僕の世界
「まだ、迷っているのか」
父から声をかけられた僕は、素直に頷くこともできなかった。
「お前の、好きにしろ」
父の発した言葉に驚きを隠せない。厳格な父が、仕事を辞めると言って納得するとは思っていなかった。
反抗期もさほどなく、毎日、真面目に生きてきた僕は、はみ出すことも争いごとも好まない。多分、このままこの生活をしていれば、幸せなのかもしれない。
勉強もそこそこに、剣道に明け暮れ、僕の青春と呼べる時間は、それなりに充実していた。大学を卒業し、父と同じ銀行マンになって3年。成績だって、悪くはなかった。ただ、どこか、熱くなれるものがない、そんな自分に気がついていた。
「全く、今の若者は」
仕事を辞めると告げた時、祖父は、予想通りの反応を示した。祖父の言うように、平和ボケしている僕らは、自由を履き違えているのかもしれない。
祖父は、呆れたように、父の教育のせいだと言った。
「なんで仕事、やめようと思ったの?」
梨沙が、聞きにくそうな顔をした。多分、銀行マンの僕と結婚する未来を描いていたのだろう。
「ごめん」
聞きたかったのは、きっとこんな言葉じゃない。梨沙の眉は少し歪んで、その後に、わかった、と笑った。これが二人の別れなのだろうか。梨沙は、それから何も聞かずに来週どこに行く?と続けた。
期限切れのパスポートを取り直し、バックに荷物をつめる。出発の日まで、見守る母の顔は見れないでいた。きっと、ここで立ち止まれば、また変わらない自分に戻ってしまう。僕は前を向いた。
「これ」
出発の日、母はアルバムを差し出した。そこには、色とりどりのポストカードがあった。外国の景色に、今よりも細身の父が、見たこともない顔で笑っている。
「それ、父さんの宝物なの。父さんもね、若い頃、1年くらい旅してたのよ」
母と父は、同じ大学で知り合った。きっと母も、梨沙と同じ思いをして、父を送り出したのかもしれない。
「あんたは、父さんそっくりだよ」
厳格な父は、出発の日でさえ、いつもと変わらず何も言わなかった。
「気をつけて」
僕は母の言葉に頷いて、一歩を踏み出す。僕の世界はこれからだ。
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