石油を顔に塗る勇気

 「世界に一つだけの花」があんなにもヒットしたのはメロディの良さや歌手の知名度だけではなく、シンプルに歌詞がよかったのだろう。ぼくらは世界に一つだけの花(比喩)でありもともと特別な存在なのだから他者と比べてはならないのだ。今更「嫌われる勇気」を読了したばかりの私としてはそうだそうだと頷くばかりだが、この世界に一つだけ理論に真っ向から歯向かう勢力があった。
 ドラッグストアのコスメ売り場である。
 ドラコスの自我の強さたるや半端ではなく、デパコスのようにお高くとまってはいないがそのぶん向こうからぐいぐい来る。そして「私がいちばんです! この私こそが!」と主張すること甚だしい。彼女達にオンリーワンの概念はないのだ。コスメを「彼女」と呼んでよいものかは不明だが、しかし擬人化したら女性だろうなという気はする。
 彼女達は自らがナンバーワンだと言って憚らない。思い出してほしい、コスメコーナーにならんだ彼女達の姿を。大多数が「なんちゃらランキングナンバーワン!」「コスメ比較サイト●●にて第1位!」と書かれた服を纏っている。これは私だけでなく、世界の全女性の7割くらいはそう思っているに違いないと思うのだが、ナンバーワンがあまりに多すぎやしないか。
 しかし彼女達も無根拠に私がナンバーワンだとは言っていないようで、というか無根拠に言うと何らかの法律にひっかかるらしく、手を変え品を変え自分の正当性を主張してくる。「ナンバーワン!」の文字の下に、読ませる気がないとしか思えない小さな小さな文字で根拠を書いているのだ。それは大別して3つに分かれる。

①過去の栄光パターン

「2017年3月~2017年6月、コスメサイト1位!」
 などがこれにあたる。三日天下パターンと言い換えてもよい。そこそこ昔の、そこそこ短い頂点を未だ掲げるコスメは多い。確かにいちどでも頂点に輝いたのは誇れることだろうが、「今はパッとしないんだな……」と読む者に思わせてしまう諸刃の剣である。しかし買う者はこんな小さい説明文など読んでいないから構わないのかもしれない。

②細分化パターン

 「コスメ」だの「化粧水」だの母数が無数にある中で頂点に立つのは至難の業だ。ビジネスにおいて肝要なのは「強くなること」ではなく「自分が強くあれる戦場を選ぶこと」である。
 その結果「今秋発売の高保湿の敏感肌用の乳液、の中で口コミナンバーワン!」などという売り文句が生まれる。ニッチな方へニッチな方へと向かい、競合がいないところに行き着いてから「覇者」の御旗を立てるのだ。
 これはコスメに限らず食料品でも見られるパターンで、「柚子の粉末が入った麦芽米クッキーランキング1位!」など、果たして2位は存在するのか疑わしい1位が誕生したりする。
 レッドオーシャンを避けブルーオーシャンに飛び込むのはビジネスの基本中の基本であるから、見習いたいスタンスではある。

③比喩表現駆使パターン

 仕事ができる人は比喩表現を嫌う。比喩は人によって解釈の幅がありすぎ、丁寧に確認を取らないと齟齬が致命的なものになる危険性があるからだ。
 言い換えれば比喩は「なんとなくそれっぽい感じ、遊びを残した感じ」を醸し出すのに有用なツールであり、「なんかよくわからんが凄そう」と顧客に思わせるため乱用されがちだ。
「肌支持率 1位!」
 これは私が実際に買った乳液の売り文句である。肌支持率。肌の、支持率。肌支持率とは? 肌を主権者とした総選挙が行われたのか?
 当然説明文が書いてあったのだが、読んでもピンとこなかった。ピンとこないままに買い、使い続けているが品質に不満はない。私の肌が支持しているのだからこれでいいのだろう。

 他に、ひとつのコスメではなく同ブランド全ての評価を合計した結果を提示する「数の暴力(アンチ・テルモピュライ)」パターン、謙虚さを見せあえて●●ランキング2位! などと訴える「謙譲の美徳」パターンなど様々な手法がある。
 なんにせよ、そのコスメの質が良いのであれば売り文句がなんであろうと構わない。良いのであれば。良いのであれば、ですよ。どんどん語気が荒くなってしまうのは私に忌まわしい記憶があるからだ。

 2年程前のあの日、私はメイク落としを探していた。メイクを落としたかったからだ。ブランドにこだわりはなく、ジェル状のものがいいなと思っているくらいだった。
 そんな生半可な気持ちで入ったドラッグストアのいちばん目立つ場所に、そのメイク落としは大量に積まれていた。でかでかと「なんとかかんとかナンバーワン!!」と書かれていたし、パッケージはお洒落だったし、大容量で値段も手頃だった。買った。
 帰宅し水で顔を洗い、満を持してそのメイク落としを顔につけた瞬間私は思った「石油だこれ」。
 無論私はそれまでの人生で石油を顔に塗ったことはない。しかし人間は不思議なことに「いちども体験したことのない事項を確信を持って語る」能力を持っており、たとえば悪臭のするものを「カメムシの匂いだ」と断じたり不味いものに「鳥のフンの味がする」と言い放ったりする。嗅いだことも食べたこともないのに。
 匂いといいべたつきといいそのメイク落としは石油に違いなかった。ジェル状の石油。だがこのメイク落とし最大の実力は石油っぽさにはなく、なんとこのメイク落とし、落ちないのであった。メイクが。落ちづらいとかそういったレベルに落とし込める段階ではなく、メイク落としとして売り出されたことが奇跡だと思えるほどに落ちないのだった。受験生に縁起物として売り出したいほどだった。
 量が足りないのかと思い溢れるほど出してみたり、長時間洗ったり、もっともやってはいけないと言われている「顔をごしごしこする」にまで手を出してなお、メイクは落ちなかった。多少落ちたのはどう見てもお湯の功績であった。
 ウォータープルーフでもないのにこれはおかしい。ナンバーワンじゃなかったのか。さも大人気商品とばかりに陳列していたあの店の意図とは? 私は「商品名 口コミ」で検索し、大手コスメ口コミサイトでボコボコに叩かれているのを見た。「このメイク落とし全然落ちない!」。だよね-!? わかるー!
「今から使ってみます♡ 星5つ♡」といったサクラなのかただのゴキゲンな人なのか不明な一部コメントを除き口コミは大炎上しており、私は「下調べもせず初見の商品を買うべきではない」という教訓を胸にそのメイク落とし(大容量)を捨てた。落ちづらい上に「使っているうちに目がピリピリしてくる」という健康被害を予感させるステキな商品であったため、もったいないからもう少し使うかとすら思えなかったのだ。

 以来私の洗面所には、ビオレだのちふれだの、誰もが聞いたことのあるブランドばかりが並ぶ。大手の安心感はやはり代えがたく、「ポッと出の、見た目はいいが性能はカス」なものは出すまいという安心感があるのだ。
 しかしそんな老舗の商品をカゴに入れるたび、私は怯える。自分が「老害に近付いていっているのではないか」という思いがあるからだ。
 人が老いるのは、新しいものを受け付けなくなった時だという。知らないものを否定し慣れたものに囲まれる生活。「最近のコスメはちゃらちゃらしてて受け付けない」と代わり映えのないメイクをする私を、たくさんの「ナンバーワン」が冷ややかに笑っている……。
 先日、同期に「老害になりたくない。後輩にうざい先輩風を吹かす人間になりたくない」と訴えたところ「私たちは既にそうなっており、老害化からは逃れられない」と残酷な宣告をされ泣き濡れた。その記憶が新しく、「安心感」を言い訳に新しいコスメに手を伸ばさないことが躊躇われるのだった。
 あれこれともっともらしい言い訳をして変化を避けるのは、変化を避けたいがためにそれらしい言葉をあとから作っているだけだ。私たちは勇気を持って変わっていかなくてはならない。「嫌われる勇気」にもそんなことが書いてあったような気がする。その第一歩が「知らんコスメに手を伸ばす」なのかもしれない。
 たとえ石油を顔に塗ることになろうとも。

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