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白夜の海 Episode 6 最終話 【#シロクマ文芸部】

小説・エッセイを書いています、樹立夏です。
生きづらさを抱えた青年と少女の恋物語を書いています。
小牧幸助さまの下記企画に参加しております。

 今回は、最終話となります。
 引き裂かれた不器用な二人は、それでも歩き続けました。
 この物語の結末を、どうぞ見守ってくださいませ。

 これまでのお話はこちらから↓

 

 花吹雪の中、深呼吸をした。風に舞う桜の花が、今年も光の季節の始まりを告げる。いつもより少し早く家を出て、私は会社に向かった。奏汰と出会った日から、十年が過ぎていた。

 十年前、警察は父に、私への性的暴力についての事実確認を行った。父は、事実を認めなかった。あの日、私の背をさすろうとした女性警察官が、私の訴えが嘘ではないと、熱心に上層部に掛け合ってくれた。その人のおかげで、父は警察から厳重注意を受けた。一時、私が児童相談所に預けられるかというところまで、事態はもつれたが、その後、私は聖ミハイル女学院を退学し、母方の遠戚の元に預けられ、公立高校に通うこととなった。 

 高校二年の春、私は、医師になることを拒否すると両親に告げ、事実上、勘当された。それでよかった。私にとって両親は、枷に過ぎなかった。

 母方の遠戚の家に下宿しながら、私はなんとか大学まで出ることができた。金銭的な理由で、大学院に進むことはできなかった。美術史の研究を諦めた私は、出版社に就職した。大人になってもまだ、奏汰の思い出を攫おうとしていた。

 あの時奏汰にもらった、「朧月夜」の原稿は、今でも大切に箱にしまっていて、悲しい時、辛い時に読み返す。原稿を指でなぞりながら、奏汰が、諦めずに創作を続けていてくれているようにと、祈っていた。

 横断歩道に飛びこんだあの日、パンドラの箱が開いた。ありとあらゆる悪しきものが箱を飛び出し、外の世界に放たれた。しかし、最後に残ったのは、希望だった。消えそうなくらい微かな、その希望に縋るように、この十年間、私はひっそりと生きてきた。

「瀬名。会議室準備できた?」

 また、思い出に溺れていた。上司の崎本の言葉が、私を現在へと引きもどす。入社以来二年、編集者の見習いとして、崎本の下で働いている。崎本は今年三十五歳になるそうで、その白く滑らかな肌と、もともと栗色の柔らかそうな髪の毛が、端正な顔立ちを引き立てている。崎本は、女性社員からの人気も高く、私が崎本にについていることに嫉妬する人間もいるという。

「瀬名、どうした? 魂抜けてるぞ」
「すみません。三階の、A会議室を取ってあります」

 崎本は頷いて、私の前を歩いていく。冷たい廊下を、ひたひたと二人で歩く。今日は、原稿の持ち込みを希望する作家との面談だという。廊下を歩きながら、先ほど崎本から手渡された資料を斜め読みする。

 目が、その人の名前を拾った。途端、凄まじい引力で、記憶が過去へと巻き戻されていく。

「どうした? 扉明けるぞ」

 扉が開き、光が目に飛び込んできた。その向こう、やわらかな陽光の中に、その人がいた。春の空気がその人の匂いを運んでくる。洗いざらしの、太陽の匂いだ。少し神経質そうに、持参したノートパソコンを操作する指は、あの時私の頬を拭った指に他ならなかった。

 その人は、立ち上がり、崎本を、そして次に、私に目線を移した。視線が出会い、時が止まった。私たちは、とても驚いている。お互いの心臓の音が、聞こえてしまいそうだ。

「陽春出版の、崎本です」

 崎本が、その人に名刺を差し出した。

「頂戴いたします。黒森奏汰と申します」

 奏汰が、崎本と名刺交換をしている間に、私は、奏汰の身に降った年月を想った。あれから、奏汰はどうやって、ここまでの道のりを歩んできたのだろうか。

——会いたかった。

 奏汰が、あの時と変わらない天使のような笑顔で、私に名刺を差し出した。奏汰は、私に気づいているだろうか。

「黒森奏汰です」
「ありがとうございます。瀬名眞子と申します」

 奏汰の目に、春の光が宿っていた。瞳が、潤んだように見えた。私も今、きっと、泣きそうな顔をしているのだろう。よかった。奏汰が、今まで生きていてよかった。私も、生きることを諦めないでよかった。

 崎本が、奏汰に椅子に座るよう、目で促す。崎本に次いで、私も着席した。

「本日は、お持ちいただいた作品があるそうで」
「こちらです」

 奏汰が崎本に差し出した原稿は、予想通りの作品だった。

「『朧月夜』、ですね。拝見いたします」

 崎本があらすじに目を走らせている隙に、奏汰を見つめた。
 奏汰も、私のことを見ていた。

 私の知らない奏汰を、辿りたい。何があったの。ここまで、何を見て、何を聞いてきたの。
 
 見に行こう。一緒に、白夜の海を。人生の嵐を乗り越えてきた私たちなら、きっと心配ない。

 私の気持ちを見透かしたように、奏汰は、笑って頷いた。
 私は生きている。生きてきたから、こうして奏汰にまた会えた。
 
 パンドラの箱に、最後に残った希望が、私たちのこれからの物語を紡いでいく。

<終>


6話に渡って連載した「白夜の海」は、これにて完結となります。眞子も奏汰も、よく頑張りました。二人は、私の大切な友人です。どんなに闇が深くても、その一番底にあるのは希望だということ、自分が生きることの主導権を、他の誰にも渡してはならないこと、たとえ理不尽に踏みつけられても、どんなに時間がかかってもいいから前を向くこと。物語を書きながら、この二人が教えてくれた、大切なことです。

終わってしまって、さみしいなあ。

次はまた、新しいお話を始めましょうか。
お読みいただき、ありがとうございました。

#シロクマ文芸部


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