『ドラゴンボール』を読む
ピッコロ大魔王編
漫画『ドラゴンボール』の中心にあるものは、あらゆる願いを叶えるドラゴンボールという宝と、主人公の孫悟空である。彼の特徴は無欲なことだ。
孫悟空は謙虚な訳ではないし、とりわけ善人であるわけでもない。ただ欲というものを生成する、誰にでも生まれつき備わっている体の器官が抜け落ちてしまっていると言った方が、正しいニュアンスに近いだろう。
ドラゴンボールは願いを叶える。しかし主人公には願いを叶える気がない。このような皮肉な対立構造がこの漫画の中心にあって、ドラマを駆動している。
どういうことか。もしも主人公に人並みの欲望があり、それをドラゴンボールによって叶えてもらうとしたら、両者の間に引力が働いてくっつき合うのだが、主人公は不自然なまでに無欲なので両者はくっつき合わず、距離が生まれてしまう。その何もない空間が言わば真空のように働いて、何かを引き寄せてしまうのである。次は35巻で、セルを打倒した後に悟空があの世から現世の仲間たちに語りかける時のセリフである。
つまり引き寄せるのは邪心を持った者だ。この物語の中で繰り返されるパターンとして、次のようなものがある。すなわち、考えの足りない小物でコミカルな悪が、より強大でシリアスな悪を呼び出し、制御できずに滅び去ってしまい、結果として大きな悪が敵として主人公たちの前に立ちふさがるというパターンである。
具体的には、レッドリボン軍の総帥がブラックに取って代わられ、ピラフ一味がピッコロ大魔王を解放し、ドクター・ゲロがセルを産み出し、バビディが魔人ブウを呼び出す、という流れである。
邪心という問題はくりかえし『ドラゴンボール』の中で持ち上がる。神様は、神様になるために自分の中の悪い心を自身から引き離して外に放った。しかしそれが強大な力を持って、ピッコロ大魔王となり、地上に災いをもたらしてしまった。ラディッツの襲来から始まるサイヤ人編では亀仙人が悟空の赤ん坊の頃を語る。悟空は最初気性が荒く孫悟飯になつかなかったのだが、頭を強打した結果おとなしくなった。魔人ブウは自身の中の邪悪を分離させるが、それは本体よりも強い力を持っているのであり、悟空たちは苦戦させられる。
重要と思われるのはピッコロ大魔王編である。ドラゴンボールを造り出したのは神様だからだ。そのような偉大な力を持った神様でさえ、邪心からは逃れられないという問題意識を作者の鳥山明は抱いている。孫悟空は神様から生まれ出た大きな悪を打ち倒す役目に就く。これによって神様は自殺という問題から逃れられ、ドラゴンボールの存続は支えられるのである。そればかりか、悪であるピッコロはその後により強大な悪であるラディッツを前にして、戦士たちの味方につくことになる。
ここには次のような倫理的問題があると解釈できる。我々人間はあらゆる願いが叶う宝がどこかに存在していて欲しいという、素朴で幼児的な願望を持っている。この世が自分の思い通りになるという、単純な、しかし存在の根本を支えている期待だ。それがなければ誰も絶望からは立ち上がれないし、人生を肯定することもできない。それは赤ん坊が母親に抱く思いとどこか似ている。
しかしもし自分に邪心があれば、そのような宝を正しく運用することは不可能である。邪心と願いが結びつけば、それは大きな悪を呼び出して世界を滅ぼしてしまう。つまり邪心を持つことは願いの否定に繋がり、ドラゴンボールの否定に繋がり、この世のあらゆる希望の否定に繋がってしまうのである。もし自分に邪心があれば、それを封じるためには自殺するしかないかもしれない。これはとても悲しい卓見である。
そこで孫悟空が我々人類を代表して、そのような倫理的葛藤を解消する。命を懸けて戦い、苦しみ、悪を打倒するのである。彼は邪心を持たないので、正しくドラゴンボールを運用できる。こうした物語の帰着によってドラゴンボールの倫理的価値は守られる。我々の希望は存続するのである。
サイヤ人編
次はラディッツの襲来からフリーザとの闘いで終わるサイヤ人編について考える。
サイヤ人編では悟空の罪というものが強調される。このことは悟空が大人になったことと深い関連がある。一般的に言って大人になることは多くの欲望を抱え込むことを意味し、それは罪というものと切っても切れない関係にあるからだ。ただし物語の制約上、悟空は中身が空っぽの、無欲な人間として描かれなければならないので、間接的な手法が取られた。
説明すると、悟空は実はサイヤ人という戦闘民族の一人なのだが、サイヤ人のやることは目を付けた惑星の先住民を殺戮して、その星を金持ちに売ることである。つまりそういう残虐な行いをする一派と血のつながりがあるという婉曲的な方法で、悟空の罪が語られることになる。
さらにベジータとの闘いの最中に、悟空は己の罪を自覚する。それはサイヤ人の血、つまり大猿に変身可能であることと深い関連があるのだ。
こうしたサイヤ人としての罪はフリーザを倒すことによって贖われる。フリーザこそがサイヤ人を操っていた親玉だからである。戦いの最中に次のような会話が交わされるのは注目に値する。
フリーザを倒すのに悟空の怒りが必要であるというのも見逃せない。実際、ピッコロ大魔王と戦う時でさえ悟空は腹の底からの怒りというものを見せていない。正確に言うと、勇ましく怒りはするのだが、どこまでも戦いのために必要なエネルギーを発揮しているだけに過ぎないという印象なのである。フリーザとの決闘において、二十数巻に及ぶ物語の中で初めて悟空は心からの怒りを見せるのだ。ところで、怒りとは罪である。物語上は、悟空は大人になり罪と近接することによって、ついに真の怒りを獲得したのだと受け取れる。
ちなみにラディッツの襲来前に孫御飯という子供が生まれるのは、悟空が大人になってもう罪というものから逃れられないことになったから、純粋性を担う役目として彼が現れたのだと受け取ることが出来る。鳥山明はキャラクターの配置が上手い。孫御飯がいなければセル編の話の展開は難しくなったろう。
ちなみに罪なき人々を大量に虐殺する光景が細かく具体的に描かれるのは、おそらくナメック星におけるフリーザ一派による虐殺が初めてだと思われる。それ以前は案外、一人一人を丁寧に殺していく場面は描かれていないのである。そういう虐殺の光景を描くのに、鳥山明は、人間の外見からやや離れたナメック星人という種族を用いてる。残虐さを減らす配慮だろう。
セル編
次はセル編だ。これは簡単に言うと悟空の罪というものが清算される物語である。
すでに述べたことだが、漫画『ドラゴンボール』の中心は、ドラゴンボールという宝と孫悟空の純粋性の対立構造である。この二者の緊張関係が悪を引き寄せる。つまり孫悟空には悪を地球に呼び寄せてしまうという根源的な罪がある。
そこで孫悟空は最終的に息子に戦士の地位を譲って引退し、自己犠牲による献身によって、自身の罪悪感を解消する。彼は死人になって現世の人たちに呼びかけるが、その時の態度や口調は非常に明るい。人を元気づけるためのやせ我慢ではなく、根っから明るいのである。それはやはり罪悪感がなくなったからだと受け取ることができる。
親子のヴァリエーション
セル編にはさまざまな親子の組が登場する。まず冒頭にフリーザ親子が出てくる。次いでトランクスとベジータ、人造人間20号と17・18号(前者はドクター・ゲロで、後者を造った)などが現れる。彼らはそれぞれに異なった多様な顔を読者に見せる。そしてこれら親子のヴァリエーションは、物語の最終目標である孫悟空から孫悟飯への主人公の代替わりのために用意された、布石のようなものであると捉えることができる。次にそれらのペアをすべて挙げてみよう。
フリーザ親 - フリーザ
ベジータ - トランクス
人造人間20号(ゲロ) - 17・18号
神様 - デンデ
孫悟空 - 孫悟飯
セルは物語の形式上はゲロと別の人物だが、物語の実質という観点から見ると、ゲロと同一人物だとみなせる。セルもゲロも登場時の外見は老人のそれだ。また、敵のエネルギーを吸収することや、17・18号と敵対しているという共通項がある。したがって<ゲロ - 17・18号>の組は、<ゲロ=セル - 17・18号>の組であると捉えることができる。
孫親子とベジータ親子の対比
では、これらのペアをつぶさに見ていこう。
フリーザ親は息子であるフリーザが殺されてもまったく動揺しない。それどころか殺した相手であるトランクスに「私の息子にならないか」ともちかける始末である。このような情のなさは、理想的でない親子の例として持ち出されているのだろう。
逆に、子が親を無残にあつかうケースもある。17号・18号がゲロを殺す際、クリリンが「自分の親を殺すなんて」という旨の発言をする。(30巻 P17) いずれにせよ、どちらのペアも親子の縁というものが機能していない。
神様からデンデへの交代はさらっと描かれているが重要なことだ。これは親子とは違うが、代替わりというテーマと密接に関係している。まず神様が消えて、ドラゴンボールがなくなる。作品のタイトルにもなっているものが失われるのだから、これはかなりの大事だ。それが、セルとの最終決戦の直前になってデンデがやって来て、新しい神様として就任し、ドラゴンボールを復活させる。このエピソードは、孫悟飯が悟空の代わりに地球の平和を担う新しい戦士の立場になることを予兆している。こういう小さいエピソードをラストの前に設けておくのは優れたストーリーテリングだ。
ベジータとトランクスは常に孫親子と対照的に書かれる。トランクスはベジータに対して、親としての責任がないと責める。単行本29巻では、ゲロが放ったエネルギー波から、トランクスがブルマを救う。その時トランクスは助けようとしなかったベジータを責めるが、ベジータはそれを一蹴したので、トランクスは絶句してしまうのである。このようなぎこちのなさは孫親子にはない。それどころか、孫悟飯は父に対して疑問を抱かなさすぎるとさえ言えるだろう。
彼らの対照性が際立っているのは最終決戦のシーンだ。セルが自爆し、悟空が死ぬ。その後復活したセルにトランクスが殺されてしまう。つまり孫親子は親の方が死ぬのに対し、ベジータ親子の方は子供が死ぬのである。そのままもつれ込むように最終決戦に入り、かめはめ波とかめはめ波がぶつかり合う。この時、ベジータもセルを倒す一助となるのは見逃せないポイントだ。つまり孫親子が主役としてセルを倒すのだが、そこには影のようにベジータ親子も参与している訳である。
親が犠牲になるのと子供が犠牲になるのとでは、やはり前者の方が正しい。理由は二つある。まず、新しい生命が死んでしまっては社会が存在できない。そして個人という観点から見ても、長く生きてきた人間は重い罪悪感を蓄積している訳だから、思い切って正しい目的のために自分を犠牲にした方が、すっきりする。罪悪感を解消できるという良さがある。死んだ悟空が明るいのに対して、生き残ったベジータはずいぶんと暗い様子だ。意気消沈として、俺はもう戦わないとまで言うのである。彼は負けてしまったのだ。
このようにセルとの最後の戦いを振り返ってみると、孫親子は正しい道を選んだので主役としてセルを倒す立場になったのだが、ベジータ親子の方は間違った道を読者へ示す役割を背負わされたので、主役には就けなかったと受け取れる。しかし彼らがそのような形でドラマに貢献したということもまた事実だ。その表れがベジータのセルへの攻撃なのだろう。それをきっかけにして御飯はかめはめ波に力を込めて、セルを倒す。つまりベジータは一定の貢献を果たしている。言い換えれば、影としての貢献にも価値があるということを作者は認めているのだ。
セル
17・18号がゲロを殺した後は、さまざまな話の経過を挟んでから、今度は復讐するような形でセルが17・18号を吸収する。
セルは興味深い存在である。彼は登場時は老人の外見をしている。次に17号を飲み込んで中年の男性へと姿を変える。そして18号を吸収すると、最終的には青年の容姿に変化するのである。つまり若返っていく。この変化は32巻の巻末にある扉絵ではっきりと確認できる。
この若返りという観点から言っても、ゲロとセルが物語の役割として同一人物をなしているということが理解できるだろう。ゲロは死にたくないので自分を人造人間に改造した。それは若返りの欲望と似ている。つまり前項で確認した「親が犠牲になって子供を活かす」という正しい方向性とは、まったく逆の方向に彼らは向かっている。だからこそセルは絶対の悪として戦士たちの前に立ちはだかるのである。
考えてみれば、セルは吸血鬼のように人間を吸い取り、力を増大させていく。そして生意気な若者、という感じの容姿をした17・18号さえ吸収してしまう。つまり老いた者が若い者を殺して奪い取っている。このような事実は前述の方向性と一致している。したがって、セルは社会を完全に滅ぼす。古い生命が新しい生命を根絶やしにするようなコミュニティが、続いていく道理がない。セルはテレビで、セルゲームで人間側が負けた場合は世界中のすべての人間を殺すと発言しているが、ここまでの議論が理解できていれば、これはまったくうなずける話である。振り返ってみると、フリーザというキャラクターにはけっこう個性があった。ネット上でも時折ネタになっている。一方セルには人気がない。フリーザには実にさまざまな部下がいたのに対して、セルは一人である。彼は一人のまま完成している。なぜなら彼は人類の破滅と同義であり、それ以上先には何もないからである。無味乾燥な存在なのだ。
怒り
孫悟飯がセルに勝つためには、怒らなくてはならない。しかし御飯は怒ることが出来ずに苦しむ。そこにはかなりのページが割かれている。これは注目すべきポイントだと思う。
孫親子のあいだには不和がない。色々と示されている他の親子のペアと比べると特に不和のなさが際立っているのだが、どうやらそれが怒りのなさと結びついているらしい。ピッコロが御飯の胸の内を推測して、御飯は怒ることが出来ないと悟空に抗議するのだが、その発言内容は親子の仲の良さと関連している。仲が良いというよりは、仲が悪くなるきっかけがないと言った方がより的確だろうか。御飯は良い子なので、親に逆らうという気持ちが薄く、それが怒れない遠因となっているのである。
16号と孫悟空の二つの犠牲によって、ようやく御飯は怒りを正しい形で解放し、コントロールした上でセルを倒すことに成功する。
魔人ブウ編
さて、ここまで見てきて分かるのは、主人公たち戦士の立場は正義でありながらも、実のところそれは巨大な悪の出現によって成り立っているものに過ぎないということだ。孫悟空たちは善というものに対して受け身なのである。彼らは積極的な善になりえない。
そこで出てくるのがミスター・サタンである。彼の特徴は人並みの欲があるということだ。名誉も手に入れたいし、金も手に入れたい。そういう人物が善行を成すというところに物語のポイントがある。鳥山明は無欲で強力な孫悟空では善を成し得ず、欲と善の間で葛藤し、かつ無力な人物にこそ真の善行が可能であると考えた。じつは『ドラゴンボール』で初めて善人が登場するのは、ミスター・サタンにおいてなのである。
このように善悪とはなにかという疑問は全編に渡っている。バビディは非力な魔術師だが、悪人をあやつることができる。
また、魔人ブウはフリーザやセルのような容赦のない悪と違って、まるで子供のようである。彼はサタンや犬に友情を示し、人を殺さないと誓う。そこに人間があらわれて彼らを銃火器で攻撃する。つまりそこでは人間と魔人ブウの善悪が逆転してしまっているのである。物語は解決のために、魔人ブウを善側と悪側に分けて、悪側を最終的なボスとして設定する。
もう一つのテーマが悟空とベジータの和解である。セル編ではベジータ親子は孫親子に対して敗北者の位置に設定されていたが、そのような二者が和解することが描かれる。ベジータはセル編とは逆に、子供を助けるために自分を犠牲に捧げる。これによって彼の尊厳は回復される。その後ベジータは悟空と共にポタラで合体し、つまり文字通りの意味で融和する。その結論がベジットという作中で最強のキャラクターの登場であり、彼は魔人ブウを圧倒する。これは言い換えれば、この二人の和解にはそれだけの価値が認められる、ということだと思う。
どういうことか。『ドラゴンボール』の特徴として、出てきた強敵が仲間になるということがある。ウーロン、ヤムチャ、天津飯、ピッコロ、ベジータ。みんなそうである。この作品で大切にされる倫理観として、むやみに命を殺してはならない、というものがある。悟空はあのフリーザにさえ情けをかけた。しかしそれでは悪をどのように処理したらいいか困る、という大きな葛藤を抱え込むことになる。そこで鳥山明は悪が味方になるという物語展開をして解決を図るのだが、やはりそれは安易だという自覚があったのだろう。ベジータだけはなかなか打ち解けず、ブウ編の終盤に進まなければ融和は達成されなかった。しかしそれも最後には成し遂げられる。