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ココア

 「今日も、ごめんね」

 私は作り笑いをして、送り出す。同僚の美帆は、子どもの習い事の発表会だと言って定時より30分も早く退勤した。

 うちの会社は、子育て世代には働きやすい会社らしい。子どもの行事や急な病気の時も、すぐに退勤できる。有休も使わず、なんとなくいいよ、いいよ、の雰囲気があった。アットホーム、と言われれば聞こえはいい。

 私は、残務を見つめ、ため息をつく。今日も残業になるだろう。しわ寄せは決まって独身の私にふりかかってくる。不満を口に出そうものなら、子育ては大変なのだ、とか、独身は気楽でいいとか、結局、私が悪くなることを知っている。私は、私の選択で独身を、家庭を持つものは、自分でその道を選んだはずた。他人の時間を奪う権利なんてない。そして、そんな考えをしてしまう自分に、結局いつも嫌気がさした。

 残業を終え、アパートの扉を開けると、私はすぐにマグカップにココアを注ぐ。一口飲むと、スッとモヤモヤが小さくなったような気がした。今のところ、私のストレス解消法はこれしかない。

「それって、悪いのは会社じゃないの?」

 以前、健人が言った。健人は、物事を合力的に考える方で、私の愚痴もあっという間に片付けてしまう。

「優しいふりをして、勤怠管理もろくにできないルーズな会社なんだよ」

 イライラをぶつけるのは早退する同僚たちではなく、会社だと、健人は、バッサリと切り捨てた。健人の言うことはいつも納得できた。 

「そんな会社、辞めちゃえば」

 健人が来ると、夕食の後は決まってココアを作る。甘い物が好きな健人は、ココアを飲む時だけ、少年のような顔をした。私は、そんな健人が好きだった。

「この間、派遣の子が泣き出してさ。現場に向かったら、そこの社長、何て言ったと思う?派遣の車を俺の隣に並べるなって。俺、今時こんな人もいるんだって驚いたよ」

 健人は、人材派遣の会社に勤めている。

「その子も言い返したんだけど、結局社長に、俺を誰だと思ってるんだって、契約切られちゃって。オレ、彼女に言ったんだよ。こんな会社、続けなくてよかったですよって。だってそうだろう?彼女は正当に評価されてない。そんな会社、くだらねぇよ」

 健人の考えは、シンプルだ。その考えのおかげで、私も何度も助けられた。
  
 しかし、時にそれは、私を傷つけることもある。

「俺たち別れようか」

 突然の別れに、どうして?、と尋ねた私に、健人は言った。

「別れる理由もないけど、付き合う理由もないんだよね」

 その言葉は、何だか納得できた。確かに、私と健人は、別れる理由もないが、一緒にいる理由もないのかもしれない。私は、健人の言葉に反論できなかった。

 ココアのマグカップは、まだ二つある。私は、時々それを見つめながらこうやってココアを飲む。この時間だけでも、私は、健人と一緒にいる理由があったような気がした。

 ぶつけようのない想いは、私を一人、孤独にする。

 あなたは、今、幸せですか。

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