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打ち上げ花火には手が届かない

「これ、似合うかな」

娘の瑠璃香が、浴衣に袖を通す。青の髪飾りを気にしながら、クルクルと回るその姿は、千夜とよく似ていた。シンプルな白い浴衣に金魚の模様が、15歳の瑠璃香の年齢を少しだけ大人びさせていた。浴衣は、私の若い頃のものだと伝えている。何も疑わない瑠璃香が、どこか不憫にも思えていた。

「ほら、時間」
時計を指さすと、瑠璃香は慌てて、玄関へと向かった。
「亮平くんによろしくね。帰り、あんまり遅くならないように」
「わかってるって」
幼なじみの亮平とのデートに、数日前から浮かれている瑠璃香は、手を振って玄関を出ていった。
「行ったか」
夫の一良が、ため息をつき、心配そうな表情をした。
「よく、あの浴衣、着せる気になったな」
私は、ゆっくりと振り返り、笑顔を作った。
「もう、12年も経つんだもの」
コロナで中止になって、2年ぶりの祭りだ。その2年は、私にとっても踏ん切りをつけるいい機会になった。そう思うことにしている。
「今日さ…」
一良は、そう言いかけた後、やっぱりいい、と言って、仕事があるからと家を出た。

千夜と瑠璃香は血が繋がっていない。瑠璃香は、一良の姉の子どもだ。義姉夫婦は、瑠璃香を残して、交通事故で亡くなった。引き取るか、施設に預けるか、私と一良は何度も話し合いをした。数週間だけ預かる、私と一良の出した答えだった。警戒心の強い瑠璃香は、葬儀の後もなかなか、私と一良に心を開かなかった。このまま施設に、そう思ったこともあった。しかし、雷が鳴り響いたあの日、初めて瑠璃香は私の手を握りしめた。その震える小さな手を、私は決して離してはいけない、そう思った。千夜は、妹が出来ると告げると、誰よりも喜んでくれた。

「早く、運んで!」
「千夜!?」
記憶は、鮮明だ。あの日、私は、ストレッチャーに乗せられた千夜の手を泣きながら離した。まだ温かみのあったあの手が最後になるなんて、思っても見なかった。霊安室で握った千夜の手は、凍ったように冷たく、私は現実を受け止められないでいた。1秒1秒が、スローモーションのようだ。意識のない千夜を抱き、夜空には何発も花火が広がった。歓声が上がる。到着した救急車のライトに、観客が騒然となった。

人が雪崩のように重なって、千夜は下敷きになって死んだ。瑠璃香を守るようにして倒れていた千夜は、ピクリとも動かなかった。事故、一言で言えば、そうだ。人災だとか、不運が重なっただとか、そんなことはどうだっていい。私は、あの日から、ずっと時が止まったままだ。

花火師の父を持つ私は、小さい頃からこの祭りが大好きだった。父の大きな背中は、私の誇りでもあり、そんな父を優しく支えていた母も、自慢の母親だった。母から譲り受けた浴衣を、初めて千夜に着せたあの日、天国の母もきっと喜んでいるだろうと送り出した。まさか、こんなことになるなんて、何度も何度も、後悔した。

「佳苗いる?」
玄関から声がした。姉の巴だ。
「一緒に、花火見ようと思って」
巴は、スイカを両手で抱えていた。えくぼが見える笑顔は、私をほっとさせる。

縁側に座り、ビールを差し出す。巴は、乾杯、と言って一気に飲み干した。外はもう、暗い。夕日が沈み、辺りは夏の匂いがした。
「あの時からね、父さん、自分を責めているのよ。この町で花火を上げるのは自分の誇りだって。そういう人だったからね。でもね、千夜ちゃんが死んだ日、自分が打ち上げた花火を、一体どんな思いで見ていたんだろうって。そう思うと、年老いた自分が生きていいんだろうか、そんなことばっかり言ってた」
父の想いは知っていた。町内会の役員をしていた父は、祭りの安全を守りきれなかったことに強い責任を感じていた。何度も私に頭を下げる父は、あの大きな背中の父ではなかった。父のせいじゃない。わかっていても、私はやるせない気持ちをぶつけることしか出来なかった。  
「父さん、復帰したんだって?」
「うん。瑠璃香が父さんの上げる花火、楽しみにしてるって知ってね。もう歳だから。孫の望みを叶えたくなったのかもしれない。…瑠璃香、大丈夫なの?」
私は、ゆっくり頷いた。もしかしたら、千夜の死の理由をもう、知っているのかもしれない。小さな町だ。噂なんてすぐに耳にはいる。それでも、笑って生きようとする瑠璃香の強さは、千夜にそっくりだった。
「次は、あんたも前に進まないとね」
姉は、そういうと、私の背中をポンッと押した。
「もうすぐ、時間よ」
振り返ると、そこには一良が立っていた。
「瑠璃香、亮平君と楽しそうに笑ってたよ」
仕事だと嘘をついて、後をつけるなんて、一良らしい。私は、空を見上げた。空には大きな花火が上がった。
「綺麗ね」
この花火が終われば、もう夏が終わる。私は、手を伸ばしてみた。花火には手が届かない。 
「千夜も見えてるかな」  
夜空に広がる花火は、私の心も照らしているようだった。ほんの少しだけ、千夜に近づけたような気がした。

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