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ノンデュアリティ なぜ愛する人も愛される人もいないのか

なぜもなにも、いないからいないとしかいいようはないけれど、きっととても不可解なタイトルですよね。

愛というのは、本来行為でもないし、愛されるも同じくです。
究極的には、愛は何もしないことです。
それはもうすでにここにあります。



「私」という個人は、他人から愛されることに価値をおいたりします。

でも愛されようとして愛されていると思いますか?
誰かを愛そうとして愛したりできますか?

どちらも不可能です。

どちらかあるいは両方ができたら、恋愛の苦しみはなくなります。
「私」という存在を介さずに、愛することも愛されることも起こります。
意図とは関係ないということです。

姿かたちとしての「人」は存在していても、私と思わしき人物が他人を愛そうとしたことはありません。誰もがそうです。
勝手に愛することや愛されるが起きただけなのは明らかです。

努力をしたように「私」は感じていたとしても、勝手に起きたから、「愛された」「愛する」という認識が起きているのです。

確かに愛されるために何かすることは起きたかもしれません。でもそれも、勝手に起きただけです。
その認識に基づいて、努力の結果だと分析しているだけで、努力しても愛されない場合もあるから、失恋なんてことも起きるわけです。

常に認識は後付けです。

予感がしたとしても、そう感じることが起きただけで、その通りになるかならないか、それも起きるのみです。

願望も期待も同じです。

勝手に起きることは止められません。
それに良し悪しはありません。

完全なる放擲しかあり得ないのです。

それはもうすでにここにあります。
全受容という、私という個人にはできない無条件の愛です。

愛という全受容に存在は無関係です。
行為ではなくただあるもの。

これを人間界のメソッド的に例えると、自己愛がバランスよく完結していること…と言うこともできるかもしれません。
ただそれも、ノンデュアリティとはかけ離れますが…


私はいない

と、ノンデュアリティでは表現されます。
よく観察すると「私」という存在はいません。
みな、生物としての活動をしています。

全受容の中で、私個人に関係なく全てが起きている。
そこには良し悪しも意味もありません。
ジャッジがない、全受容です。


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