見出し画像

カーテンの向こう側

殺してしまえる距離だと思った。

カーテン越しに見えるマンションの一室にあの男はいる。私は、右手をぎゅっと握りしめていた。先月までこの手のすぐ近くには拳銃があった。人命を守る為の銃だ。今、それがあればきっと迷わずあの男の頭を打ち抜くのだろう。右手は小刻みに震えていた。やはり警察官を辞めておいてよかった。周りに迷惑をかけるわけにはいかない。退職届を出したのは自分なりの警察官という職への最後の誇りでもあった。

先月まで詫間署管内の交番で警察官として行きかう人々を見守ってきた。高校を卒業して十四年、ただ地道に警察官として生活してきた。その自分が、今人を殺そうとしている。人生とは分からないものである。小さな頃から夢見ていた警察官の職を辞してまで、やりとげなければならないことが出来るとは思ってもみなかった。

額から汗が滴り落ちる。六月だというのに部屋の温度は真夏と変わらないほどの蒸し暑さに感じられる。明海と住んでいた2LDKに比べると1kのアパートの一室なんて狭いものだ。しかし、あまりそう感じさせないのは殺風景な空間のせいなのだろう。物はなにもない。ここに取り付けたものは黒い遮光カーテンだけだった。長居するつもりははじめからない。明海と暮らして来たアパートもすでに引き払い、ほとんどの物も処分してきた。あの男を殺す。そのことだけしか、今の自分の頭にはない。

内藤真司。この名前を一日たりとも忘れたことはない。明海の命を奪った男がのうのうと自分と同じ世界に生き、時を刻んでいるのだと思うと気が狂いそうになる。五年だ。短くて長い地獄のような日だった。最近、ふと鏡を見るとようやく自分があの頃より歳をとっていることに気がついた。無理もない。もう三二歳だ。二〇代の頃とは違う。頬骨もどこかがっしりとし、やせ細った頬がくぼんで見えた。同僚達の子どもはみるみるうちに大きくなっていく。手を繋ぐ親子を見ると自分にもあんな未来が待っていたのだと思い知らされるようで、ますます内藤が憎くなった。そんな時、一通の手紙が届いた。内藤真司の居場所を知るものだと名乗るその手紙の主は、淡々と内藤の現状を語りだした。内容はよく覚えていない。ただ、流れ出る涙でその文字がにじみ、気がつくと手紙をバラバラに破り捨てる自分がいた。あいつは生きている。何食わぬ顔をして家庭を持ち、ささやかな幸せの中に生きている。身の毛もよだつ事実に、怒りがこみ上げていた。

小さな町工場の営業をやっている。そんな不確かな情報だけを頼りに、私はこの町を訪れた。内藤が住んでいると思われるマンションを見つけ出すのはそう難しいことではなかった。近所に聞き込みをすれば最初は青白い顔をした私に怪訝な顔を見せる住民たちも、内藤に世話になった者だと言うと皆、笑顔になった。

とても気立ての良い夫婦。これが内藤夫妻のこの町の顔だった。私はすぐに向かいのアパートの一室に身を寄せることにした。夜遅くボストンバック一つの引っ越しに年老いた大家は、訳も聞かず「若い人は大変ですね」と労いの言葉をかけた。築四十年、マンションが立ち並ぶ街並みの一角に古ぼけたアパートが、ポツリと建つ。海沿いには大手企業の工場が建ち並び、派遣や日雇いで流れ来る人も多い。年老いた大家は、私の肩をポンポンと二回、励ますように叩いて去って行った。人の温かさに触れるのはいつぶりだろうか。自分がこれから犯す行為の愚かさに少しだけためらいの感情が現れていた。

明海は今の自分をどう思うのだろうか。窓に映る自分の顔は、もう人間の魂を捨ててしまった悪魔そのものだ。私は、すぐにその悪魔を消し去るように遮光カーテンを引いた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?