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四神京詞華集/NAMIDA(終)

【ナミダ】

○同・山頂(夕)
そこは少しも絶景ではなかった。
生い茂る木々に遮られ、四神京も朱雀平野もまるで見えない。
寺というよりは祠がひとつ、ぽつんと立っている。
開け放たれた祠の中には、地蔵ではなく如来が座している。
見えもしない都に向かって祈り続けるその木仏の名を思い出すのに、慧子は少しの時を要した。

慧子「あみだ様」

○菅原石嗣の館・書斎(10年前)
鼻息を荒くして、卑奴呼は慧子に詰め寄った。

卑奴呼「あみだ様っす! あみだ様が好きっす! 好きな仏様はあみだ様に決めました!」
慧子「あみだ? そんな仏さまいたっけ?」
卑奴呼「います。ご主人様に聞いたんです」
慧子「お父様に? もう! 勉強すんの嫌だからっつって」
卑奴呼「聞くことも勉強っす」
慧子「で、どんな仏様なの? あみだって?」
卑奴呼「えーと。とくにつらい修業とかしなくても全然助けてくれるとってもやさしい神様です」
慧子「はあ?」
卑奴呼「ご飯を食べた後『まんまんちゃんあん』って唱えるだけで、極楽に連れてってくれるんだよ」
慧子「何その気の抜けた念仏。バカみたい」
卑奴呼「バカじゃないもん! いるもん! 偉い人には人気ないけど偉くない人達にはジワジワ広まってるって言われたもん!」
慧子「卑奴呼はお父様にからかわかれただけよ!」
卑奴呼「いるもん! あみだ様いるもん!」
慧子「いないもん! そんな仏様いないもん!」
卑奴呼「まんまんちゃんあん! まんまんちゃんあん!」
慧子「へんなの! かっこわるい! へんなの!」
卑奴呼「まんまんちゃんあん! まんまんちゃんあん!」

○蝮山・山頂(夕)
阿弥陀の木像に手を合わせる慧子。

慧子「まんまんちゃんあん」

ふと、あたりを見渡す慧子。
あちらこちらに石が積まれている。
狛亥丸が巨体を丸め、そのひとつひとつに手を合わせている。
明後日の方を向いて竹筒の水をあおっている穢麻呂などは無視して、慧子は狛亥丸へと歩み寄った。

慧子「あなたが供養してくれたんですか。卑奴呼を」
狛亥丸「供養などと。骸は土に御霊は天に。それだけです」
慧子「ありがとうございます。ええと……」
狛亥丸「狛亥丸です。狛と覚えて下さい」
穢麻呂「おい。用が済んだらさっさと降りるぞ」
慧子「さっさとって。罰当たり」
穢麻呂「夜はやぶ蚊が増えるのだ。それとも仏が虫刺されから守ってくれるとでも言うのか?」
慧子「守ってくれますよ」
穢麻呂「なに?」
慧子「虫は香を嫌います。そんなことも知らないの?」
穢麻呂「う……」
狛亥丸「ははは。流石は都随一の才女。なかなか手ごわいですな」
穢麻呂「自称才女であろう。小賢しいだけだ」
狛亥丸「頼もしい下僕を得たではありませんか」
慧子「へ? 下僕? 誰のこと?」
穢麻呂「汝だ」
慧子「はあ?」
穢麻呂「喜べ」
慧子「喜ぶか! てか意味分かんないんだけど!」
穢麻呂「文章博士郎女菅原慧子などという名が白虎街で通じるとでも思っておるのか? それとも衛士に突き出されたいか? 褒美目当ての賊からいちいち守ってやるほど我は暇ではない」
狛亥丸「我が君は申されたはずです。呪われし禍人は最早かつての人生には戻れぬと」
穢麻呂「言うておくが汝の復讐に付き合うつもりもない。呪いをかけた下手人を殺して回りたければ一人でやれ」
狛亥丸「再び夜叉となりますか?」

「そんなの、姫には似合わないっす」

慧子「え?」

阿弥陀は慧子に優しく微笑みかけている。

慧子「……保留」
穢麻呂「なに?」
慧子「復讐、後回し」
狛亥丸「え?」

慧子は悟ったように、というより吹っ切れたように、というより考えるのを止めたように、というより全部面倒くさくなったように、つまりは完全に開き直ってしまった。

慧子「おっほん」

慧子は大仰に咳ばらいをひとつしてみせた。

慧子「白虎街に堕ち非人乞食とよしみを通じるもまた一興なり。釈尊は四つの門を出て悟りを開く。我もまた大和開闢以来の女学生としてしばし四神の方角を見聞しよう。さすれば人に戻れる新たな術もきっと見つかろうぞえ」
穢麻呂「……」
狛亥丸「我が君? 如何しました?」
穢麻呂「口調の重さと内容の薄さに呆れておるのだ」
狛亥丸「物凄く偉そうにいきあたりばったり宣言をしただけですな」
慧子「みたいな感じで。ねえ穢麻呂さん」
穢麻呂「待て」

穢麻呂、腰の太刀を鳴らして慧子を睨む。

穢麻呂「己を下僕と認めるなら、これより汝は小でもなければ娘でもない。我に対する一言半句が命に係ると心得よ」

真っ赤に充血した穢麻呂の目が慧子をじっと見据えている。

穢麻呂「お前はもう呪われた禍人なのだ」

慧子は初めてこの凡庸な顔の男の唯一の特徴が、火のように燃える瞳の中に暗く淀む恐ろしい何かだと知り、戦慄を覚えた。

慧子「はい。穢麻呂様」
狛亥丸「もしくは我が君で宜しいかと」
穢麻呂「君などとは過ぎたる呼び名だ」
慧子「結局どっちがいいんですか?」
穢麻呂「気分によっては両方ならぬ」
慧子「そんな」
穢麻呂「冗談だ」
慧子「(内心)こいつマジめんどくさいかも」
穢麻呂「何だ。言いたいこととは」
慧子「あ、はい。白虎街で私が菅原慧子ってことがばれるとやばい事になるなら別の名前が必要じゃないですか。だからこの際、名を改めたほうがいいんじゃないかな~って思って」
穢麻呂「地下郎女の身で改名とは何たる不敵」
慧子「貴族の男の人って何回も名前変えるじゃないですか。故事になぞらえたり深い意味を持たせたり。そういうのちょっと憧れてたんですよね」
穢麻呂「好きにせよ」
慧子「あざっす! えっと、やっぱ釈尊の二文字は候補から外せないよね。あと卑奴呼から一文字受け継ぐのってのも涙を誘う感じがして切なくていいよね。あと字画の多さ。難しい名前って舐められないもんね。赤蠍。聖刃。舞羅巣斗。仏恥義理。来夢来人。夜露死苦」

穢麻呂「……我がつけてやろうか?」
慧子「ええーっ?」
穢麻呂「まあ、無理強いはせぬがな」

穢麻呂、そう言いつつ太刀を鳴らす。

慧子「(超ふて腐れて)……ヨロシクオネガイシマース」
穢麻呂「(超上機嫌)うむ! であるか!」
狛亥丸「すみません。我が君はこういう所があるんです」
慧子「(内心)復讐帳に追加してやる」
穢麻呂「ナミダ」
慧子「え?」
穢麻呂「今宵より汝は我が下僕。禍人のナミダだ」
慧子「涙」

慧子、いやナミダはその意図するところに気づき、眦から頬にかけて伸びる呪いの痣に触れてみた。

ナミダ「アリかも」
穢麻呂「気に入ったか」
ナミダ「へ~。結構素敵なところあるんすね、我が君」
穢麻呂「左様であるか」

ナミダ、たった今主となった男を気軽に小突きながら。

ナミダ「も~う見かけによらずお洒落じゃないですか。確かに私って泣き虫ですけど、呪いの文様と涙をかけるなんて、カ~ッコいい。あれっすか? そういう小技使って口説いたりしてるんすか? お前は俺にとってのナミダだ。みたいな? 駄目っすよ。私そんな安い女じゃないんですからね~」

穢麻呂、目どころか顔も真っ赤にして激怒する。

穢麻呂「ええい煩わしい!南弥陀とは南無阿弥陀仏に届かぬという意味だ!お前は一生救われぬ禍人という意味だ!分かったかこの馬鹿女めが!」

穢麻呂はぷんぷん怒りながらさっさと山を下りて行った。

ナミダ「あそこまで怒ることないじゃん」
狛亥丸「喜んでおられるのですよ」
ナミダ「へ?」
狛亥丸「あのように楽し気な我が君を久しぶりに見ました」

狛亥丸もまた、山を下りてゆく。

ナミダ「楽し気って……あの人、お面でよく見えてないのかな?」

ナミダは最後にもう一度、阿弥陀に手を合わせた。

ナミダ「じゃあ、また来るね。卑奴呼」

阿弥陀は微笑んだままナミダを、そして二人の穢人を見送った。
同じ時、文章博士菅原石嗣は正式に任を解かれ大宰府に発った。
その娘、菅原慧子も行方知れずとなった。
きれぎれの雲から、ようやく日輪が寿いでいる。
それは久方ぶりの、あおによしの空だった。


【EP1】NAMIDA(終わり)


【これまでの登場人物】
慧子/ナミダ(20)文章博士菅原石嗣の娘
   ・ ・ ・
卑奴呼(18)菅原家の雑仕女
紀広澄(21)上級貴族
山戸奇津麿(25)貴族
乙子(22)慧子の友人
公子(20)慧子の友人
淡子(23)書博士近江真船の娘
物部咲屋(14)右大臣物部狩屋の子
   ・ ・ ・
橘不比等(28)参議
藤原亜毒(29)衛士
平外道(27)衛士
坂上武者麻呂(45)兵衛督
菅原石嗣(50)文章博士
   ・ ・ ・
狛亥丸/狛寅丸(??)穢麻呂の召使い
蝦夷穢麻呂(32)祓魔師

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