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四神京詞華集/NAMIDA(15)

【夜を駆ける、呉女】

四神京は夜間外出禁止である。
とはいえ完全なる無が都を覆っているわけではない。
いや、むしろ無の方が安心安全というものだろう。
徘徊する野犬の群れ。
闇夜に紛れる盗人ども。
得体の知れない気配は穢人のものか。
遠く響く甲高い叫びは悲鳴か恍惚か。
そして何より彼女を不安にさせたのは、衛士の灯であった。
文章博士の娘だった頃不審者から守ってくれていたその明かりは今、不審者そのものとなった彼女にとって忌まわしい呪いを照らす秩序の光だ。
無論その秩序は、衛士よりも上の位のための平穏であって下の位の者を守るための正義では断じてない。
だから彼女は顔を隠して呉女となり、夜を駆けた。
さて。
山戸奇津麿なる遊び人貴族は無能な凡俗ゆえに幸運だった。
あと十日ほど兵部省の通達が遅れていたら彼は不気味な伎楽面を被った謎の狂女にメッタ刺しにされていたかも知れない。
もちろんその女がすんでの所で凶行を思いとどまるという事は充分考えられるし、まあ恐らくはことなきを得ていたであろうが、その場合も誤解を解くまでおっかない禍人や穢人どもとしばらく関わらねばならなかったはずだ。
そういう意味で彼はここで一生分の運を使い果たしたといってもいいくらいツイていた。仮に第二の人生が片田舎の、ほとんど兵役に近い職務だったとしても、見事この物語から無事に退場できたのだから。

○四神京・左京のとある辻(夜)
呉女「左遷されたですって?」

閉ざされた簡素な棟門の前で寝転がっている乞食に向かって大きな頭の呉女はアルカイックスマイルを保ちながら食ってかかった。
傍目に見てもシュールかつ不穏な光景であり夜陰に蠢く魔物の噂というやつは案外このような状況から生まれるのかも知れない。

乞食「ああ。長門の国に引っ越したみたいだなあ」
呉女「なんで?」
乞食「知るかい」
呉女「十日前ってあの宴の直後じゃない。じゃあ私が山登りして呪われた夜はもうとっくに都を離れていたってこと?」
乞食「知るかい」
呉女「そうか……キッツイ麿じゃなかったんだ」

呉女は少しホッとしたようにため息をつく。

乞食「あんた呪われてんのか? 若いのに大変だな」
呉女「いえいえそちらほどでは」
乞食「なあに七道者として生きるのも楽しいぜ。仏の解脱も輪廻の外ってんなら、俺達の運命と変わりゃあしねえじゃねえか」

乞食は首から下げたボロボロの数珠を弄んでいる。
しばしの沈黙の後、呉女はハリボテの大頭をぶんぶん振ると懐に隠した太刀を掴み改めて決意を固める。

呉女「私は戻ってみせる。輪廻の内側に」

と、灯を手に今一人、伎楽面が近づいてくる。
それは崑崙なる悪鬼の面。
呉女、顔を背けそそくさと立ち去ろうとする。
自分の容貌を棚上げした同族嫌悪を、しかしもう一匹の禍人はスルーしなかった。

崑崙「もし」
呉女「……」
崑崙「もしもし」
呉女「……アタクシ?」
崑崙「慧子様ではございませぬか?」
呉女「え?」
崑崙「やはり! やっとお会いできました。随分とお探し致しました」

男装の崑崙、されど面を上げると現れるは女性の顔。
書博士の郎女、近江淡子である

(つづく)

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