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四神京詞華集/NAMIDA(10)

【脇役目線から見た幻想世界】

3年後に新国民総背番号券が作られるそうだ。
まあ、半ばチューチューであろう。
近々では国民大運動会が、その前はハコモノ事業が。
そして遥か昔は羅城門を放置し荘厳な寺社を建立していた。
そんなものと一緒にするなと券に関わる人達は言うだろう。
今回は別だと。
恐らくは運動会に関わった人達もハコモノに関わった人達も同じことをのたまわっていたはずだ。
「全てはこの国のためなのだ」
と。
四神京もしかり。
大唐帝国ムーブメントに乗っかる施政者どもは、この物語が続く間、ついに「寺つくり」を辞めることはなかった。
国内に溢れる貧民たちを放ったらかし、税金で尊像螺巌を造立し続けた。
「全てはこの国のためなのだ」
と。
さてその巨大な毘盧遮那仏が鎮護国家と疫病退散と、そして浮浪者救済と遊び人どもへの職業斡旋を目的として、十年の歳月をへて造立され開眼供養会を経て四神京に顕現したのが十五年前。
今は都のみならず日本国の全ての民の為亡き先帝の化身として東龍寺大仏殿の蓮華座上で祈り続けている。
そう、祈り続けている、だけである。
いや、それだけで都人にとっては充分だった。
ほとけという言葉は仏陀の気配という意味だから大仏はバリクソでかい仏陀の気配であり、最早その存在感は気配どころではないだろうともいえる。
まさに日本国の最終決戦鎮守装置。
まして光明遍照を意にもつ盧遮那仏はその名の通り、あまねく照らす系大仏だから、その存在自体が希望の光なのだ。
とまあ、誰もが自分にそう言いきかせていた。
作っちまったものは仕方がない。
今さら解体して金に換えることもできない代物だし。
とりあえず戦乱も疫病も去ったのだから、これは大仏のおかげなのだと感謝してみせておいた方が変な目を向けられずに済む。
四神京とはそういう都で男はそういう立場の人間だった。
と、いうわけで今日も手を合わせてみた。
相変わらず何の感慨も沸いてこない。
つくづく坊主というものはよく分からない人種だ。
こんな金と銅の塊に魂を感じるのだから。
そもそも戦乱を終わらせたのは、我らが血で血を洗う戦さに勝利したからであり、疫病が終わったのは単に病人が死に絶えたからである。
少なくとも男にとってはそれがこの世の真理だった。
翌日男は兵部省の近く壬生門の前に部下を整列させ闘魂注入を行っていた。
手抜かりのあった衛士たちを公衆の面前で可愛がることは、彼らに都を警備する重責を身に染みて理解させるための、いわばこの男なりの教育だった。
そんな愛の鞭を部下たちは日々有難く受け入れ、ただ一心に反省している。などとは流石に男も思っていなかった。
昨今、貴族はたるんでいる。
あの乱を機に都は地方豪族の介入を許し、古の大貴族『蘇我』と『物部』を甦らせてしまった。
更には女帝の病気療養と、太政大臣禅師なる者の台頭が代々都を治めてきた公家たちの気概を完全に削いでしまったといえる。
結果内裏はここ数年老獪な豪族達の思惑で動き、新たな時代を担うはずの都の公達は口先ばかりで全てを先送りにし、日々詩歌音曲に現をぬかしては酒と恋に酔うしか能のない或いは脳のいらない腑抜けになり下がってしまったのだ。
まあごく一部の気合いの入った連中が改革派を気取って気炎を吐いてはいるが、とてもじゃないが海千山千の左大臣右大臣に叶うものとは思えない。
せいぜい青瓢箪どものアイドルが関の山だ。
おそらくは今朝ぶん殴った部下たちもそういう類を信奉する輩に違いないと思うと、つくづく男は都の未来を憂うのだった。
部下が取り逃がした鬼は川に落ちて白虎街に流れていったらしい。
汚らわしいものは水に流して見ないふりという遠巻き目線の風潮がすかした若い貴族連中に流行っているのも、これがまた腹立たしい。
斯様な育ち故に上司の憤怒をダイレクトにぶつけられた部下たちはすっかり怯えきっていた。
怯えながらも不平不満に目を血走らせていた。
衛士の正式な装備となった綿襖冑なる装いも衣に鎧の絵を描いただけという緊張感のなさがどこかふざけていてかなり鼻につく。
つくづく歪んでいる。
この国の貴族たちはいつか剣を捨ててしまうのではないか。
全ての艱難辛苦に背を向け、ただただ歌と恋に溺れる一生を送るようになるのではないか。
全ての禍を人外の化生に転嫁して目を背け続けるようになるのではないか。
男はその不気味な平安に怖気だった。
午後、男は鬼となった娘の親を取り調べた。
菅原石嗣は詰問するこちらの方が怯むほど淡々と聴取に応じた。
曰く、娘はもう二十を越えており自分の責任でいたずらによしみを広げ自分の責任で誰ぞの恨みを買って呪われた。
是も非もなし。
と。
ほどなく石嗣はその任を解かれ西国に飛ばされるだろう。
貴族が禍人になるなど前代未聞であり、それは昨今疫病に変わって都を侵食している『呪い』という得体の知れないものが遂に内裏にまで到達した証でもあった。
だからあの鬼は討ち果たさねばならなかったのだ。
呪ったわれた者の末路と呪った者の罪を知らしめる為に。
何もかも受け入れる忌まわしき白虎街に逃げ込む前に。
服従無抵抗の証として面をつけ、非人穢人に紛れ込んでしまう前に。
仏の都の慈悲などに救われ、全てが曖昧になってまう前に。
水に流してはならなかったのだ。
前線を離れデスクワークの身となった男は鬼の顔を見たことがなかった。
奴らは普段は面を被っているし、征伐した亡骸は人の姿に戻っている。
男は思う。
もしかしたら鬼など存在しないのではないかと。
むしろそちらのほうが四神京では非科学的な妄想だった。
故に大仏という単なる物体が国家救済の最終装置たりえたし、仏の教えこそが最先端のテクノロジーであった。
男には最近子が生まれた。
仏の心は分からずとも、親の気持ちは分からないでもない。
鬼がその面を通して見る世界は、きっともうこれまで奴らが見ていた世界とは違っているはずだ。
人にとってやつらが別のモノとなったように、きっとやつらにとってもこの世は別のモノになったはずだ。
もしも我が子がそんな目にあってしまったらと思うと、胸が張り裂けそうになる。
何としてももう一度人の世に戻してやろうとこの命すら賭けるに違いない。
なのに何故、菅原石嗣は平気でいられるのか。
当代随一のインテリと聞くが、それが学問の最先端、仏の教えの到達点たる無所有処定だの無念無想だのといった境地とでもいうのか。
男にとっては今の都が、いや、この世の全てが幻に包まれているようにしか感じられない。
病や戦さというはっきりとした受難ではなく呪いや仏道という理解しがたい艱難が現実に人の運命を変えているのだ。
気怠かった。
ただただ、気怠かった。
そしてこの気怠さは、もう少しだけ彼と都を包むことになる。
男の名は坂上武者(むさ)麻呂。
兵衛督にして、後の征夷大将軍……の父である。
もっともこの物語にとって重要な人物かといえば、息子ともども、まあそれほどでもない。

(つづく)

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