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軽さと重さでは、どちらが肯定的なのであろうか? 『存在の耐えられない軽さ』引用メモ

20代前半に初めて読み、「一度だけおこることは、一度もおこらなかったようなものだ」というフレーズが心に焼きつき、以後数年に一度のペースで読み返すたびに新たな発見がある、底知れない奥深さのある名作小説。恋愛小説とよく紹介されているのも正しいと思うけど、そんな枠に収まってはいない。上記のフレーズが人生の真相ではないかと薄々感じている人は、一度読んでみても損はないかと。
最近また通しで読み返したので、ゆっくり考える材料にしようと思い、本書の主題である「軽さと重さ」に明示的に言及しているテクストを引用の範囲で拾ってみた。抜け漏れ偏りは恐らくあり、一部は周辺の気になった文章も気まぐれに混じってるけど、基本は自分用のメモなので御容赦をば..。
前はハードカバーの単行本を持ってたけど、今は文庫本しか手元に残してないので、以下が引用元の文献です。

『第I部 軽さと重さ』より

 この問題を提出したのは西暦前六世紀のパルメニデースである。彼は全世界が二つの極に二分されていると見た。光ー闇、細かさー粗さ、暖かさー寒さ、存在ー非存在。この対立の一方の極はパルメニデースにとって肯定的なものであり(光、細かさ、暖かさ、存在)、一方は否定的なものである。このように肯定と否定の極へ分けることはわれわれには子供っぽいくらい容易にみえる。ただ一つの場合を除いて。軽さと重さでは、どちらが肯定的なのであろうか?
 パルメニデースは答えた。軽さが肯定的で、重さが否定的だと。
 正しいかどうか? それが問題だ。

ミラン・クンデラ 『存在の耐えられない軽さ』(千野栄一訳), 集英社文庫, 1998年11月, p.9

 Einmal ist keinmal(一度は数のうちに入らない)と、トマーシュはドイツの諺をつぶやく。一度だけおこることは、一度もおこらなかったようなものだ。人がただ一つの人生を生きうるとすれば、それはまったく生きなかったようなものなのである。

ミラン・クンデラ 『存在の耐えられない軽さ』(千野栄一訳), 集英社文庫, 1998年11月, p.13

 もう七年というもの彼女に縛られて生活してきた。そして彼の一歩一歩は彼女の目で監視されていた。彼の足首には鉄の球が結び付けられているかのようであった。彼の足どりは急にとても軽くなった。舞い上がらんばかりであった。彼はパルメニデースの磁界にいた。存在の甘い軽さを楽しんだのである。

ミラン・クンデラ 『存在の耐えられない軽さ』(千野栄一訳), 集英社文庫, 1998年11月, p.42

 土曜日と日曜日には存在の甘美な軽さが未来の深淵の中から彼に近づいてくるのを感じた。月曜日にはこれまで知らないような重苦しさが彼を襲った。ロシアの戦車の鉄の重さを全部合わせてもその重さと比べれば何でもなかった。同情より重いものは何もないのである。自分自身の感ずる痛みというものは、誰かと共に感じたり、誰かのためを思って、何倍にも強く想像され、百もの共鳴を伴って長びく痛みのように重くはないのである。

ミラン・クンデラ 『存在の耐えられない軽さ』(千野栄一訳), 集英社文庫, 1998年11月, p.44

 パルメニデースとは違ってベートーベンにとって重さは何か肯定的なものであった。"Der schwer gefasste Entschluss"(苦しい決断の末)は運命の声("es muss sein")と結ばれていて、重さ、必要性、価値は内部で相互に結ばれている三つの概念であり、必要なものは重さであり、重さのあるものだけが価値を持つのである。

ミラン・クンデラ 『存在の耐えられない軽さ』(千野栄一訳), 集英社文庫, 1998年11月, p.46

 誰もがわれわれの人生の愛は重さを感じさせない何か軽いものでありうるとは考えていない。われわれは愛とはそうでなければならないもの、それなしではわれわれの人生が最早われわれの人生ではないと思っている。

ミラン・クンデラ 『存在の耐えられない軽さ』(千野栄一訳), 集英社文庫, 1998年11月, p.48

第I部で引用されるパルメニデースとベートーベンの考え方は、このあと本書全編にわたって、登場人物の生き方を描写するシーンで繰り返し言及される。

『第II部 心と身体』より

 皮肉なことに、その後少し経ってから今度はテレザが嫉妬し始めた。彼女の嫉妬はトマーシュにとってはノーベル賞どころではなく、死の少し前にやっと取り除くことのできた重荷であったのである。

ミラン・クンデラ 『存在の耐えられない軽さ』(千野栄一訳), 集英社文庫, 1998年11月, p.73

ここの「重荷」は、もしかすると主題の「軽さ」「重さ」とは関係ない一般表現かもしれないが、一応拾ってみた。
第II部は、主題に関するメタな視点からの言及がなく、テレザを中心とする具体的なストーリー描写がメインになっている。そのせいか、映画化作品で多くのシーンが撮られていたような気がするけど、かなり昔に1回見ただけなのでうろ覚え。


『第III部 理解されなかった言葉』より

裏切り。幼いときから想像しうるものでもっともよくないことであると、父親や先生にいつもいわれていたことであった。だが、裏切りとは何なのであろうか? 裏切りとは隊列を離れることである。裏切りとは隊列を離れて、未知へと進むことである。サビナは未知へと進むこと以外により美しいことを知らなかったのである。

ミラン・クンデラ 『存在の耐えられない軽さ』(千野栄一訳), 集英社文庫, 1998年11月, p.115

 しかし、BのためにわれわれがAを裏切り、そのBを裏切っても、それによってAと和解するということにはならない。離婚した女流画家の一生は裏切られた両親の人生には似ることはなかった。第一の裏切りは取り返しのつかないものである。それは次から次へと裏切りの連鎖反応を引き起こし、そのいずれもがわれわれをもとの裏切りの場所からよりいっそう遠くへと引き離していくのである。

ミラン・クンデラ 『存在の耐えられない軽さ』(千野栄一訳), 集英社文庫, 1998年11月, p.117

サビナは第I部から登場しているが、主題に直接言及する重要なテクストは第III部で書かれ始めていた。上に引用した文章に「軽さ」「重さ」に関する直接の言及はまだないが、「裏切り」がとても重要なキーワードなので抜粋。

 サビナにとっては真実に生きるということ、自分にも他人にもいつわらないということは、観客なしに生きるという前提でのみ可能となる。われわれの行動を誰かが注目しているときには、望むと望まないとにかかわらず、その目を意識せざるをえず、やっていることの何ひとつとして真実ではなくなる。観客を持ったり、観客を意識することは嘘の中で生きることを意味する。サビナは著者が自分や自分の友人のあらゆるプライバシーをあからさまにする文学というものを断固として拒絶する。自分のプライバシーを失う者は、すべてを失うと、サビナは考える。そして、それを自分の意志で放棄する者は異常である。そこでサビナは自分の恋をかくさねばならないことを苦にはしない。逆に、そうしてのみ「真実に生きる」ことができるのである。

ミラン・クンデラ 『存在の耐えられない軽さ』(千野栄一訳), 集英社文庫, 1998年11月, p.144

 人生のドラマというものはいつも重さというメタファーで表現できる。われわれはある人間が重荷を負わされたという。その人間はその重荷に耐えられるか、それとも耐えられずにその下敷きになるか、それと争い、敗けるか勝つかする。しかしいったい何がサビナに起こったのであろうか? 何も。一人の男と別れたかったから捨てた。それでつけまわされた? 復讐された? いや。彼女のドラマは重さのドラマではなく、軽さのであった。サビナに落ちてきたのは重荷ではなく、存在の耐えられない軽さであった。

ミラン・クンデラ 『存在の耐えられない軽さ』(千野栄一訳), 集英社文庫, 1998年11月, p.156

 サビナは自分のまわりに虚しさを感じた。ところで、もしこの空虚さが彼女のこれまでのすべての裏切りのゴールだとしたら?

ミラン・クンデラ 『存在の耐えられない軽さ』(千野栄一訳), 集英社文庫, 1998年11月, p.156

この小説を最初に読んだ20代のとき、サビナにはあまり関心がなかったので、ここで引用したテクストは全く記憶に残ってなかった。が、年を重ねるにつれ自分はサビナの要素が凄く強いと分かってきて、今では第III部がクライマックスにすら思える。引用した通り、小説のタイトルである「存在の耐えられない軽さ」はサビナの人生を表現するために捧げられている。

『第IV部 心と身体』より

念のため注釈で、第II部と第IV部、第III部と第V部は、同じ見出しです。

 しかし、その後、テレザと彼女の身体の間の関係はどんなものになるであろうか? 身体にはそもそもテレザと名のる権利があるのであろうか? もしその権利がないのなら、名前というものは何と関係するのであろうか? ただ何か無形体のもの、何か非物質的なものなのか?
(これらはテレザが子供の頃から頭を悩ませている問いである。本当に重要な問いというものは、子供でも定式化できる問いだけである。もっとも素朴な問いだけが本当に重要なのである。問いにはそれに対する答えのない問いもある。答えのない問いというものは柵であって、その柵の向こうへは進むことが不可能なのである。別ないい方をすれば、まさに答えのない問いによって人間の可能性は制限されていて、人間存在の境界が描かれているのである。)

ミラン・クンデラ 『存在の耐えられない軽さ』(千野栄一訳), 集英社文庫, 1998年11月, p.174

 技師とのハプニングが彼女に教えたのは、アバンチュールが愛とは何の関係もないということだったのであろうか? それは軽いもので、重さのないものであろうか? 彼女は前より落ち着いているだろうか?
まったく否である。

ミラン・クンデラ 『存在の耐えられない軽さ』(千野栄一訳), 集英社文庫, 1998年11月, p.201

 多くの人たちは未来に逃げ込むことによって自分の苦しみから逃れる。時間の軌道に、その向うでは現在の苦しみが存在を止める線を、想像して引く。しかし、テレザの未来にはそのような線は一本も見えない。なぐさめを彼女にもたらすことができるのはただ回顧だけである。

ミラン・クンデラ 『存在の耐えられない軽さ』(千野栄一訳), 集英社文庫, 1998年11月, p.208

第IV部では、引用した箇所に書かれている技師とのハプニングや、その前のペトシーンの丘での出来事(夢?)など、小説のストーリーとして重大なことが起きる。テレザに自己投影する人には、このパートをどう読むかで終盤の味わい方が変わるかもしれない。

『第V部 軽さと重さ』より

 トマーシュはこうした微笑みに我慢がならなかった。それはどこでも、通りで出会う知らない人たちの顔にも見られるように思えた。彼は眠ることができなかった。どうして? そのことがその人たちにそのような重さを与えるのだろうか? いや。彼はその人たちについて何ら評価していないので、その人たちの視線にそれほど平穏さを失うことに腹が立つのである。そこにはいかなる論理もない。すこしも重んじていない人たちの意見にこれほど執着するというのはいったいどういうことなのであろうか?

ミラン・クンデラ 『存在の耐えられない軽さ』(千野栄一訳), 集英社文庫, 1998年11月, p.228

われわれは嘘がつけない。「本当のことをいいなさい!」という、お母さんやお父さんがわれわれにたたき込んだ命令法は、われわれを尋問する警官の前でさえも自分の嘘を恥じるよう自動的に作用するのである。

ミラン・クンデラ 『存在の耐えられない軽さ』(千野栄一訳), 集英社文庫, 1998年11月, p.234

 人間をカテゴリーに分類することがそもそも可能であるならば、あれかこれかの全生涯の活動に彼らを方向づける深い願いによってである。フランス人は一人一人違っている。しかし、世界の俳優という俳優は、パリでも、プラハでも、もっとも場末の劇場でさえ、お互いに似ている。俳優とは子供のときから名前のない観衆に、生涯を通じて自らを見せることに同意している人である。この基本的な同意は、才能とはなんの関係もなく、才能より深いものなので、それなしでは俳優として立つことはできない。同様に医者も全人生を通じ、細かい所まで徹底的に人間の身体をこねまわすことに同意している者である。この基本的同意(けっして才能とか器用さではない)が一年目に解剖室に入り、六年後に医者になることを可能にさせる。

ミラン・クンデラ 『存在の耐えられない軽さ』(千野栄一訳), 集英社文庫, 1998年11月, p.242

 しかし、それではこのように深いものを、どうして彼はこんなに早く、断固として、しかも易々と投げ出すことができるのであろうか?

ミラン・クンデラ 『存在の耐えられない軽さ』(千野栄一訳), 集英社文庫, 1998年11月, p.243

 たとえそうであったにしても、私には彼の決定の性急さは特別なように見える。そこには彼の理性的判断からもれた、何か他の、深いものがかくされていたのではなかろうか?

ミラン・クンデラ 『存在の耐えられない軽さ』(千野栄一訳), 集英社文庫, 1998年11月, p.243

 私には、例の攻撃的でおごそかで厳しい "Es muss sein!"(そうでなければならない!)がずっと以前から密かにトマーシュをいらつかせていたので、彼はパルメニデースの精神に従い、重いものを軽いものに変えるという深い願いを抱いたように、思える。かつて、最初の妻と息子に永遠に会うことを拒否し、両方の両親と別れるのも軽い気持ちで受け入れたことを思い出していただきたい。これは、トマーシュに対し重い義務、すなわち "Es muss sein!" として宣告されていたことを、激しい必ずしも理性的とはいえないジェスチャーで投げ捨てたとしたら、そのジェスチャーより別な何があったのであろうか?

ミラン・クンデラ 『存在の耐えられない軽さ』(千野栄一訳), 集英社文庫, 1998年11月, p.246

 彼は自分がまったく当てにされていないことを理解していたが、これはこれでよかった。内的な "Es muss sein!" に強制されることなく仕事につき、毎晩職場を離れた瞬間にそれを忘れることができる人びとの幸福を急に理解した。このような至福の無関心を感じたことはこれまで一度もなかった。彼は手術室で思ったほどうまくいかなかったとき、絶望的になり、そのため眠れなかった。しばしば、女への欲望さえ失った。彼の職業の "Es muss sein!" は彼の血を吸う吸血鬼のようなものであった。

ミラン・クンデラ 『存在の耐えられない軽さ』(千野栄一訳), 集英社文庫, 1998年11月, p.247

 義務? 息子が父親に自分の義務を注意する? これこそ彼にいってはならない最悪の言葉であった! トマーシュの眼前にはふたたびカラスをかかえているテレザの姿が浮かんできた。そして、昨日テレザに警察の手下がバーでいやがらせをしたことを思い出した。またテレザの手がふるえることになろう。彼女はめっきりと老けてしまった。彼にはテレザ以外のことはどうでもいい。六つの偶然から生まれた彼女、外科部長の神経痛から咲いた花の彼女、あらゆる "Es muss sein!" (そうでなければならない!)の反対にいる彼女、彼女だけが彼が気にする唯一のものなのである。

ミラン・クンデラ 『存在の耐えられない軽さ』(千野栄一訳), 集英社文庫, 1998年11月, p.278

 彼はいった。「嘆願書を大統領に送ることより、地面に埋められているカラスを掘り出すことのほうがはるかに大切です」

ミラン・クンデラ 『存在の耐えられない軽さ』(千野栄一訳), 集英社文庫, 1998年11月, p.278

 歴史も、個人の人生と似たようなものである。チェコ人の歴史はたったの一度しかない。トマーシュの人生と同じようにある日終わりを告げ、二度繰り返すことはできないであろう。

ミラン・クンデラ 『存在の耐えられない軽さ』(千野栄一訳), 集英社文庫, 1998年11月, p.282

 Einmal ist keinmal.(一度は数のうちに入らない)ただ一度なら、全然ないことと同じである。チェコの歴史はもう一度繰り返すことはない。ヨーロッパの歴史もそうである。チェコとヨーロッパの歴史は人類の運命的未経験が描き出した二つのスケッチである。歴史も個人の人生と同じように軽い、明日はもう存在しない舞い上がる埃のような、羽のように軽い、耐えがたく軽いものなのである。

ミラン・クンデラ 『存在の耐えられない軽さ』(千野栄一訳), 集英社文庫, 1998年11月, p.283

第V部は比較的多めの抜粋になったが、全てトマーシュを描写する文章だった。最後のp282,283の引用箇所だけ、トマーシュの人生に照応させてチェコの歴史について言及している。著者は、軽さ・重さのどちらが肯定的なのかを作中で書くことはないが、「耐えがたい」と描写されるのは軽さだけのようだ。

『第VI部 大行進』より

 もし、拒絶と特権が同じもので、高貴と低級さの間に差異がなく、神の子が糞のために裁かれることもありうるのであれば、人間の存在はその大きさを失い、耐えがたく軽いものとなる。スターリンの息子が電流の流れている有刺鉄線に向かって駆けていき、自分の身体を秤の皿に投げ出すようにすると、秤の皿は悲しげに、大きさを失った世界の際限のない軽さに持ち上げられて、天に向かって突き出すのである。

ミラン・クンデラ 『存在の耐えられない軽さ』(千野栄一訳), 集英社文庫, 1998年11月, p.310

 それが幻想であることを彼女はよく知っていた。老人のところでの滞在は短い逗留以外の何物でもない。老人は重い病気にかかっており、彼の妻は、一人で残されることになったら、カナダにいる息子のところへ行く。サビナの裏切りの道は続くことになり、存在の耐えられない軽さの中へ、彼女の内部の深いところから灯のともった二つの窓とその後ろで暮す幸福な家庭についての、奇妙なセンチメンタルな歌がきこえてくる。

ミラン・クンデラ 『存在の耐えられない軽さ』(千野栄一訳), 集英社文庫, 1998年11月, p.324

 サビナの絵はよく売れ、アメリカが気に入った。しかし、ただ表面的にのみ。その表面の下にあるのは、見知らぬ世界であった。その下にはおじいさんも、おじさんも眠っていなかった。棺に入れられ、アメリカの土の中に降ろされるのは恐かった。
 そこである日遺言状を書き、彼女の死体は火葬され、その灰は撒布されることと定めた。テレザとトマーシュは重さの印の下で死んだ。彼女は軽さの印の下で死にたいのである。彼女は空気より軽くなる。これはパルメニデースによれば、否定的なものから肯定的なものへの変化である。

ミラン・クンデラ 『存在の耐えられない軽さ』(千野栄一訳), 集英社文庫, 1998年11月, p.344

サビナのエピソードは第VI部でもって終わる。なお、引用文にある「重さの印」とは、墓石を示していると思われる。
作中にはサビナに関わる人物としてフランツが登場し、「大行進」という見出しとも関わって第VI部でその人生について多くが語られているが、軽さ・重さに言及する文章を引用する限りでは、現れなかったような気がする。第VI部ではキッチュ(俗悪なもの)というキーワードが出てくるが、その関連で抜粋すると、いくつか出てくるかもしれない。

『第VII部 カレーニンの微笑』より

 犬への愛は無欲のものである。テレザはカレーニンに、何も要求しない。愛すらも求めない。私を愛している? 誰か私より好きだった? 私が彼を愛しているより、彼は私のことを好きかしら? というような二人の人間を苦しめる問いを発することはなかった。愛を測り、調べ、明らかにし、救うために発する問いはすべて、愛を急に終わらせるかもしれない。もしかしたら、われわれは愛されたい、すなわち、なんらの要求なしに相手に接し、ただその人がいてほしいと望むかわりに、その相手から何かを(愛を)望むゆえに、愛することができないのであろう。

ミラン・クンデラ 『存在の耐えられない軽さ』(千野栄一訳), 集英社文庫, 1998年11月, p.373

 もしカレーニンが犬でなく、人間であったなら、きっとずっと以前に、「悪いけど毎日ロールパンを口にくわえて運ぶのはもう面白くもなんともないわ。何か新しいことを私のために考え出せないの?」と、いったことであろう。このことばの中に人間への判決がなにもかも含まれている。人間の時間は輪となってめぐることはなく、直線に沿って前へと走るのである。これが人間が幸福になれない理由である。幸福は繰り返しへの憧れなのだからである。

ミラン・クンデラ 『存在の耐えられない軽さ』(千野栄一訳), 集英社文庫, 1998年11月, p.374

「正直にいうと、出会いに不安があるのさ。それが会いたくない主な理由だよ。なんで僕がこんなに頑固であったのか知らないけど。人間は理由を知らずに何かを決意すると、その決意は永続性を得るのさ。一年一年それを変えるのが難しくなるんだ」
「招待しなさい」と、テレザはいった。

ミラン・クンデラ 『存在の耐えられない軽さ』(千野栄一訳), 集英社文庫, 1998年11月, p.388

「テレザ、使命なんてばかげているよ。僕には何の使命もない。誰も使命なんてものは持ってないよ。お前が使命を持っていなくて、自由だと知って、とても気分が軽くなったよ」

ミラン・クンデラ 『存在の耐えられない軽さ』(千野栄一訳), 集英社文庫, 1998年11月, p.394

 彼の正直な声を疑う理由はなかった。今日の午後の光景がふたたび思い浮かんだ。トマーシュがトラックを直すのを見た。そしてテレザには彼が年をとったように見えた。行きたいと思っていたところに来た。だって、年をとってほしいと思っていたのだから。ふたたび自分の子供部屋で顔に押しつけた野兎のことを思い出した。
 野兎になるってことは何を意味しているのであろうか? それはあらゆる力を失うことを意味する。それは誰もが誰に対しても力を持たないことを意味する。

ミラン・クンデラ 『存在の耐えられない軽さ』(千野栄一訳), 集英社文庫, 1998年11月, p.394

最後の章で引用した文章にはどれも主題としての軽さ・重さという用語が直接には含まれていないが、全編を読み通した上で個人的に重要だと思った文章を拾ってある。
第VII部では動物が関わるエピソードが多く、テレザとトマーシュが親しくなった農場長が犬のように育てたメフィストという子豚も登場する。これも初読のときから強く印象に残っていて、以後は動物園にしてもテレビの中にしても、子豚を目にするたびにメフィストと呼ぶようになってしまった。

以上。

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