2024年2月3日、国立映画アーカイブでジョー・ダンテ監督の『ムービー・オージー』(The Movie Orgy)がめでたく日本初上映となった。 日本ではまず観ることができないと思われていた作品の初めての(もしかすると最後かもしれない)上映だったこと、無料上映ということもあっただろうが、チケット予約開始からわずか10分ほどで300席ほどの会場が埋まった状況は、集まった観客でさえまさか満席になるとは思わなかったのではないだろうか。 後に『グレムリン』(1984年)や『インナースペース』(1987年)でヒット作を生み出すダンテの初監督作品とはいえ、50年以上前のアマチュア作品がこれほど注目されるとは、本当に驚きだった。
1946年、ニュージャージー州で生まれたジョー・ダンテは、8歳の頃に読んだ雑誌「MAD」(第11号)を読み、カートゥニストを志す。 当時、映画館では土曜日のマチネーを25セントでやっていて、しかも最初に来た子供をタダで入れていた。ダンテは当然一番乗りで、25セントはジュースとポップコーン代にしていた。 その後、11歳の頃に引越しした地域には映画館が無く、新聞から切り抜いた映画の広告を使って、自分なりの二本立てチラシを作ったり、ロール紙に手描きした「Fort Death(死の砦)」や「He Spook Meets The Spider(クモと出会った幽霊)」といった“映画”を手作りの「シューボックスシアター」で、弟に披露していた。
また、ダンテは1950年代後半から続々と刊行されたホラー、SF雑誌に投稿も始める。その中でも特に有名な雑誌「FAMOUS MONSTERS OF FILMLAND」に投稿した手紙が記事として掲載されたり、別の雑誌「CASTLE of FRANKENSTEIN」には創刊3号(1964年刊)からダンテの名前がスタッフとして登場(Joe Dante, Jr.名義)、第4号からは寄稿編集者としてクレジットされるようになった。 そして『ムービー・オージー』のもう一人の人物、ジョン・デイヴィソンも第10号から同じく寄稿編集者として参加している。
ダンテとデイヴィソンの出会いは、デイヴィソンがまだ高校生だった時だ。1949年生まれ、ダンテの3つ年下のデイヴィソンは、「CASTLE of FRANKENSTEIN」でダンテのことを知り、同じニュージャージーに住むダンテをSFコンベンションに招待したことから交流が始まった。 同じSF・ホラー映画趣味を持つ親友として、ダンテはデイヴィソンの実家にも行くようになるが、そこでダンテが驚いたのは、デイヴィソンが16mmフィルムのコレクターだったことだった。 ディヴィソンに影響されたダンテもフィルムに興味を持ち、コレクションを始めるようになる。 本人たち曰く、「購入したフィルムもあれば、<ゴミ箱漁りに近い>方法で」収集した物もあったという。 また、いろんなレンタル交換所に知り合いができ、彼らが捨ててしまう古いフィルムを入手して、コレクションに加えるようになった。 「使用できなくなった映画の断片をたくさん持っていた」ということも語っているが、そのコレクションの一部が、後の『ムービー・オージー』の素材となったことは間違い無いだろう。