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「やってあげた」という呪縛

人はやってもらったことは忘れがちだが、やってあげたことはしっかり覚えている。

それはもはや呪縛だ。

そもそも「やってあげた」と思うのがおこがましい。

最初は、「こうしたら(相手が)喜ぶんじゃないか」という小さな好意から始まったはずだ。

それがいつのまにか、時には自分を犠牲にしてまで「こうしなきゃ」という義務にすり替わる。

例えば、家事だったり、料理だったり、家族のために「やってあげた」と思っても、相手は「やってくれてラッキー」くらいにしか感じていないのかもしれない。


台風で全然寝られなかった朝

家族が怪我をしたので、私は寝る暇も食べる暇もなくタクシーを呼んで病院をはしごして、帰る頃には辺りは暗くなっていた。

それは家族に頼まれたからもあるけれど、「良かれと思って」やった。

他に動ける人がいなかったから。

家族も感謝していたし、私はしんどかったけどやるべきことができたのだと達成感もあった。

行きたい旅があったけど、家族の通院があったので我慢した。

お見舞いも行ける範囲では行っていたが、他の家族も毎日通っていたし、私は仕事もしていたのでそんなに毎回は行かなかった。

数ヶ月後、家族と口論になった時に「私はあれだけやってあげたのに!」とつい言ってしまった。

しかし、家族の反応は思っていたのと違って「お見舞いだって来てくれなかったし、大してなんもしてくれなかったじゃない」と言われた。

愕然とした。

いや、寝ず食わずで具合悪くなりながら病院に付き添ったし、色々我慢してたんだけど…。

こっちの気持ちなんて家族は知らない。


喉元過ぎれば熱さ忘れる

自分が「これだけやってあげた」と思っていたほど、相手の心には届いていなかった。

きっと私も誰かに対して、同じことを知らないうちにしてしまっているのだろう。

人は「してもらったこと」より「してあげたこと」の方が心に残る。

それなりの労力を自分以外の人にかけたのだから、ある意味当然だろう。

そして、してもらったことはその時には感謝をするが、水戸黄門の印籠のように何度も心に響くものではない。


「やってあげた」と思うことは百害あって一利なし

ものの貸し借りもそうだけど、返すのをうっかり忘れてしまうこともあるから、人にものを貸すときは「あげる」気持ちで貸す方がいい。

実際に自分が貸した本が返ってこなかったこともあるし、私自身も長く借りたまま疎遠になってしまって返しそびれたこともある(ごめんなさい)

形がないものをして「あげる」時も見返りを求めないで、心からやってあげたいと思った時だけやればいい。

誰かのために何かを犠牲にしてまで無理をしたら、「報われない」と感じてしまったら心に呪縛となって残ってしまう。

そもそも相手は「それ」を本当に欲しているのか?

相手にとってあなたじゃなくてもいい。

ただ、そこにいる動ける人が必要なだけだ。

代わりなんてたくさんいるのだ。


心の底からやりたいことだけをやればいい

本当は相手の喜ぶ顔が見たかっただけなのに、喧嘩をしてしまっては本末転倒だ。

頼られるのは嬉しいし、できれば力になってあげたいと思う。

だけど、心が「やりたくない」と思ったことをやってしまうと必ずしこりが残る。

結局「やってあげた」ことが自分の中で大きくなって、相手との関係がなんだか微妙になる。

見返りなんて求めずに、本当に心の底からやりたいと思ったことだけをやればお互いに嫌な思いをしなくていい。

人は助け合って生きるのもわかるけれど、なんだかすごく疲れてしまったので、しばらくは無理せず、人に合わせずに自分のペースで生きていこう。

あまり根を詰めずに、そんな風に考える時間があってもいいと思う。

私がやらなくても、誰かがやるもの(笑)


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