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あの日、私は向かいのホームにいた。電車が来るまで数学の参考書を立ち読みし、時間をつぶす。それがいつもの日常だった。最初に向かいのホームに現れたのは同じクラスの三上剛だった。三上は、どこか落ち込んでいる表情をしている。そんな時、隣のクラスの久遠優樹が現れた。三上はすぐに笑顔で呼びかけていた。

ほんの数分の出来事だ。参考書の隅に黄ばんだシミを見つけ、昨晩、母が入れてくれたハーブティーだろう。そんなことを思い出していた。駅のアナウンスが流れていただろうが、いつものことで覚えていない。女性の悲鳴というか、唸るような声が聞こえた。顔をあげたその瞬間、久遠が電車に吸い込まれていくのが見えた。まるで光の世界に包まれるように久遠は輝いて消えていった。

どれくらいの時間が経っただろうか。はっきりとした記憶は、拾い上げた参考書をサラリーマンが手渡してくれたところからだ。ほんの数分、私は異世界に飛んでいた。サラリーマンのおかげで、私は運よく現実世界に引き戻された。きっと久遠も同じで、戻ってくるはずだ。私は、本気でそう思っていた。

ただ事ではない。そう気が付いたのは、駅員と救急隊員の怒号が響いた時だ。三上は震えていた。ただ、まっすぐと電車を見つめ、彼は怯えていた。

「すみません」
声をかけてきたのは、警官だった。
「ちょっと話を聞かせてもらえませんか」
「私、見たのよ」
興奮気味に駆け寄ったのは、七十歳くらいの派手な女だった。警官は、私の顔を見るとすまなそうに頭を下げた。
「男の子がね、飛び降りたのよ」
「飛び降りた?」
「そう。駅のアナウンスの後、すっと前に。変だなぁって思って見てたら、いきなり。何を考えてるのかしらねぇ。今の若い子って。ねぇ、彼、死んだの?」
この場所から立ち去りたい。足は自然と改札へと向かっていた。
「あ、ちょっと待って」
警官の声で立ち止まる。追いかけてきた警官は早口でこういった。
「さっき、そこで起きたこと何か見ていないかな」
何を話せばいいのだろう。久遠は本当の光になったといえば、信じてもらえるのだろうか。いいや、久遠は生きている。きっと別の世界で。
「いいえ」
咄嗟に出た言葉だった。久遠のことを口に出せば、もう二度とこの世界には戻ってこない、そんな気がしていた。

三上が怯えていた理由は、分かっている。私たちは、一緒に死のうと約束をしていた。私の手は、震えている。人は簡単に消えてしまう存在なのだと目の当たりにした。別の世界に消えたいと思っていたはずなのに、臆病な心が顔を出した。私は、震える手をぎゅっと握りしめた。

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