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アイスが溶けるまで

 ここだけは安全だと、そう思った。

「おいしいなぁ」

 流れてくる涙をただ拭い、私は一口だけアイスを口にした。
 もう、私の住所も名前も、きっとばれているだろう。窓から歩行者が見える。人々が手にするスマホに、私は怯えていた。

 濡れ衣だ、違うんだと叫んでも、きっと無意味だ。周りの人間があっという間に消え去り、冷たい視線を送る。この状況は、あの時と同じだ。
 兄が同級生を刺したあの日から、私は私として生きていけなくなった。名前も住所も変え、静かに暮らしていても、すぐに見つかってしまう。慣れているはずなのに、涙は止まらなかった。

 記者の堤下が、訪ねてきたのは2ヶ月前のことだ。宅配だと嘘をついて、ドアの前に立つ彼は、目鼻立ちのくっきりとしたいい男だった。2ヶ月の間、私は堤下を信頼し、全てを捧げた。兄のことも堤下には、全て話してもいい、そう思うくらい、純粋にただ愛していた。しかし、堤下は、そんな私を簡単に切り捨てた。
 同僚の弥栄を殺したのは私、そう記事にしたのは堤下だった。堤下は、どこか兄に似ていた。きっと兄のように、私を大切にしてくれると、そう思っていたのに。

 3年前、弥栄の死は、しばらくの間だけ話題になった。勿論、私の身辺調査も行われた。弥栄は、ブランド品を好み、派手に遊んでいるような女だった。地味な田舎の工場では、到底手に入らないような高価なものを身につけていた彼女を、社長の愛人だと噂する人もいた。
人を避けて生きてきた私は、弥栄の奔放さにどこか惹かれる部分もあった。

 胸を一突き。弥栄の死に方は、兄が同級生を刺した時と同じだ。工場の駐車場に設置された監視カメラには、弥栄と私しか映っていない。古い工場で、カメラの死角なんてどこにでもある。あの日、仕事終わりに弥栄に呼び出された私は、すぐに工場を後にした。その1時間後、弥栄は殺された。

 刑事が、兄の事件とリンクさせると、すぐに私に疑いの目が向けられた。証拠がないことから、私はグレーというレッテルを貼られ、解放された。居づらくなった私は、工場を辞め、この隣町に引っ越した。この辺りは、兄と幼い時によく出かけた町で、母からも父からも愛されなかった私にとって、唯一、気の休まる場所でもあった。兄は、アイスを頬張る私を、いつも優しく見守っていてくれた。

 刺したのは、わざとではない。少しじゃれあっていただけだ。私は、ずっとそう思っている。あの時も、泣き叫ぶ母と、怒鳴り散らす父の横で、私だけが兄の見方だった。

 私は、兄に伝えただけだ。ナイフは護身用に必要なこと、私がその同級生にイタズラされたこと。真実か真実じゃないかなんてどうでもいい。私は、かわいそうな妹で、不憫でありたかった。そうすれば、兄はずっと私のそばにいてくれる。そう確信していた。
 
 きっと兄は、今回も一言も私のことを話さないだろう。弥栄が、私からお金を無心していたことも、工場のお金に手をつけてしまったことも。

 アイスが溶けていく。もう時期ここに、兄がくる。兄はきっと私をまた、優しい眼差しで見つめてくれるだろう。サイレンが聞こえる。大丈夫だ。このお金で、幸せになれるはずだ。兄だけは、私を見捨てない。きっと兄は、ここにくる。

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