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虚構 その5

「長瀬くん?君ねぇ、私がここへ着任してからも君は何度か注意を受けているはずだよ?ここは学童でも児童館でもなく、あくまでも図書館なんだ。入職時の最初の座学は覚えているかね?」

「は、はい…」

「改めて私から伝えるが、ここは街の書店ではないんだ。運営主体は確かに10年前に公財化されたが、あくまで今もって変わらず財源は住民の皆さまが納めた税によって運営されている公立図書館であるわけだ。倫理綱領の"利用者に対する責任"を君も覚えているだろう?」

「もちろん、覚えています!」

「そうか。私は今まで直接伝えることはなかったが、再三にわたって君に間接的に伝えていた事はだ、いいかい?それが例え子どもであってもだ、"図書館員は利用者を差別しない。"という倫理綱領の観点からも利用者すべてに平等なサービス提供することを遵守しなさいという単純明快な事だ」

「はい…」

…目線をあげると館長の座っている席の奥にある大きな窓の外に、アド・バルーンが空高く飛んでいた。わたしですら子どもの頃に一度だけ観た以来だ…

永遠に感じられるような一瞬の重たい沈黙が漂う室内と、窓外に広がる雲ひとつない空遠くで軽やかにゆったり漂い微かな通奏低音を響かせているアド・バルーンが、なお一層この沈黙を際立たせている。

殆ど白髪になっている短く刈り上げた頭を掻きながら、細縁の眼鏡の奥で神経質でいて何となく少し寂しさを湛えている枚岡館長が、静かに一度咳払いをしてから言葉を継いだ。

「長瀬くんの言いたいことも私は重々理解しているつもりだよ…しかしだね、一部の子どもの利用者を図書館員である君が贔屓にして対応するということはだ、他の子どもの利用者との公平性を欠くことになるという事だ。バランス感覚は難しいとは思うが、分かってくれるね?」

「はい…」

「私からは以上だが、長瀬くん。君からは何かあるかね?」

「いえ…。お忙しいところ、わたしに対してお時間を作っていただきありがとうございます」

「そんな事は構わない。」
「ひとつ付け加えておくが、館長会議でヤング・コーナーのローテーション業務の人選について、君のこの問題をわたしは議題に上げたくはないのだ。分かってくれたまえ。さぁ職務に戻りなさい。」

「ありがとうございました」

わたしは静かに会議室を出てバックヤードに向かい、次のローテーションである新刊のブッカー貼りの業務に戻った。

最後の一冊の雑誌にブッカーを貼り終えると、福山さんがわたしの方へやってきた。

「長瀬さん、大丈夫?」

「福山さん…お気遣いありがとうございます」

今年、本山図書館から異動して副館長に着任した福山さんは、とにかく丁寧な気配りを館員みんなにしている方だ。

「館長から厳しいことも言われたと思うけれど、長瀬さんのこと、館長はちゃんと高く評価しているからね」

「本当に福山さんにまでご迷惑お掛けして、申し訳ありません」

微笑を含みながら、

「いやいや、みんなのお陰で成り立つからね、全然。気にしないで大丈夫だよ」

と返してくれた。

「福山さーん、生涯学習課の田上さんがお見えになってます」

「はいはい!岡崎さん、ありがと〜」

「あんまり気を落とさずにねっ」

わたしにそう声をかけてバックヤードからフロアへ出ていった。

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「芳幸くんは、何で小説読むようになったの?」

…不意に意識に甦った言葉だ…

歳の離れた妹が居るからだろうか。
昔から子どもが好きで"がっこの先生"になろうと決意して教員免許をとった。

最初赴任した小学校では5年生のクラスを受け持ったが、考えが甘かった。子どもが好きという"気持ち"だけではとても務まらない仕事だった。

ひとりの不完全な人間が、ひとりひとり人格を形成しつつある人間を教育するという困難さに耐えられなくなって3年目に退職した。

しばらくハローワークへ通ったり求人誌を眺めながら色々と職を探していると星川市の図書館運営主体が公財化され新規に司書を募集しているのが目に入った。

教員免許と一緒に司書資格も取っていた学生の頃の自分をこの時だけは少し褒めてやりたくなった。

「何で小説読みつづけているの?」

いつのまにか反復されているうちに自らの問いに変わっていた。

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僕は、去年この友ヶ丘図書館で副館長に着任した。

枚岡館長は、長年にわたって役所に勤務なさって最後に配属された文書課から3年前に出向という形で着任された方だ。

館員の労務環境の向上にも高い関心を持って取り組まれている。40年以上も役所で奉職された経験からか"公益"ということに対しては極めて厳格な考えを持っている方だ。
それゆえ利用者に対する平等なサービス提供を館員がしっかり自覚を持って取り組んでいるか、普段から人一倍厳しく目を光らせている。

「福山くん、ちょっといいかい?」

「何でしょうか?」

少しだけバツの悪そうな表情のまま続きを話し始めた。

「長瀬くんの件だけどね、私はさっき厳しい口調で責めてしまったんだ」

「は、はい…」

「ひとつ、福山くんからフォローしてやってくれないか?」

「お任せください!」

少しづつ枚岡館長の眼鏡越しの瞳が安堵に変わっていった。

「そういえば、君はもともと教員をやっていたっけか?」

「そうです」

「中々、難しい問題だとは、私も考えているんだ」

「…と、申しますと…?」

再び峻厳な目つきに変わったその瞳を窓の外に向けていた。

「確かに児童館など学校外で居場所を見つけられない子どもが一定数いる事は、私も重々判っている。」

「はい…」

「高いレファレンス能力も持っているそうだし、長瀬くんの純真な素晴らしい性格は私もこの3年間でよく把握しているつもりではいるんだ」

「確かに、この問題は難しいですね」

枚岡館長は、再び僕の方に向き直っていた。

「しかしね、福山くん、やはりここは図書館なんだ。私が第一に優先したい考えは、やはり利用者に対し平等なサービスの提供に努めるという事だ」

「私も、同意します」

「念押しするが、福山くん。長瀬くんのフォロー、宜しく頼むよ」

枚岡館長はそう言い残して、ふたたび階段を降りて行った。

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わたしは、次のローテーションであるちょっとした玩具の貸出もしている広々としたヤング・コーナーに着いて貸出カウンターに座った。壁掛け時計の分針は午後4時に差し掛かっている。

「おつかれー。美咲さん、観てよこれ。」

「なになに??」

ユウタ君という中2の子は、大体平日のこの時間帯にやって来る。
今日は画集を手にしてここに来てくれたみたい。

「この前の土曜にね、今県美でやってる印象派たちの展覧会に行ったんだ!画集みる?」

「えー、ありがとう!今日はわざわざ見せに来てくれたの?」

(…あ、枚岡館長だ…)

「なんかさ、凄かったよ!この絵、すごくない?直で観てみるとねぇ、この木の葉っぱのひとつひとつが、本当に揺れている様にみえるたんだぁ!」

ユウタ君が指さしてくれたそのページの絵の下には、
《夕暮れ》
1893年 Julius Paulsen、1860-1940
と記されていて
夕暮れを背に淡く佇んでいる広葉樹たちが美しい。

わたしが学生の頃に行ったデンマーク画家展でこの絵が展示されていた事を久しぶりに思い出した。
会場の中でも、まるで額縁自体が窓枠そのものであるように一際美しく葉を揺らしていた。

「あ、わたしもこの絵みた事あるよ!!」

「え、美咲さんも観た事あるんだ?!本当にすごくない?」

「ね、わたしも昔みた時、他の絵よりこの絵が一番好きだったよ!」

「いいよね〜。」

ユウタ君は、何だか少し誇らしげに目を細めていた。

「美咲さん、色鉛筆貸してくんない?」

「いいよー、じゃあここの台帳にお名前と、今の時間書いてね。念押すけど30分だけだよ!」

「えー、やっぱ30分だけ?もうちょい、お願い。」

「ダーメ!他の子達だって絵を描きたくなるかもしれないでしょ?ユウタ君だけの色鉛筆じゃないんだよ?いい?ちゃんと30分経ったら声掛けるから、返してね」

「美咲さーん、人生ゲーム貸して!」

小学生の子たちが、カウンターにやってきた。

「順番だからねぇー、お兄さんが紙にちゃんと書いてから、次に貸すからちょっと待っててねぇー」

「はぁーい!」

ユウタ君は、ちょっと不満そうに口を尖らせながらも、

「はーい」

と、答えてくれた。

壁掛け時計の分針は、4時20分を差していた。

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つづくぅ!

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