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偽りの笑み

「私が死んでも、誰も困らないんです」
相談室は、いつも日あたりをよくしている。相談者の落ち込んだ気分を少しでも癒すことができればとの想いもあるが、最近は自分のためでもある気がしていた。カウンセラーとして、独立してもうすぐ1年。病院の窮屈さから抜け出した反面、責任はぐっと重くのしかかっていた。
「先生、ありがとうございました」
先生、との呼ばれる度に、いつもどこか違和感を覚える。医者でもない私は、はたして先生と呼ばれる存在なのだろうか。

―葬儀は近親者のみで行うつもりなの。だけど、もしよかったら顔みにだけでも来てくれないかしら。ナナも、きっと喜ぶと思うから。

連絡が入ったのは、昨日の夜だ。ナナが亡くなったことを告げられた私は、目の前が真っ暗になった。相談室の鍵を閉めると、ユタがコーヒーを準備してくれていた。
「終わった?」
「えぇ」
「大丈夫?顔色悪いようだけど」
ユタは、マグカップにコーヒーを注ぐと、そっと差し出した。ユタと同棲を始めてもう3年が経つ。来月、婚姻届を出す予定だ。
「昨日眠れなかったようだね。無理もないか、ナナちゃんが亡くなったんだから」 
私は、隣に腰かけたユタの問いかけに答えることはなかった。コーヒーが全身を潤していく。
「俺もついて行こうか」
ユタは薄い唇をきゅっと引き締め、私の肩を抱き寄せた。
「大丈夫。一人で行く」
ユタは、優しく私の頭を撫でると、じゃ、仕事があるからとアパートを後にした。何かあったらすぐに連絡してくれよ、いつも通り、ユタは優しい言葉を私にかけた。

電車で二時間、学生時代まで過ごした町に戻るのは、久しぶりだった。ナナに呼ばれた。そんな気がしていた。

「こんにちは」
ナナが、私のカウンセリングを訪れたのは半年前だ。綺麗で、頭もよかったナナは、20年経ってもあの時と変わらない。悩みがある、ナナはそのつもりでここを訪れたはずなのに、カウンセリングの30分の時間は、学生時代の思い出話しで盛り上がった。
「ごめんね、仕事中に」
「ううん」
「ハナエに会えてよかった」
ナナはそういうと、私の手を握った。
「じゃあ、帰るね」
「あ、でも、ナナ…」
ナナは、呼び止める私の声を遮るように、笑って手を振って帰っていった。それからナナは、私の元を訪れることはなかった。

電車を降りると、辺りは夕焼けが包みこむようにオレンジ色をしていた。無人駅の改札を出ると、都会とは違い、優しい風が流れ込んでいる。実家も駅のすぐそばだ。ユタを紹介して以来、顔は出していない。実家の赤い屋根を確認すると、私は、タクシーを拾った。

「牧野町まで」
タクシードライバーは返事もせずにアクセルを踏んだ。ナナの実家はここから車で10分ほどの場所にある。短い時間、タクシードライバーは一言だけ声を発した。ここらの人じゃないね、その声に私はゆっくりと頷いた。

ナナの家につくと、多数の車が路上に停められているのが見えた。葬儀屋の車も見える。玄関からは、隣家の人だろう、慌ただしく女性が出てくる様子がうかがえた。踏み入れる足が止まった。あの時、ナナは、私に何を伝えにきたのだろう。

「ハナエちゃん?」
振り返ると、ナナの母親は、気丈に振る舞おうとにっこりと作り笑いをした。その笑顔は、あの時のナナと同じ表情だった。
「ありがとう、ありがとうね」
泣き腫らした目から、また、大粒の涙がこぼれていく。私は、深く頭を下げた。

ナナは、どこで気がついたのだろうか。ナナとユタの結婚を壊したのは私だ。10年以上も付き合っていたナナは、ユタに惚れ込んでいたことを私は知っていた。
ねぇ、ナナ、あの時、私に何を言いたかったの。遺影のナナは、あの時と変わらない笑顔で私を見つめていた。

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