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優れた空想を事実にしてしまう、人間の愚かさ

あなたの今の事実って何ですか?

椅子なのかソファなのか床などに座っていて、もしかすると立っているかもしれないですが。
そして、パソコンなのかタブレットなのかスマホかで、この記事が目に入ってきていること これが共通の事実だと思われます。きっとそうですよね。

そこにいちいち私の名前や自分の名前は何で、家族構成はこうで、職場はどこで・・などとはまったく意識もしていません。
ただただ、記事が目に入ってきているだけ。その背景として今居る場所がぼんやりと映る。それがあなたの今の事実です。

記事を読み進めていくうちに、疑問が湧いたり、なるほど・・という気持ちが湧いたり、嘘だ!そんなわけない!という怒りが湧いてくることもあるかもしれません。

どこまでいっても、「ただ五感と湧いてきたことだけがある」 のが事実ではないですか?

私のことでいえば、椅子に座り、パソコンと画面がある。後ろにワンコがいても視界には入ってきていない。
今の私の世界には、目の前に広がっている世界だけがあります。
ワンコは後ろにいるであろう という空想の中のものです。
振り向いたときにだけ、そこに現れます。
夫は仕事にでかけて、この場にはいません。どこかにいる という想定は思い起こしたときに浮かぶものです。

この空想を事実として、自分の世界は自分だけの中にストーリーが創られます。そこに他の人も巻き込んだりしますが、本当は全くもって関係はありません。あなたの脳の中に勝手に誰かを登場させて、勝手にストーリーが組み立てられ、あなたの脳内はその世界でいっぱいに繰り広げられます。
もちろん、他の誰かが目の前にいる場合はその人はそこに現れているわけですが、その人がどういう経歴の持ち主で‥等はいっさい関係がありません。ただそこに存在しています。

そして、今この文章を打ちながら、なんとyou tubeが流れています。画面は見ていません。流れているけれど何を言っているのかしているのか、「私」は認識していません。音が流れているだけです。
打ち込むことに集中しているので、その音すら聞こえてはいません。

それがいまの「私」にとっての事実です。

自分の世界に「在る」ものだけが事実です。

仮にあとになって、あの時のYouTubeの内容を問われたとしても、もはやそんなの流れてたっけ?くらいのものです。
「私」にとっては、今流れているYouTubeは無いも同然です。

そして、さらに見ていくのは、ここに「疑念」「怒り」が湧いたとしても、それがここ(私のこの場)に在る事実ではないということです。

このnoteや、文字や文章、これを書いている私自身が、あなたの「疑念」「怒り」でもありません。

疑念や怒りは、あなたが「この文章が自分にそれをもたらしている」と思い込んでいること、それそのものです。

どんなことも、人それぞれが捉えた世界でしかありません。

怒りが湧こうと、同感が湧こうと、安心が湧こうと、喪失感が湧こうと、あなたの中に湧いたものでしかありません。

湧き起こってくるもの。それそのものだけがあるわけです。
しかし、実体ではなく空想上のものです。
事実とは、空想ではなく実体のことです。

そうすると、五感にしか実体はないということです。
「私の中」にあるのは、事実として脳、骨、内蔵や血管、筋肉です。

普通、「私の中」と言われているものは、空想でしかないのが明らかです。





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