見出し画像

映画 『関心領域』

ジョナサン・グレイザー監督の新作映画「The Zone of Interest」(邦題:『関心領域』)がドイツの映画館で今週から公開され、私もベルリン市内の映画館で観てきました。去年のカンヌ国際映画祭グランプリの他、数々の映画賞を受賞し、今年のアカデミー賞では作品賞を含む5部門でノミネートされている話題作だけあって、大きな映画館は満席、ドイツでも関心の高さが伺えました。

 この映画のあらすじと時代的背景を簡単に説明しましょう。

 まず、タイトルにもなっているThe Zone of Interestとは、ドイツ語のDas Interessengebietの英訳であり、これはドイツ占領下のポーランド・アウシュヴィッツ収容所のすぐ隣に建設されたSS(ナチス親衛隊員)のための住居を含めた複合施設のある約40平方キロメートルに及ぶ区域のことです。ここはSSとその家族以外、許可なしでは立ち入ることが出来ない隔離された特別地区であり、この映画で描かれる収容所所長、ルドルフ・ヘスの家族もここで暮らしていました(ちなみに副総統だったナチスの大物ルドルフ・ヘスRudolf Heßとは別人で、こちらのヘスの綴りはHößです)。

 ヘスは妻と5人の子供たちとともに、収容所からほど近い、広い庭付きの2階建ての家に住んでいます。ダリア、バラ、ひまわりなど四十種類もの花々が植えられた美しい庭は、妻にとってまさに地上の楽園です。夏には絵のように美しい田園風景の広がる湖で泳ぎ、友人たちを招いて誕生日を陽気に祝い、子供たちは犬と広い庭を駆け回り、妻はSSの妻たちとお茶会を楽しみ、ジョークに声を上げて笑います。庭師、料理人、掃除夫、家政婦など使用人たちはすべてユダヤ人で、妻は母親を家に招待し、現在の恵まれた暮らしを自慢して喜ばせます。

 妻は手に入れた毛皮のコートを羽織り、鏡の前でポーズをとり、ポケットからひとつの口紅を見つけると、鏡の前に座って唇に塗りたくります。そのコートはいったいどこから手に入れたのか。それは誰が着ていたもので、その女性は今どこにいるのか。私たちは次第に「のどかな日常」とは異なる現実に戦慄し始めます。

 美しい庭の向こうにはアウシュヴィッツ絶滅収容所の壁が聳え立ち、その上部には有刺鉄線が張り巡らされ、窓からは監視塔も見えます。そこでは何が行われているのか、私たちは映画の最後まで見ることはありません。ただそれを、毛皮のコート、ヘスの息子がコレクションしている人間の歯、絶対に主人と目を合わせない使用人たち、煙突から立ちのぼる黒い煙から想像するしかないのです。

 ある日、幼い子供たちと川で釣りをしていたヘスは、偶然見つけた人間の顎の骨にパニックになり、子供たちを慌てて川から引き上げて自宅に戻り、ブラシで身体中をゴシゴシ洗います。また別の日は、ヘスの自宅に焼却炉メーカーTopf & Söhne 社の責任者がやってきて、いかに合理的に継続的に「貨物」を灰に出来るかを説明します。

 妻や子供たちとは対照的に、滞在している妻の母親だけは、ここでの生活に違和感を覚え始めます。眠れぬ夜に苦しみ、アルコールをあおり、外から漂う悪臭に慌てて窓を閉め、やがて娘に置き手紙だけを残してドイツに戻ります。ヘスの妻は手紙に目を通すと、それを無表情で炉にくべ、母親の朝食をとっとと片付けろとユダヤ人の家政婦に怒ります。映画ではその手紙に何が書かれていたのかは全く説明がありません。ここでも私たちは、不機嫌な妻の様子から、ただ想像するだけです。母親は「壁の向こうのこと」を知ってしまったのではないだろうか。事実を指摘された妻は完璧な暮らしを母に卑下されたように感じたのではないだろうか。妻は家政婦の若いユダヤ人女性に「夫に頼めば、あんたの灰をオシフィエンチム(アウシュヴィッツのポーランド語名)に撒き散らすことだって出来るんだからね」と怒りをぶつけます。

 さて、この撮影に使用されたヘスの家はオリジナルのものではありません。現在、そこにはポーランド人の夫婦が住んでいるため、当時のヘスの家と同じ造りの家を収容所近くに建て、草木を植え、同じようなプールや温室も作りました。家中にカメラを設置し、人工照明は使わず、俳優たちに自由に動き回らせたそうですから、まるでドキュメンタリー映画を見ているかのように、子供たちものびのびと動き回っています。そのあまりに日常的な風景に、私たちは壁の向こうで死んでいった130万人の人々に思いを馳せることに躊躇します。音楽はありません。終始聞こえてくるのは、壁の向こうからの銃声、悲鳴、看守の咆哮、犬の吠え声、移送列車の音、列車が到着した際に被収容者がパニックを起こさないよう演奏する音楽隊の楽曲、そして常に低く轟く焼却炉の音だけです。しかし、壁の向こうから聞こえる音にも、私たちはやがて慣れていくのです。

 私はGoogleマップでヘス家が実際に住んでいた家を調べたのですが、映画の通り、収容所の壁のすぐ前にある大きな庭を持つ邸宅で、「よくもまあここに住めたものだな」と驚きました。そこで実際に聞こえた「音」について、スタッフは調べ尽くして忠実に再現したそうですが、当然、銃声も悲鳴も聞こえたでしょうし、焼却炉から立ちのぼる煙にも悪臭にも気付いていたはずです。それでも妻は夫の次の赴任先となるはずであったオラニエンブルグにはついていこうとはせず、アウシュヴィッツという「楽園」にとどまることに固執します。

 ヘスは絶滅プロセスをより合理的なものにしようと躍起になっている、真面目で模範的なナチス党員であり、良い父親でした。妻もまた子供を愛し、家を居心地の良い場所にしようと心を配る平凡な母親だったのです。彼らが時折口にするユダヤ人に対する差別的なセリフも、この時代では日常的に言われていたものであったようです。この映画は「凡庸な悪」を描くというよりも、不快なことを無視しようとする人間の本能的な行動を映し出しているように思いました。壁の向こうのことを無視し、そこに安住していたヘス夫人と私は違うのだ、と果たして私は言い切れるだろうか?

 映画の中では密かに被収容者に食料を供給したポーランド人少女の白黒の熱画像が効果的に組み込まれています。ナチスの残虐行為とは対照的な少女の優しさに、私たちの心は温まるどころか、むしろより苦しむことになります。絶望の中で苦しんでいる人を救おうとする崇高な行為が白黒反転動画で描かれ、無関心と高慢は陽の光に照らされた色鮮やかな世界にあるのです。その対比が悲しく、見る者を苦しめます。

 ヘス夫妻を演じた傑出した俳優たち、完璧なサウンドスケープ、ホロコースト映画にありがちなセンチメンタリズムをことごとく排除した優れた脚本、斬新なカメラワークによって、ジョナサン・グレイザー監督は最高傑作を生み出しました。『シンドラーのリスト』、『戦場のピアニスト』、『ライフ・イズ・ビューティフル』といったドラマティックで感動的なホロコースト映画を期待している方は、きっとがっかりすると思います。この映画は勧善懲悪とは正反対で全くキャッチーではありませんし、歴史的な知識も必要とする、どちらかと言えばマニアックな作品です。恒久的な非人間性、無関心、事実に対する恐怖心に対し、私たちは何を感じるでしょうか。ベルリンの映画館では、エンドロールが終わっても立ち上がる人はいませんでした。


映画『関心領域』より

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?