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一滴のしずく

 昼食は、いつも充分には取れない。ゆっくりどうぞと皆、口にはするが30分ほどで戻るのが暗黙のルールだ。午前の受付は11時まで、午後の診察は14時からで予約者のみとなる。しかし、午前の診察が時間通りに終わることはほとんどない。看護師達は交代で休憩をとることになっているが、ベテランに近い立場の綾乃は、うかうかと休憩をとれる立場になかった。

 自動ドアを出て通路に出ると、売店はいつも通り込み合っていた。コンビニに併設された食堂や喫茶店は、患者ではない者も利用できる場所で、喫茶店で販売するケーキを買いに遠方から訪れる者もいる。自動ドアを挟んだ向こう側は、病院とは思えない小さな街角のようだった。

「さっきはごめんなさいねぇ」
 振り返ると、先ほど検査室まで案内した老人の女性が会計を終えて出てくるところだった。
「あぁ、いえ」
「旧友とお話し中だったのでしょう?」
「気にしないで下さい。仕事ですから」
 たまたま診察にきた中学の同級生と顔を合わせた。子供連れの彼女との会話は窮屈で、場所を聞かれたのは、ある意味ラッキーだった。女性に頭を下げて売店に向かうと、いつものように混みあっていた。
 パンと飲み物を買って売店を後にすると、先ほどの女性がまだ、人混みの中、不安そうに辺りを見渡しているのが見えた。

「お迎えをお待ちですか?」
 綾乃が話しかけると、女性は不安から少し解放されたような表情をした。
「えぇ。初めてきたけれど、ここは大きくて人も多いわねぇ。夫の迎え、電話をしたらあと30分もかかるって。困ったものだわ」
 そういうと柔らかな笑顔を見せた。綾乃は売店の近くの長椅子に目をやった。少しばかりの空席はあるようだ。そこでコンビニの食べ物を口にする者もいる。休憩室で昼食をとることが日課だったが、新人のころは居づらさもあって、よくここで時間が来るのをじっと待っていたことがある。
「良かったら、つきあってもらえませんか」
 綾乃がコンビニの袋を見せると、女性は申し訳なさそうに笑った。
「飲み物、何か買って来ましょうか?」
「いいえ、いいのよ。近頃はトイレが近くなって。ありがとう、気を遣わせてしまって」
「いえ」

 長椅子に腰を下ろすと、行きかう人が慌ただしく通り過ぎていくのが見えた。不思議なことに綾乃の周りだけは、ゆっくりと時間が過ぎていくようだった。
「あなた、おいくつ?」
「私ですか?36歳になります」
「そう。すごいわね。こんな大きな病院、お仕事大変でしょう」
「えぇ、まぁ」
「お仕事、辞めたいと思ったことはないの?」
パンを頬張ろうとして、綾乃の手が止まった。
「それは、あります。でも」
「でも?」
「続けないといけないんです。そう決めたから」
「あなた、強いのねぇ」
 女性の言葉に、綾乃の手が止まる。
「そんなことありません」
「結婚は?」
「まだです」
 綾乃は笑いながら答えた。
「その顔を見ると、いい人がいるようねぇ」
「いればいいんですけど」
 女性は、その言葉にゆっくりと微笑んだ。

 時間になるのを確認すると、入口まで送ろうとする綾乃に女性はお礼を述べた。
「ここでいいわ、ありがとう。あなたのおかげで不安な時間を一人で過ごさなくて済んだわ。本当にどうもありがとう。気遣いのできるお方に会えて、私、とっても嬉しい。お仕事、頑張って」

 心からのお礼を言われたのはいつぶりだろう。こんな感情は久しぶりだった。まるで、一滴のしずくが固まった心を溶かしていくようだった。

 この仕事は、辛くても辞めない。そう決めている。私を庇って亡くなった彼女の人生を生きる。綾乃はそう決めていた。しかし、毎日の忙しさに、時には負けそうになることもあった。

「よしっ」
 綾乃は、立ち上がる。気合いを入れるように背伸びをすると、胸がスッとした気持ちになった。午後の診療が、もうすぐ始まる。

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