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四神京詞華集/NAMIDA(23)

【夜明け】

○紀広澄の館・庭(朝)
呉女は紛うことなき夜叉となった。
髪が逆立ち、目が血走り、口が裂けた。
怯えたような唸り声は殺気を帯びた雄叫びに変わった。
しばし腕の中に抱いていた卑奴呼を横たわらせると、鬼面の夜叉はゆらりと立ち上がる。
紀家の男どもは依然怯んだまま、逃げようとも立ち向かおうともせず、ただ悪戯に衛士の到着を待っている愚かさを見せるのみ。
主は糞ほどの価値もない自意識から。
家人は主に抗えぬ臆病さから。
所詮か弱い穢人の小娘に一方的に矢を放つことだけが、彼らの威勢の限界だったのだ。

広澄「な、何をしている! 早く殺せ!」
家来2「しかし、斯様な化け物」
家来1「まさに魔性のごとき」
家来3「我らも呪われてしまいまする」
広澄「禍人も穢人も同じぞ! 仏道より外れしただのモノぞ! 見ただろう卑奴呼を! 鬼に魅入られた物狂いの様を!」

卑奴呼は全身に矢を受けてなお、微笑んだまま逝った。
鬼を庇って狂い死にしたのだ。
それが広澄の現実であり事実であり真実だった。
そして夜叉はそのすべてに吠えかかった。

広澄「ひいっ!」

頤が外れ、四肢が伸び、躯体が大きくなり、夜叉は鬼となった。
鬼は広澄に飛びかかり、馬乗りになり、首を絞める。
鬼女の叫びと下衆の嗚咽がおぞましく混ざり合い、家来たちはついに全てを捨てて逃げ出した。
と、入れ替わりに挂甲を纏い弓刀で武装した衛士が到着する。
完全武装の兵隊を率いるは、かの坂上武者麻呂である。

武者麻呂「こ、これは」

その時武者麻呂は初めて鬼を見た。
幻などではない、確かに人外の化生を見た。

広澄「た、助けてくれええ!」

広澄はあらん限りの声を振り絞って叫び、請い、現し世にしがみついた。
同時に失禁と脱糞もした。
夜叉は衛士など気にも止めず、いやこの世に存在すらしていないかのように、一心に眼前の怨敵を地上から消し去ろうとしている。
武者麻呂と直属の兵隊達は心中はどうあれ相貌を変えず冷静に矢をつがえて鬼を狙う。
と、その時。
夜叉の片手に何かが巻き付いた。
それは蛇だった。
紫色をした、人の腕ほどもある大きな蛇だった。
蛇は夜叉を広澄から引き離し、そして体に巻き付いた。
夜叉から解き放たれた広澄は、しかしさらなる地獄絵図のごときモノを目の当たりにすることになる。
弓矢を構えたままの衛士の後ろから、武官の装束を纏ったもう一匹の鬼が蛇を操っている。
己を殺めようとした鬼が夜叉なら、夜叉を捕らえたその鬼は修羅であった。
炎のように燃える目をした獄卒だった。
夜叉は蛇に締め上げられのたうちながら白目を剥いて動きを止めた。
都を守る衛士が鬼と結託している。
それもまた広澄の見た現実だった。
広澄はまどろみの中に逃げ込んだ。
修羅は蛇を首に巻き付け、夜叉を抱きかかえると、衛士の隊列を裂いて出て行こうとする。
ふいに衛士の一人が修羅の背に向かってその刃を鈍く光らせた。
も、傍らの衛士がそれを制する。
二人は他の衛士のような緊張は見られない。
むしろ薄笑いすら浮かべている。

衛士「何故止める亜毒(あぶす)……千載一遇の好機だぜ」
傍らの衛士「今はお勤めの最中である。上司と盟主を見誤るでないぞ、外道(げどう)」

外道と呼ばれた衛士は舌打ちをして剣を修めた。
一方の亜毒なる衛士は下を汚して気を失っている広澄を、虫けらを見るような目で一瞥し吐き捨てた。

亜毒「革命の友たりえる者の何と少なきことよ」

都の守護者たちを眼前を平然とまかり通る修羅に、武者麻呂が告げる。

武者麻呂「身も心も鬼と化したか」

修羅は答えない。この男は全て分かっている。

武者麻呂「見張っておるからな。その鬼女も、おぬしも」

修羅の後ろ姿を見送る武者麻呂。
首に巻かれた蛇が、ただの襟巻のごとく見えた。
抱きかかえられた夜叉が、ただの娘のごとく見えた。

武者麻呂「都人が見る幻か……俺もまだまだ覚悟が足らぬ」

眩しすぎる日輪の寿ぎを拒み修羅と夜叉は彼らの世界へと還っていった。
卑奴呼の亡骸も、いつの間にか消えていた。

(つづく)

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