何かを残せなければ生きる価値がない?

私は生きるからには世の中の役に立つもの、世界に無かったものを残さなければいけないものだと思っていた。それは親の教育の影響かもしれないし、小さい頃に家で読んだ偉人伝なんかの影響かもしれない。

それはスポーツの何かの記録でも音楽でも本でも良かったし、子供を残すということそのものが世の中の役に立っていると言えるので、それでも良かった。

最初は漫画だった。自分の漫画が本屋の棚に並ぶのがすばらしく思えたのだ。しかし、周りにはもっと才能あふれる人々がいて、そしてブックオフに行けば過去の偉人たちとの漫画とも競っていかなければならない。そこまでして自分に描きたいものがあるか?答えは否だった。

次はオープンソースや社内のツールの拡充、技術系の記事の投稿など、自分のプログラムスキルを活かした活動だった。役に立つプログラムを書いて無料で公開し、使ってもらう。オープンソースで公開したツールは30人程度には評価してもらえたようだ。技術系の記事もそれなりに評価をされている。社内ツールははっきり言ってボロクソである。頑張って作ったことを評価して欲しいのに、見せるとまず出る言葉は「〇〇の機能なんで無いの?」である。正直社内ツールはこれでやる気を失ってしまった。

今の自分は子供を残せない。現状もうすぐ40才、2回の離婚経験、そしてうつ病による極度の体力低下で、出歩くことも重労働の老人体質で出会いもない。何より育てるためのお金も体力も無い。

そんなことを思い返すと思うのだ。本当に「何かを残せ」ないと生きる権利は無いのか?

昔の自分はこの「何かを残す」ということに焦って、結婚も2度失敗しているし、結局残せたのはオープンソースでもう使われていないソフト、読まれるかどうかわからない記事が数本、エロ同人誌などが数冊、使われなくなった社内ツール……

単に生きていること、それだけでいいと思えるようになったのは本当に最近になってからだ。うつ病になって物理的に仕事以外の追加作業が出来なくなったこともある。でも、うつ病の素養が昔からあって精神的に危うかった自分にとって「何かを残せ」というのは呪いだったのだ。

今なら昔の自分に声をかけてあげたい。生きているだけでいい。いい意味でも悪い意味でもお前の代わりはいくらでもいる。お前は物語の主人公じゃなくモブ、いや書かれもしないモブ以下の存在にすぎない。才能がある人がたくさんのものを世の中に残してくれる。自分が主人公になろうとするなよ。そんなに背負い込むなよ。出来る範囲でいいんだ。焦るなよ。休め。遊べ。

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