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きりぎし(短編小説)1/4

(昭和世代 或る夏の夜の夢)

 ごく簡単に、すすめよう。

 去年の夏といえば、梅雨に雨が降らなかったり、と思ったらまた、大雨にもなったりの、へんてこな夏であったが、これは、その時分の話である。(と、男は数十年前、筆者に語り出した。)

 私は六月に学校を放り出されていたくせに、学生だといつわって、一カ月ほどアルバイトをした。奇矯な精神の時期でもあって、仕事のことなどまるきり頭にはなく、といって全然さぼりもしなかったから、職場のバイト仲間や若い社員などにめずらしがられ、しょっちゅうからかわれた。とにかく沈んでいる男だった。それでいて、エヘラエヘラ笑うときも、しばしばあったのである。だからよけい、皆がやいのやいの、はやし立てたのかも知れぬ。

「暗い。くそ真面目すぎる。そんなに生活を享楽しないのは、じつに不健康だ。何か信仰でもしているのか? 読書もいいけど、人と話もしなけりゃあ、いけない。無口じゃ、だめだ。魅力的な無口というのもあるが、お前のはたぶん、拒絶したがる高慢ちきゆえの物言わずなのだ」

 ふだんのおちゃらけの合間、彼らの一人は、わりと真剣に吐いた。

 アルバイトを終えたら、行く先がわからず、途方に暮れた。もいちど美術系大学に入りなおそうかという考えもすこしあった。芸術でめしを食っていけるなどと、宗教のように信じてもいたのだが、それよりもまず今日明日のたつきさえ定まってはなかった。

 中学のころからの、たった一人の友人に、その夏、久しぶりに会った。高卒で就職してすぐに家族もろとも郊外へ引っ越した奴で、ふつうに恋人ができ、ふつうにくるまを買い、ふつうに給料が少し足りない、などと話しながら、なつかしい下町の景色を巡った。彼は帰りぎわに、こう言った。

「自殺、するなよ」

そしてふつうの夕暮れに溶けていった。

雨が止んだ直後、原付バイクで奈良の山をめざして出発した。大水害のあった地域の山川を、わざと夜中に越える。未熟なやけくその異端に扮して時をつぶした。

 午後二時に出発し、ようやく奈良盆地の奥の湿った山地に入りかけたころは、もはや日没間近であった。疲労も重なり、すでに帰りたくさえなっていた。伊勢平野まで続く国道何号線かを見つけるのに手まどり、人にたずね、行ったり来たり、やっと桜井という所にて軌道を修正したとき、あたりは青黒かった。

  気がつくと私は、山奥の果てしない、陰うつ極まるけもの道をのろくさと登っていた。大雨がきざんだ幅広い深い溝が、大蛇の群れのように、道を縦横に這いまわっている。暗闇はまず私に、前輪付近の地面を凝視することを強いる。悪戦苦闘だった。駄馬は、甲高くいななきいななき徐々に山坂を登っていく。下半身がぬるい泥水でべっとりしている。たぶんげらげら笑いながら運転している。たいそう愉快な気分なのだ。やぶれかぶれ、なんでもかんでも投げ散らしぶちこわしたくなってそれを実行しているさいちゅうの、あれであった。

 突如前方に、案内標識の板らしい何かが、ちらと白く映った。近づくと細いロープが板の両端から張ってあるのも見えた。車を止め、エンジンを切ったが、このとき初めて、森林の途方もない静寂を体ごと感じた。降りて懐中電灯を出し、板のほうを照らしつつ近づいていった。ゆがんだ稚拙な文字を判読した。

  『 もど、れあ、ぶな、い 』 

   戻れ、危ない。

 むこうには巨大な穴があった。道が車一台ぶんほどごっそりと崖下へ陥没していた。山肌に沿って地面が細く頼りなく残っていた。

 私はぞっとしながら、通れないことはない、ここさえ越えて行ければと考えた。危ないのはここだけらしい。いや、ここさえ危険なのかどうか? 

 子供の字まがいの、もどれあぶない、の板札と、穴のあちら側にも張ってあるロープと案内板に目をやった。底なしに見える闇の先には、あんがい抜け道があるかもしれない。

 崩れかけの路肩を渡りきるさい、車体の一部がロープに掛かり、板もろとも散らばったが、なんなく越えた。道は狭く悪くなり、気は高ぶった。ところが興ざめの情けない出来事が、突発した。

 ひとつ深い溝を越えたら、後輪の辺でガラガラ鳴るので、石でもからんだかと思ったせつな、エンジンがぷすんと切れた。とたん、車体がつんのめって速度が落ちた。体勢を保ちながらずっこけるのを防いだ。何事が起こったのか探るために降りてみたが、目が見えない。

 闇である。荷をまさぐり、懐中電灯を抜き出し、後輪を照らす。チェーンがはずれている。軸のところが変なゆがみ方をしている。故障したらしい。重傷か軽傷か正確に判断する冷静さは、すでに四方の暗黒に吸い取られている。こんなときはやたら胸さわぎがして、足がすくむものであろう。生死にさえ関わる事態だと思い込む。これはとうとうたいへんなことになった、と大仰に慌てるのだ。

――さていったい俺はどうすればよいか、先へ行くべきか戻るべきか。この茂みに寝る? 無茶言うな。それはやめておこう。ともかく、外れたチェーンをかけてみるべきだ。やるとすぐできた。車輪も何とかまわるようになった。が、どれくらい走ってくれるだろうか。依然ぐにゃりと軸の辺がゆがんでいるみたいだ。

 見上げたら、夜空いっぱいの星である。そうとう高いところまで登ってきたらしい。なぜなら周囲の山のまっくろな稜線が、一様に眼下にうずくまっているので。背後からは巨大な顔が、夜空よりもいっそう暗く沈鬱な表情で私を見下ろしていた。登るべきであったところ―今立っている山の頂だった。

 やっと決心した。もう、やめよう。道はまだまだ、くねくねとあの恐ろしげな黒闇の空まで伸びているのだ。しかしこれが国道なのか。わけがわからない。自分はどうしてぽつねんとこんな鄙びた山路に立っているのだろう。――すなわち愕然としたわけだ。

 さて、降りよう。

[2へ続く]

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