DIVA 1/3 【豆島圭さまのための小説】
いつもの悪夢にうなされ、ぐっしょりと汗をかいて、夜が明ける前に目が覚めた。荒く呼吸をする。少し落ち着くと、ゆらめくカーテンをそっと開け、明け方の月を眺めた。暑い夏が、終わりかけていた。
日中と夜間の仕事を掛け持ちして、私はこの都会で、何とか一人分の食い扶持を稼いでいる。古書店でのアルバイトを、店主の厚意で夕方までに切り上げ、次の現場に向かった。この街で一番大きな、老舗のジャズバーへ。
通用口の重い金属扉を押し開け、楽屋へとスチールの階段を下りる。黒いヒールを履いた足の裏に当たる床の感触が、ひんやりと冷たい。LEDライトが、あたりを寒々と照らす。楽屋に続く廊下に目を遣ると、スタッフが慌ただしく行き交っていることに気付く。何かあったのかと、爆音のイヤフォンを片耳だけ外した。スタッフのため息と怒号が、混在して耳に飛び込んでくる。
「やばいな……今日の今日っしょ?」
「でもなんで急に」
「あーもう、どーすんの! これ!」
白シャツに黒いパンツ姿の、頭を抱えた男性スタッフの耳元に、口を寄せた。
「何か、あったんですか?」
「ああ、奏ちゃん。大変なんだよ。エルがさ」
エル。
ジャズ界隈に名を轟かせる、現代ジャズの至高の歌い手だ。若干25歳にして、日本のジャズシーンの頂点を極めた彼女は、神と崇められている。私は今日、光栄にも、彼女の前座として、一曲、ジャズを歌うことになっていた。
そのエルが、消えた。「ごめんなさい」と一言、マネージャーにメッセージを残して。
予想もしていなかった事態に、自分の顔面から血の気が引いていくのを感じた。指が、小刻みに震える。
「え……? どうす……?」
「こっちが聞きてーよ!」
男性スタッフが、乱雑に置かれたパイプ椅子を蹴り上げた。がらんどうの心に、ガンッという音が虚しく反響する。
「奏」
後ろから呼ぶ声がして、振り返ると、ジャズバーのオーナーが、私を手招きしていた。
「奏。急で悪いんだけど、お前、今日、エルの代役に決まったから」
「は……?」
「だーかーらー! 歌うの。補欠のお前が! エルの代わりに!」
真っ白だ。
え?
私のこと?
エルの代わりに?
「ぼーっとすんなって! ほら!」
オーナーの左手が、私の腕を掴む。薬指に、金の指輪。驚きの目で私を凝視するスタッフを掻き分け、冷たい廊下を進んだ。連れていかれた部屋には、ひときわ多くの花が飾られていた。薔薇、芍薬、胡蝶蘭が所狭しと活けられている。エルの楽屋だ。
「うーんと。まず見た目、だけど」
楽屋の、磨き上げられた壁一面の鏡に、私とオーナーが映る。オーナーは50歳くらいだろう。半分ほど白いものが混じる髪は、上品にまとめられている。黒い三つ揃えのスーツは、服のことなんかよくわからない私の目にも、高級そうに見える。
その隣に、私だ。髪は、腰まであるストレートの銀色。目元を黒いアイラインで可能な限り強調し、口元には、真っ赤なリップを引いてある。ファストファッション店で買った、体のラインを強調する黒いミニドレスに、足元は黒いヒールで武装している。
「奏。今いくつだっけ?」
「23です」
「年はまあ合格か。けど、どしたのお前。完全にギャルじゃん」
ジャズバーで歌う時は、メイクを一度落とすことにしている。あまり主張しない顔に塗り替えた上で、黒か濃い茶色のウイッグをかぶり、黒いロングドレスを纏う。
「すぐ、直します。メイクも、髪も」
オーナーは、思案するように腕を組むと、無言で何かを考え始めた。
「お前さ、確か……」
< 2/3へつづく>
この小説は、私設企画【あなたのための短編小説、書きます】第3期、豆島圭さまのための小説です。
豆島さまから、お題「補欠」を頂きました。2文字だけれど、とても深いお題です。考えた末、3話からなる短編を作ることとなりました。
本作は、1話目となります。
冒頭の、「お前は悪ぐねぇ」は、豆島さまのピリカグランプリ猫田雲丹賞受賞作、「断たれた指の記憶」からの引用です。
未読の方は、ぜひこちらをご一読ください。
1200文字で、ここまで濃密な表現を可能にされています。
さて、話をこの短編集、DIVAに移します。
万年補欠の歌手、奏。
ある夜、彼女に、突如チャンスが巡ってきます。
どうする、奏!?
豆島さま、もしよろしければ、あと2話、お付き合いくださいませ。
過去に書いた、【あなたのための小説】はこちらです↓
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