同姓同名の罠

中島亮一は言葉にならない声を発した。縁側に腰をかける男は頭から血を流し、青いワイシャツが小さく滲んでいる。手にスーツの上着を持ったまま、今にも倒れ込みそうだった。

「……すまないが、水をもらえないか」

男の声はかすんでいる。ゆっくりと腰を降ろす男を見て、亮一は慌てて台所に向かった。こんな山奥にどうやってきたというのだろう。まさか歩いて越えてきたというのか。近くの町までここから車で十五分はかかる。町と言っても小さなスーパーが一件と酒屋が一件、あとは数件の民家が並ぶだけで病院や学校、あるいは少し大きめの食料品店のあるような街まではここから四十分はかかる。コップに水をくむと亮一は縁側へと急いだ。

「救急車、呼びましょうか」

男は、亮一から水を受け取ると、答えることなく一気に喉に流し込んでいた。頭の傷はそれほど深くなさそうだ。数センチの切り傷から血と汗が筋になって流れ込んでいる。シャツの裾は汚れ、スーツのズボンも泥だらけだ。やはり、山を歩いて越えてきたのだろう。

「もう一杯いいか」
「あ、はい」

亮一は、また台所へと急いだ。歳は四、五十といったところか。無精ひげを生やしてはいるが、細長い目に鼻筋の通った顔立ちのよい男だった。もちろん、この辺りでは見ない顔だ。華奢に見えるラインだが、シャツをまくった腕には程良い筋肉が見え、体を鍛えている感じもみてとれる。田舎に不似合いな男は、亮一が昔働いていたバーの客のようだと思うとしっくりきた。男はぐったりと座りこんでいる。

―ここで、今入ってきたニュースです。昨夜、東京都内の飲食店で何者かが押し入り、その後火の手があがった事件で、警察庁は中島亮一四十八歳を強盗放火の容疑で指名手配しました。男には、都内で起きた連続強盗放火事件に関与している疑いも―

亮一は、水を止めるのも忘れてテレビに見いった。自分と同じ名前が呼ばれたような気がしたからだ。横では鍋がぐつぐつと音をたてている。昨日、畑から収穫したナス入りの味噌汁を朝食用に作っていたところだった。

―もう一度、繰り返します。警視庁は中島亮一四十八歳を連続強盗放火事件の容疑者として全国に指名手配しました―

亮一の手からコップが滑り落ちた。
「どうした」
振り返るとそこにあの男がいた。
「あぁあ!」
テレビには、目の前にいる男と同じ顔が映っている。画面に映る中島亮一という男は、鋭い目つきでこちらを睨んでいた。
「なんだ、そんな顔して」
中島はテレビを覗き込むと、慌てた様子もなく床に転がったコップに水をくみ、テレビの前に座り込んだ。亮一の頭は真っ白になった。
「そうだ、そうだ、警察に……」
携帯電話を探す。最悪なことに携帯電話は、中島の座る目の前にあった。こんな時についていないと、亮一は男が背を向けているのを確認して震える手をテーブルに伸ばしていた。
「この写真、映り悪くねぇか。なぁ」
振り返った中島は、テーブルに置かれたティッシュペーパーを一枚とった。亮一は慌てて手を引っ込める。心臓が尋常ではないくらいに鳴り響いている。テレビのニュースでは何度も、危険だとか凶悪だとか、恐怖をあおる言葉が垂れ流されていた。男は、ティッシュペーパーで頭の血を拭っている。テレビに見いっている隙にと、携帯電話に手をかけようとした、その時だった。一足先に、中島が亮一の携帯電話を手にとった。
「今時、スマホじゃねぇのか。若いのに」
「あの、それ……」
手の震えが止まらない。
「ん?」
「その、携帯」
「あぁ、悪かったよ。別に中を見ようってわけじゃ」
亮一は、中島から携帯電話を取りあげると、慌てて電話をかけようとした。
「おい!待て」
中島の声が豹変した。ドスの聞いたなんとも言えない声だ。携帯電話を握る手に力が入る。取り上げられれば、通報することは出来ない。そんなことより助けさえ呼べないのだ。
「なぁ、落ちつけ」
落ちついていられるわけがない。目の前には都内の連続強盗放火事件の犯人がいる。殺されれば間違いなく裏山に埋められ、発見までに時間がかかるだろう。そんな無残な死を遂げなければならないのか。中島はじっと亮一を見つめている。大声をあげても誰も助けにこないことくらい亮一が一番分かっていた。

「いいか、俺の話を聞け」
中島は立ち上がり、ゆっくりと亮一に近づけてくる。こんなに身長が高いとは、百八十を余裕で超える中島は亮一の顔をいつの間にか見下ろしていた。中島が顔を近づける。距離はわずか数センチ。亮一の背筋が凍った。
「悪いことは言わねぇ。通報するな、な」
人殺しの目だ。威圧的で血の通っていないその目に亮一は固まった。あっという間に携帯電話を中島に取りあげられると、亮一は肩を二回叩かれた。その力に促されるように亮一は床に尻餅をついた。

「あんた、犯人なんだろう」 
「あ?」
中島は、太い眉毛を釣り上げた。
「冗談はよせ。俺はやっちゃいねぇよ」
「でも」

―都内で八件の連続強盗放火事件が起きておりまして、そのうち一名の方が亡くなっています―

「人も、殺しているのか」
中島はニヤリと笑った。
「お前、ここに一人で住んでいるのか」
平屋の一軒家。築六十年の建物は風が吹く度に音をたてる。縁側に立ち、大きく背伸びする中島の前には、亮一が一年かけて育てた田んぼや畑が広がっていた。
「一人農業ってやつか。若いのに変わってるなぁ」

―指名手配されている中島亮一容疑者ですが、元刑事ということで― 

「元刑事?」
中島は振り返ると、またニヤリと笑った。
「どうして、こんなこと……」
「だから、俺はやってないって」

―防犯カメラの映像が入ってきました。昨晩の映像ですね。飲食店ティアラ、ここは二年前にも事件が起きた場所で―

「ティアラ?」
テレビに映るその場所に、亮一は言葉を失った。そこは、亮一が以前、務めていたバーだ。
「何で…」
亮一が辞めたと同時に店は潰れたはずだ。オーナー夫婦も閉店後、九州の娘のところに身を寄せたと聞いていた。ニュースで店主と名乗る男はモザイクで顔が見えない。きっと、誰かがあの場所でまた、店を開いたのだろう。
「何だ、知っているのか」
テレビには、また中島の顔が映し出されていた。
「……あんた、やっぱり、犯人なんだろう」
「だから、やってねぇって」
テレビには、真夜中の店内に一人佇む中島の姿がばっちりと映っている。
「ほう。こっちはまぁ、まだ良い映りだな」
中島は満足気に頷いた。
「そうじゃなくて、あんた…」
「だから、やってねぇって」
「だって、ばっちり映ってるじゃねぇか。それもあんたじゃないっていうのかよ」
「俺だよ」
「だったら」
「俺だけど、俺じゃねぇ」
「そんなの、意味が分からないよ…」

中島は、携帯電話をテーブルに置くと、台所へと歩いて行った。台所には、ナスの味噌汁が火にかけたままだ。「うまそうだな。おい、食っていいか」
亮一の答えを待たずに、中島は炊飯器を開けていた。
今しかない。亮一は、咄嗟に携帯電話を手にした。1、0、とプッシュをしようとしたその時だ。顔をあげると、片手に白飯を山盛りについだ中島が仁王立ちしていた。
「かけるのか」
「……当たり前だ」
しゃがみこんだ中島の目が、テレビと同じ顔つきになった。
「おい。落ち着けって」
「落ちついていられるわけないじゃないか」
中島は深い溜息をついた。と、白飯をテーブルにドンっと置くと、「この通りだ」と深く頭を下げて、土下座した。
「お前は信じないかもしれないが、俺は絶対にやってない」
「そんな、口では何とでもいえる」
「お前のいう通りだ。でも、俺はやってない」
額の傷が広がったのか、血が滲んでいる。
「お前にはもちろん何もしねぇし、迷惑もかけねぇ」
中島は、顔をあげなかった。0を押せばいいだけだ。そうすれば男は逮捕される。亮一は震える指先を伸ばす。
「この通りだ」
男の額から血がゆっくりとこぼれ落ちていく。
「……本当にやってないのか」
「あぁ、やってねぇ。三日だけ、三日間だけここに置いてくれ。そしたら俺は警察だってなんだって行くよ」
「俺を殺さないのか」
「何でお前を殺さなきゃいけねぇんだ」
中島は顔をあげた。血が頬に一本の線を描く。血を拭うこともせず、中島は再び頭を下げた。
「とりあえず、傷の手当てを」
亮一は携帯電話を閉じた。

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