四神京詞華集/NAMIDA(13)
【穢麻呂と狛亥丸とワタシ】
幾つも吊られた下げ燈篭が広い拝殿内を仄かに照らしている。
だが神棚以外の神器神具の類はほとんど見られず、恐らくは本殿とをつなぐ幣殿へと続いているであろう閉ざされた扉に、注連縄が張られている程度である。
良く言えば簡素、悪く言えば殺風景。
どう考えても寝泊りできればそれでいいだけの単なる仮住まいとして古い神社を利用しているようにしか思えないし、そんな慧子の疑念は半ば当たってはいる。
そりゃあ天井の菩薩もだんびら握って睨みつけるというものだ。
まあそんなことはどうでもよかった。
ひえの混ざった茶色い米に青菜の汁をぶっかけただけのそれは、地下といえども貴族のはしくれでもある慧子にとって飯というよりは紛れもなく餌であったが、どうやらその汁を疲弊した心と体が甘露と勘違いしているらしく、慧子は牛馬のように貪り食っている。
川流れの際についた打撲が痛むも勢いのついた頤を止めることができない。
慧子「いたい。うまい。いたい。うまい。いた、うま」
かろうじて女の姿を保っているとはいえ夜叉だか餓鬼だか分からない下品な禍人に強烈な白眼視を向けると、穢麻呂は一隻の屏風を衝立にしてその奥へと隠れた。
狛亥丸「こんなもので宜しければまだまだありますよ」
穢麻呂「そんなものでもタダではない」
慧子「おかわり!」
狛亥丸「はいはい。ただいま」
狛亥丸、椀を手にまた外へと出てゆく。
慧子、大きくゲップする。
穢麻呂「弁えよ! 豚かお前は!」
慧子「何ですかもう。コ~ワ~イ~」
穢麻呂「全くもって親の顔が見たいものだ。どこの地下家ぞ」
慧子「これはこれは、ご挨拶が遅れました。文章博士菅原石嗣が娘、慧子と申します」
穢麻呂「文章博士だと?」
穢麻呂、屏風の奥から訝し気に顔を覗かせる。
慧子、一応作り笑いで頭を下げる。
穢麻呂、フンと鼻を鳴らし再び奥へと戻る。
穢麻呂「文章博士ともあろう御仁が娘の教育ひとつ満足に出来ぬとは」
慧子「そこは半ば同意いたしますわ」
穢麻呂「全面的と言わぬが小賢しい」
慧子「親を反面教師にしておりまするゆえ。それにかような街のお方には知る由もないでしょうが、私、都随一の才女として名が通っておりますのよ。末は大和開闢以来の女学生となるであろうとのもっぱらの噂で」
狛亥丸、椀を持って戻ってくる。
慧子、椀を引っ手繰りまた貪る。
慧子「いたい。うまい。いたい。うまい。いた、うま」
慧子、ようやく落ち着くと箸をおいて手を合わせる。
慧子「まんまんちゃん、あん」
狛亥丸「こんなものしかお出しできず」
慧子「いえいえ。それでですね、全く身に覚えがないんです。私、人様に恨まれるような真似など一刻たりとて行ってはおりません。これは特殊な事例なのでしょうか。まずはそのあたりからお調べ頂きたく」
穢麻呂「待てい! なし崩しに話を進めようとするでない!」
穢麻呂、たまらず屏風の奥から出てくる。
慧子「遅々として話が進まぬ現状に、天からのまなざしもいい加減辟易しておられるかなと思って」
穢麻呂「何だ天からのまなざしとは」
慧子「祓魔師、蝦夷穢麻呂様にございましょう?」
穢麻呂「誰もがそう呼ぶのであれば恐らく左様であろうな」
慧子「なんとへそ曲がりな口ぶり。そういう個性、今時流行りません事よ」
穢麻呂「祓魔師など、白虎街の者どもが勝手にそう呼んでおるだけだ」
慧子「は?」
穢麻呂「我は日々、汝のごとく川に流れつくあまたのゴミを掃除しているに過ぎぬ」
慧子「では呪いを解いてはもらえぬのですか?」
穢麻呂「呪い? そも何をもって呪いとみなすかが問題ではあるな」
慧子「だから解けるのか解けないのかって聞いてるの! 私、急いでるんですけど!」
穢麻呂「何だその口ぶりは!」
慧子「あ、誰がゴミよ誰が!」
穢麻呂「今気づいたのか!」
狛亥丸「まあまあお二人とも。我が君、些か意地悪が過ぎますよ」
穢麻呂「ふん」
穢麻呂、慧子の頬を掴んで顔を引き寄せる。
慧子「きゃあああああああ!」
慧子、穢麻呂を蹴り飛ばす。
穢麻呂「狛さん! 放り出せ! 身包み剥いでもといた川に捨てて参れ!」慧子「正体を現したわねケダモノ! 色魔!」
狛亥丸「慧子様。我が君は呪いの紋様をお調べになっておいでなのです」
慧子「呪いの紋様?」
狛亥丸「人を鬼たらしめる、ほら貴女様の頬に刻まれたる紋様です」
慧子「……この紋様が呪いの証?」
狛亥丸「そしてそれを描いた者こそが呪詛を施した犯人」
慧子「そ、そうなの? ってかこれ人が描いたものなの? だったら貴方達には用などないわ」
言うが早いか袖で頬をゴシゴシしだす慧子。
穢麻呂「直に描かれておるわけではない。呪物に刻まれた恨みの文字が転写されておるだけだ」
慧子「だ、だと思いましたわ」
穢麻呂「ならば顔が痒かったか」
慧子「い、いかにも! 良くお分かりで」
穢麻呂「汝はまことに都いちの才女なのか?」
狛亥丸「気が動転しているだけでございましょう」
慧子「き、気が動転しているだけでございます!」
穢麻呂「……面を見せよ」
慧子「……ハイ」
穢麻呂、慧子に睨まれながら頬の紋様を観察する。
穢麻呂「妬と刻まれておる」
慧子「と?」
穢麻呂「ねたむ。そねむという意味だ」
慧子「なんで?」
穢麻呂「こっちが聞きたい」
慧子「さっきも言ったけど。だいたい私、人に妬まれるような御大層な身分じゃないんですけど」
穢麻呂「上ばかり見ている者は大抵そう言う。先ほども我をケダモノと罵ったではないか。あれは無意識に出た言葉であろう」
慧子「……」
穢麻呂「これまでの話を聞くに、若いみそらで随分あまたの者とむつみあっているようだな」
慧子「し、失礼な! 年相応です!」
穢麻呂「そのむつみあうではない。どちらがケダモノだ。輩の多さは俗人の比ではなかろうと言っておるのだ。都随一の才女どの」
慧子「何もかもお家のため。朴念仁の父の代わりに交友を広め、菅原の名を大臣様にも届くよう頑張ってるだけです」
穢麻呂「それが危ういのだ。汝が広く浅く付き合おうとも、全ての者が汝を広く浅く扱うはずはあるまい」
慧子「そこはそれ要所要所で狙いを定めて」
穢麻呂「その狙いは全て上手く当たっているのか」
慧子「……」
穢麻呂「好意につけ悪意につけ、汝の射た矢は思わぬ者の心を射抜いておるやも知れぬぞ」
慧子「そんなの分からない……」
穢麻呂「……」
慧子「だったらもう誰が呪いをかけたかなんて分かりません」
穢麻呂「左様か。まあ頑張れ」
狛亥丸「我が君。意地悪もそのくらいで」
穢麻呂、苦笑すると、半泣きの慧子に告げる。
穢麻呂「その呪いはどうやら唐より渡ってきた、文字を用いて行うものらしい。特殊な薬草だの木の根だの獣の血だのを混ぜ込んだ墨で、恨みつらみの文字を呪物にしたためる」
慧子「呪物とは?」
穢麻呂「……狛さん。持ってまいれ」
狛亥丸「かしこまりました」
狛亥丸、注連縄をまたいで幣殿へと向かう。
何のための結界だとは思うが、恐らくは単なるスタイリングであろう。
神々しさの演出、的な。
時をおかず、狛亥丸が二枚の紙を手に戻って来る。
穢麻呂は一枚ずつ両手で持って同時に慧子に向けて見せた。
つまりはもともと一枚の絵であったものが真ん中から破れている。
まあここからは義務教育レベルの補足なのでわざわざ説明するのも恥ずかしいのだが、この時代(今に繋がらぬ過去)においても、書き損じたから破ったりモモグって捨てるなど言語同断なほど、紙は貴重なアイテムである。
穢麻呂「その紙が文字を用いた呪詛において非常に重要な意味を持つ」
慧子「書きやすいからですか?」
穢麻呂の鉄面皮が数ミリ、驚きを持って剥がれる。
穢麻呂「……ほう」
間髪入れずにふんぞり返る慧子。
慧子「ま、才女ですから」
穢麻呂「我は梟の真似をしただけである。ほう。ほう」
慧子「チッ……」
穢麻呂「フン……」
全くもって、負けず嫌いと負けず嫌いのシーンは話が遅遅として進まない。故に、こちらの配役が用意されている。
狛亥丸「木簡を繋げて広げても文字に歪みが生じます。呪詛の書き損じは、そのまま呪った者に跳ね返って来るやも知れません」
穢麻呂「さらに言えば」
破れた二つの紙、その呪物を重ねる穢麻呂。
今度は慧子があまりの不気味さに小さく悲鳴をあげる。
紙に描かれていたのは男の顔、しかも実物と見紛うばかりの絵。
現代で言えばまさに写真。
この時代の者が見たこともないほど細密な人物画である。
その上、更に驚きを増す不穏さがその絵に映し出されている。
男の顔の絵には夥しい数の文字が虫のように集っていた。
別段集形恐怖症でもない慧子だが、さすがにこの絵には怖気だった。
まさに『呪物』である。
穢麻呂「どうだ? 痒いだろう」
慧子「はい。マジ痒いです」
穢麻呂「ところでこれは絵ではない」
慧子「……え?」
あえてツッコまず穢麻呂は話を進める。
穢麻呂「人の顔の上に被せて相貌を転写したものだ」
慧子「そんなこと出来る紙などこの世に……」
穢麻呂「正確に言えば紙ではない。呪物だ。どうやって製造されたものかは知らぬ。呪いの墨と同じく唐の呪術より生まれたものだろう」
慧子「ではそれと同じものが、私の顔が転写された呪物がどこかにあって、それを持っている者が私に呪いをかけたと」
穢麻呂「まずは似顔を入手できればそれでよい。呪詛そのものは後からゆるゆると、ねちねちと、じっとりと汝のその顔に己が怨念を刻み込むように」
『妬(ねたむ)』
穢麻呂「眠りこけている汝の顔に紙をあてがえる者。つまり汝に近しい者。
或いは汝の館に忍び込める者。あるいは何者かを館に忍び込ませられる者。それが下手人だ」
慧子「……」
穢麻呂「さあ。汝を恨み、妬んでおる者をはっきりと思い浮かべよ」
○慧子の心中
広澄、奇津麿、藤橘の姫君達、幾人かの麗しい公達の姿が現れては消える。そして残ったのは、奇津麿。
自意識だけは人一倍の、卑屈で醜い男の掬い上げるような視線。
慧子は震えた。
恐怖などという、格下が抱く感情ではない。
そこから先は、ただただ嫌悪と怒りからくる身震いだった。
(つづく)
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