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AIと戦う必要性。人類はノイマンやアインシュタインに勝てるのか。

0と1の世界を作ったジョンフォンノイマンは果たして天才でしょうか。善人でしょうか。
今現在、彼が定義した世界が全てを委ねています。
ある意味生殺与奪権まで人類は握られてしまった。
私はノイマンが定義した世界はおかしいと度々
思います。
原子爆弾は長崎と広島に落とされました。
それは何故かというとノイマンやアインシュタインが
長崎や広島に住んでいる日本人に脅威を感じたからではないでしょうか。
私は長崎で生まれ育ちました。
私の家系は被爆しなかったものの、私の知っている
被爆した人間は今でも後遺症に苦しんでいます。
飛んできた瓦が頭を直撃し半身不随になった人。
原因不明の白血病で亡くなった人。
長崎や広島の被爆経験を知らないで戦争を我が物顔で語る人がいます。
格闘技で例えると簡単で、マトモに戦った事がない人間が俺は路上で喧嘩して何人も倒したとか、テレビを観ながら、安全地帯にいながらあのパンチはよくないとか、減量に失敗した格闘家は引退しろとか、
やった事すらないのによく言えたものだと余りにも
無知でビックリします。
じゃあMMAジムに来てプロ選手と戦ってみてはどうだろう。
戦争経験者の前で戦争について語ってみては如何だろう。
何も知らない人間からいろいろ言われると私はとても腹が立ちます。
棘があるとか性格がキツすぎるとか私はよく言われますがそうではなくて、あなた方に倫理観がなさすぎるとしか言いようがない。

話が逸れましたが、AI問題があります。
AIに仕事を奪われるのではないか…。
もう既に奪われているのですが、無知な人はそれすら
気がついていません。
学歴的なエリートは止めなければなりませんでした。
彼らはその為に教授や先生と呼ばれています。
AIと戦うか、上手い事人類が共存するか思案し話し合って職業を守らなくてはいけなかった。
しかし時既に遅し、彼らが啓蒙しないで利己的な生活を送り続けた為、インフラを支えてきた職人や若人、
現場の人達、アーティストは理不尽な税制を敷かれ、
社会的に言われなき誹謗中傷に晒され、職業的な倫理だけでなく生活すら奪われました。
それなのに彼らは未だに私達は偉いのだから言う通りにしろ。
しなければ社会的に抹殺するぞと脅すのです。

そこで私は考えました。
イーロンマスクに直に相談すればいいのではないか?
という考えです。
イーロン氏は物事に真摯に向き合ってくれるし
差別を許しません。
仕事もバリバリこなしてくれます。
あれ?もうイーロンマスクにある程度委ねた方が
良いのでは?
私1人の意見ではマスク氏に意見を伝える事は難しいでしょう。
しかしみんなで協力すればマスク氏は必ず助けてくれるのではないか。
何故ならマスク氏の理想は人類の救済以外考えていないからです。
ある意味ではアインシュタインやノイマンの所業に
意見できる数少ない人物です。
私は気が狂ってはいません。
ただ0と1だけで世界を構築してしまうと人間が作り出した文明が確実に崩壊しもう元には戻らない事は
何となく分かります。
神の怒りを買ったバベルの塔は崩れます。

『旧約聖書』 (新共同訳) 創世記 11 バベルの塔
1 世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。
2 東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。
3 彼らは「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。
4 彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。
5 主は降ってきて、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、
6 言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。
7 我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」
8 主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。
9 こういうわけで、この町の名前はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。

バベルの塔 日本大百科全書(小学館)
Tower of Babel
『旧約聖書』「創世記」に記されたれんが造りの高い塔。物語によれば、人類はノアの大洪水ののち、シナル(バビロニア)の地にれんがをもって町と塔を建て、その頂を天にまで届かせようとした。神はこれをみて、それまで一つであった人類の言語を乱し、人間が互いに意志疎通できないようにしたという。この物語の背景には文化史的な事実がある。というのは、古代メソポタミアにおいて、各大都市はジッグラトとよばれる壮麗な塔を日干しれんがで建造し、そこで種々の宗教祭儀を行っていたからである。この事実は考古学的発掘によって証明されている。政治的、経済的、文化的に劣る古代イスラエル人は、この塔を見聞したとき、これにあこがれるのでなく、むしろこういった文明の背後に潜む人間の自己過信や高ぶりを見抜こうとしたのであろう。また、このような大建造物をもって威圧する政治権力が、結局は人々を一致させるどころか分裂させていくということを悟った。・・・
参考文献
前田護郎著『ことばと聖書』(1963・岩波書店)

これはあくまで私の個人的な意見、見解であり、
宗教や政治、人道に反する事、
反社会的な人物を肯定する内容ではありません。






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