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楽園

 人は、どこまで残酷になれるのだろうか。大切な人を守るためなら、きっと鬼にでもなれる。それが親というもので、そんな愛情こそが、どこかあたりまえだと思っていた。

「ほら、行きなさい」
 
 目の前にいるのは、3歳の娘を放置し、虐待して殺した女だ。美濃愛莉は、うなだれたようにして車に乗り込んだ。外には、どこで聞きつけたのだろうか、ハイエナのように群がり、笑みを浮かべたマスコミたちが一斉にシャッターを切った。

 逮捕された人間は、何を思うのだろう。過ちを悔いた後悔か、この先の保身か。その者の人間の本性を炙り出される瞬間だ。フラッシュの光を全身に浴た愛莉は、ただ、真っ直ぐと前を向いていた。23歳、若くして母になった愛莉の周りには、助けてくれる人間はいなかった。家族とも疎遠になり、友達と呼べる仲間もいない。苦しい思いをしていただろうと容易に想像できた。しかし、それが幼い命を奪っていい理由には、決してならない。

「藤村はまだ見つからないのか!」
 無線で課長の怒鳴り声が聞こえた。内縁の夫、藤村大和は、いまだに逃げ続けている。捕まるのも時間の問題だ。4つ年上の藤村は、愛莉にとって唯一の支えだったのかもしれない。

「夜になると、泣き声が聞こえて。おかしいっていつも思っていたのよ」
 近所の女性はそう言った。
「ここ最近、アザが二ヶ所あって。どうしたのって聞いたら転んだっていうんです。でも、転んだだけであんなアザができるかなって」 
 保育士は涙を流してそう話す。
「そう言えば、夜中に一人で歩いていたのを見たことがあったな」
 若い男性が言った。

「やるせないですね」
 配属されたばかりの並木佳苗は、目に涙を浮かべていた。
「そうだな」
「母親も許せないけど、周りも」
 佳苗は、そういうとぎゅっと左手の拳を握りしめていた。どこで聞いても、皆、愛梨の虐待にも子どもの異変にも気がついていた。
「本当に怖いのは、無関心を装う人間の方かもしれないな」
 救えたかも知れない命。それは警察の私たちも同じだった。
「ほら、行くぞ。俺らが出きるのは、事実を調べること。まずは、それしかない」
 佳苗は、ゆっくりと頷いた。

 気づかないふりをする。人間はそうやって、自分だけは安全な場所にいて、見せかけの楽園の中で生きる生き物なのかもしれない。私は、ため息をつき、エンジンをかけて車を走らせた。

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