが最愛の人へ最も背を向けてしまう事実となり、冒涜となるのだから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?