小説『近くて遠い、その間』(作:伊藤瞭朔)

 ハァハァ、と息を切らしながら中学校の昇降口にたどり着く。扉を開け、ロッカーの靴を取り出していると、グラスが曇った。小さい頃はこの白いもやが嫌いだったな、と颯斗はやとは思う。

 白みがかるグラスの内側にはしかし、線の整ったフォントで現在時刻がはっきりと映っていた。始業三分前である。慣れた手つきで靴を履き替え、教室に走る。

 次世代型通信端末《NWニューウェイグラス》が大々的に日本で普及したのは二〇五七年、今から十年程前のことだった。眼鏡とチョーカーのみで画期的なAR体験ができることを売りにした《NWグラス》は発売当初こそ中華製ということが起因し、安全面に疑問を抱かれ日本では普及しなかったものの、やがて欧米製が脚光を浴びるとたちまちスマートフォンに替わって人々の日常必需品になっていった。

《NWグラス》の特筆すべき点はやはり、AR技術である。付属のチョーカーから体の細部にわたっていく電気信号を読み取り、自身の動きを再現・転送することで、まるで相手がその場にいるかのように通信できるようになった。他にも、街中を歩けば、店に入らずともその場で中の商品やその店の情報が手に入ったり、歩いているだけで方向案内が眼前に表示されたりする。これらの諸機能に伴って、中でも人気なのは《オフィス》機能や《エンターテイメント》機能である。かつてデスクワークと言われたことが歩きながら、場所を選ばず行えるようになり、移動しながら動画や映画などを楽しめるようになった。

 ある行動経済学者が有力経済誌に残した「人と物との距離が無くなった」という一言は、この時代を象徴するトレンドワードだった。

 ホームルームが終わり颯斗は昨日の夜に見つけたARアプリを試そうと、指を空で振ると、声をかけられた。

「ねえ植田、プリント持ってきた?」

「あ……、ごめん……」

「はぁーー」

 やれやれといった調子で溜息を吐くのは、颯斗の前の座席に座る女の子、浅賀優だ。

 昨日の社会科授業でグループワークがあり、その時の課題シートを提出しなければならなかったのだが、浅賀優と植田颯斗の一班は颯斗が感想欄を埋めきれず後で提出となっていた。

「リマインドは?」

「……ごめん、してなかった」

「だから言ったじゃん! 忘れるって」

 浅賀はグラス越しから鋭い眼光を飛ばす。

「すんません……」

 颯斗は俯きながら膝に手を置いて答える。だが、

「……いや、ちゃんとやってよ? 午前中に出さないなら、私植田抜きで出しに行くからね?」

 そこまで怒っていないだろうと高を括っていたが顔を上げてみると、浅賀は割と怒っていた。

「……はい。絶対出します」颯斗はただ平謝りするしかなかった。

 

 一限の授業が始まると教科書とノートを広げるだけ広げ、颯斗は机の下に片手を忍ばせて《NWグラス》で文字を打っていた。チョーカーをしているので、手先を動かすだけで空中に文字が並んでいく。

 高度通信機能を持つ《NWグラス》は従来のスマートフォンに内蔵されていた機能を殆ど包括し、完全な上位互換として携帯機市場を席巻、日本で《NWグラス》最大のシェアを誇るグーグル社の統計によれば、日本国内の人口のうち七九・八%もの人々が《NWグラス》を所持していることが分かった。

 ただ、AR技術はなくとも従来のタブレット端末等で事足りるとして、一部の都立学校を除き、義務教育の場ではさほど普及していない。颯斗は、これまで幾度となく各世代がこなしてきた隠れスマホと同様に教師の目を盗みながら、感想欄に書く事柄を下書きしていった。

 あらかじめ書いておけば後で写すだけで済む。というか学校も早くグラスに対応してくれよ、それなら打つだけで終わりなのになあ。こんな学内ネットを組むよりさ。

 ぼやきながら颯斗は目を右上に向ける。視界の右上には《ローカルネットワーク》への接続を示すオレンジ色のアンテナが立っていた。颯斗が通う市立中学には通信機器用のローカルネットが敷かれている。機能は昔から変わらず、検索エンジン等へのアクセスは可能なものの、有害サイトや主要娯楽アプリへの通信制限がなされている。

 ゆえに学校ではこのネット内であったら通信機器を使うことが許されており、授業中であっても特に注意はされない。しかし、大してメモをすることもない時に手を動かしていたら不審がられるに決まっている。颯斗は真っ赤な達磨が教鞭をとっているかのように、教師が背を向けてはタイプし、目を逸らしては空中の仮想手記ヴァーチャル・ノートに文章を連ねていった。

 

 無事、課題シートを書き上げ、心残りなく下校できると思ったその矢先、颯斗は自分達の班――つまり、教室の左端縦一列の五人――が掃除当番であったことに気づいた。帰る気満々で持ち上げたリュックサックを下ろし、人がいなくなった机から順に後ろへ下げていく。

 昔から変わらないスチール製の机と椅子を無造作に押していると、声がかかる。誰の声かはすぐに分かった。

「ごみ、踏んでるよ」

 浅賀だ。箒の先で机の脚をつついていた。

「今日、よく間に合ったね」と、浮いた足裏のごみを掃きながら言う。

「なんとか空書きでやったよ」

「ふーん。じゃあ片手打ちできるんだ?」

「まあね。ていうか言ってくれなかったらヤバかったわ」

「ほんとだよ」

 浅賀は張り付いた埃を足で踏み取り、箒で端へやった。

 そういえば、初めて彼女と話した時も、掃除の時間だったと颯斗は思い出す。

 

 二年生になり、上の教室に移って初めての掃除だった。もちろん、掃除用具入れの立て付けが悪いなんて知る由もない。取っ手を掴んでいた颯斗以外は。

「どうしたの?」と浅賀が声をかけた時、用具入れの扉は勢いよく開いて彼女の顔を平手打ちした。

「ご、ごめん、大丈夫……?」

 中からこぼれ落ちる木箒の虚しい音が颯斗の声を覆う。浅賀は数秒こらえてから顔を上げた。

「今年の担任がうちの顧問じゃなかったら許してたかも」

「え……、あ、あの先生厳しい?」

「まあ、忘れ物とか期限切れは許してくれないね」転げ落ちた箒を取りながら彼女は言う。

「まじか……」

「というわけで許されない……植田だっけ?」

 扉の陰から顔を出して聞く彼女の、その頬が揺れる髪から顔を覗かせる。

「うん」

「……は、ちりとりもやってください」

「分かりました……」

 箒も持って、いそいそと教室の端へ寄る颯斗は、しかし少し笑っていた。

 彼女との会話は端的に言って楽しかった。床や角を見ながら、会話を反芻するうちに気づけば浅賀を目で追っていた。

 結局、新学年が始まって一、二か月は大して仲良くなることも無かったが、たまに上手く弾む会話がとても楽しかった。ずっと付けていた小型イヤフォンを付け忘れてしまうくらいに。

 しかし、中間テストが終わって席が離れると、あっけなかった。今まで話したことなんてなかったかのように、話す機会も訪れず一学期が終わっていった。

 次、彼女と話すのは二学期、文化祭の時だった。

 あ……、っと気づく。

《NWグラス》をVPNに繋ぎ、ローカルネットを掻い潜ってSNSを眺め、適当にクラスの役職決めを聞いていた颯斗は、ふと顔を上げると浅賀の名前が自分と同じ役職に連なっていることに気づいた。

 一瞬春先のことが蘇る。しかし、夏休みを挟んで迎えた今、浅賀に対する思いは消えかけていた。

 浅賀はクラスのマドンナという立ち位置ではなく、仲の良い女の子二人とよく緒にいるな、という印象の女の子だった。だが、何か共同作業などがあればすぐに周りと打ち解け、リーダーなども拒んだりしない子だった。それゆえ、隠れファンもたまにいた。

 自分と話す時より楽しそうに笑う浅賀を見たこともあった。

 だから、颯斗は大した期待もしていなかった。いや、意識になかったという方が正しいのかもしれない。あの時は偶々そんな流れがあっただけで、自分にまたそういう交流はないと颯斗は確信していた。

 しかし、だからこそ大きく響いてしまったのかもしれない。

 舞台劇で使う小道具を作っていた時だった。

 ――ねえ、ガムテープ知らない?

 声を聞いた瞬間、周りの音が消え去った。イヤフォンはノイズキャンセリングを設定しているとはいえ、会話に支障がないよう弱めに設定してある。あたりまえだが、イヤフォンの問題ではない。だけど、颯斗はすぐにイヤフォンの接続を切り、振り向いた。

「ごめんっ、えっとなんて……」

「ガムテープ、知らない? 使いたいんだけどさ」

「あー……」

 浅賀は颯斗がそれを持っているわけではなさそうだと分かると、辺りを見回す颯斗につられて周りに首を回す。

 少しだけ揺れるその短い髪が、数か月前の記憶と重なった。

 ガムテープの場所は心当たりがある。だが、どうしてもすぐには言いたくなかった。さっきまでなんとも思っていなかったはずなのに、話し始めると少しだけでも時間が欲しいと思ってしまった。

「えっと、何に必要……、何作ってるの?」

 意図を図りかねるといった顔で止まる彼女を見て、冷や汗をかく。

「……木、かな」

 ごくり、となんて返そうか悩んだ一間で彼女の気は逸れてしまう。

「あ、西岡さん。ガムテープ知らない?」

 しまったと思った。変な話をしたせいで、会話が続かなかった。

 なぜか物凄く周りの視線を感じ、体が火照る。見当がつかないようなふりをしながら、ガムテープの在り処まで早歩きする。

「あ、浅賀。あったよ、ガムテープ」

「お、」

 半身だけこちらに向け、彼女は屈託のない笑顔を浮かべた。

「ありがとう」

 それだけで温かいものが胸に溢れた。こちらは半ば騙してすらいるというのに。

 浅賀は受け取るとすぐに作業に戻った。クラスメート数人と、つまり男子ともお互い信頼しているかのような顔でテキパキと作業をしている。

 あの中には入れない、と颯斗は思う。だけど、あの笑顔が見られるなら、また話したいと思ってしまう。

 

「優、個別練習始まったからー」

「分かったー、ありがとう」

 パタン、と掃除用具を片付け、用具入れを閉じる。

 あの文化祭から数か月。再び同じ班になったはいいものの、良い会話はできていない。それどころか、失敗ばっかりだ。一学期や文化祭の時がまた嘘だったように思えてくる。

「帰ろうぜ」

 後ろから声がかかる。こちらはいつも一緒に下校する前山だ。部活をやっていたが、怪我で続けることができなくなり、颯斗と同じく帰宅部に仲間入りをした。

「塾の宿題やった?」

 下駄箱でくつを履き替えながら、颯斗は「やってない」と答える。

「またエアギター尽くめ?」

「エアギターって言うな、ちゃんと弾いてんだぞ」

「でも、まだ全然なんだろ? じゃあ、エアギターで合ってるじゃねえか」

「ぐう……」

 颯斗にはハマっているものがあった。それは《AiReal Guitar》、通称AR演奏ソフトである。半導体及びCPUの超小型化を実現した人類はメガネ一つであらゆることが可能になり、AR技術もその内の一つに過ぎなかった。楽器を持っていなくても、空中に浮かんだ弦を引けば、鍵盤を叩けば、音を奏でることができる。

 だが、難点もあった。それはまさに「仮想エアー」であることである。ギターであればネックが、ピアノであれば鍵盤が実在することによって、弾く指を支えたり、演奏の手がかりにしたりすることができる。「エアー」は映像こそあるものの、実物はない。その感覚に慣れることが重要となる。

「絶対実物の方がいいじゃん、あんな弾きにくいやつより」

「いやだって本物は買ったら五万はするもん。買えないよ」

高次没入端末VRゲームを買ってくれっていうわけじゃないぜ、ギターぐらいなら親に頼んで買ってもらえるんじゃないのか?」

「……それができてたら、今ここにいないよ」

 

 玄関先の階段を上りながら、視線をドアノブ――正確にはそれに重なるように浮かぶ「Lock」のホログラム――に向ける。見つめて一秒もたたないうちに、解錠音がして「Unlock」の文字に変わった。形だけ無駄に大きい自分の家に帰る。

 かったるい宿題を終わらせ、塾へ行くために鞄を整理していると先週もらったチラシが一枚出てくる。内容は塾内定期テストの知らせだった。

 脳内チップとかできたらどうなるんだろう、と手が止まる。

 今の《NWグラス》は外部付属品アタッチメントに過ぎない。勿論、鮮烈明瞭にホログラムを映し出す眼鏡、物の位置を把握し適当な外部音を出力するイヤフォン、そして体内電気を感知し仮想空間内での直感的動作を可能にするチョーカーによって、現実を拡張することはできる。空中に浮かぶタッチパネルを触ったり、景色を抽象化させ、あえて空間を視認しやすくしたりなどだ。しかし、それは人の外側で処理が行われる。グラスが人の動作を読み取り、それに応じて立体仮想映像ホログラムを人の前に提示しているだけだ。人の内側から世界を変えているわけではない。

 だから、《NWグラス》を取れば人はただの霊長類に戻る。つまるところ、試験やテストなどで不正を働くことは難しい。学校や塾などは、小テストの時までグラスの着脱を求めることはないが、進路等に関わる重大なものには必ずチェックが入る。つまらないところで不正をしていても、後で困るだけなのだ。

 しかしそれも、人智を超えた演算装置が体内に埋め込まれ始めたらどうなるのだろう。外見では装置の保持を判断することは難しい。試験を受ける度に金属探知機のゲートでもくぐるようになるのだろうか。

 ぼーっと、ここまで考えて颯斗は我に返る。今はまだそんな時代は来ていない。来てから考えても遅くはない、その時になればおそらくどこそこの専門家が解説してくれるだろう。颯斗はイヤフォンを耳にさして、玄関へ向かった。

 自転車を走らせながら聞くのは、No Air No Lifeの「The blue writes Answers」。

 NANLは韓国発の新進気鋭バンドグループだ。スタートからプロデビュー、そしてその先まで、全てAIの指導のみで技術発展していくことをコンセプトに掲げ、「無限に進化していくバンド」と自らを売り出している実験的音楽グループである。

 AIの指導に沿うことで、人間はどれだけ自身を成長させていけるか、というコンセプトは人工知能が人間からの抽象的質問事項に的確な回答を算出でき始めた辺りから、頻繁に実験されてきている。

 データ収集の興味深さから多数の企業が出資をし、既に行われている学術分野、スポーツ分野の他に、アートの分野でその技術的量産性への応用が期待されている。

 ただ、いくら演奏技術が高度とはいえ、それだけで「良い」と言えないのは紙幅を割くまでもない。音楽の魅力には必ず独創性が含まれている。この旋律でしか、この声、歌詞フレーズでしか得られないものがあるから、その音を聞くのである。

 勿論、このことはNANLにも当てはまった。颯斗は彼らが作り出す世界観にこそ感銘を受けた者達の一人だった。

 ある意味で敷かれたレールに沿って駆けていく彼ら。方向性など、全てがAIによって決定されるわけではないが、彼ら自身の決定がAIによって後押しされているのは言うまでもないだろう。

 颯斗も同じだった。親に言われたから中学受験をし、失敗し。次こそは挽回しなさいと言われたから勉強を続ける日々。知らぬ間に走り出した人生という名の車で、付いていたカーナビに従い走っていたら、着いたのは平日週四日で勉強する日々だった。

 颯斗自身、勉強がそれほど嫌だというわけではない。嫌だと思うほど世界を知らないだけなのかもしれない。しかし、どこへ向かうのだろうと漫然と思いながら毎日を費やしていく。自分の先を行っているであろう彼ら――NANL――はどこに向かっていくのか、どんな方向を選ぶのか、それが颯斗の心を掴んでいた。

 塾のテナントが入ったビルの駐輪場に着き、自転車を降りる。カギすらも手で触れずにロックする。三曲ほど回って次の曲へ入ったアルバムを止め、同時に交通安全用の警戒モードをオフにした。止まっていた雑音が息を吹き返したように騒がしく周りを包む。夕日が沈んだ冬の駅前だった。

 

 グラスを曇らせながら、マフラーをして学校に向かう。今日の颯斗はなぜか早く起きることができた。時間に余裕を持って登校することのできる幸せを感じながらも、寒いので早く着きたいとも思う。

 昇降口に着くと靴と共に、イヤフォンも外した。厳密に検査されるわけではないが《NWグラス》の使用が許されているとはいえ、音楽に没頭して先生の声を無視でもしたらばつが悪くなるのは当たり前だ。没頭厨ナードの烙印も出来れば押されたくない。

 ホームルームまでまだ十五分もある。人波がまばらな階段を上がっていると、学校ってこんな静かなものなのか、と感じる。いつもは息が上がってそれどころじゃないか、イヤフォンの音楽に囲まれている。

 自分の足音が耳に入るほど静かだ。そうやって一息つくと、別の音もまた聞こえてきてしまう。

 浅賀はもう来てるのかな、と思ってしまう。

 教室の扉を開けて、下に向けていた目を一瞬だけ前にやる。

 彼女はまだ登校していなかった。

 旧式の電気ストーブが通電を終えたように、胸の高鳴りも消えていった。

 

 日々はつつがなく続いた。

 颯斗は教室を掃きながら、壁に貼られたカレンダーを見る。秋学期のことが思い返されてきた。

 なんとか話せる機会はないか、しかし近づきすぎるのも怖いとあくせくしていたら、期末試験が迫り、終えて一息つくと十二月の中旬だった。

「あ、雪だ……」

 クラスメート一人の声に、皆が窓へ顔を向ける。颯斗は少し見やってから、すぐに元の作業に戻った。掃除が終わった教室で机を元の位置へ戻していると、しかし途中でまた手が止まる。

 浅賀がいたからだ。彼女は窓の外を見て、足を止めている。

「どうしたの?」

「あ、いや……」そう言って我に返る彼女はまた、その髪を少し揺らした。

 運びやすい為にと机に乗せられた椅子を床に下ろしていく。

「私、東京に行くんだけどさ」

 どきり、と心臓がなる。それを言われたら、こう思わざるを得ない。

「引っ越しするの?」

 キョトンとする彼女に、しかし颯斗は気が気ではない。浅賀は顔をほころばせながら、

「飛びすぎだって。ライブだよ、ライブ」

「えっ、ああ……」

 顔が熱かった。椅子を下ろす速度が上がる。

「それで、もし雪が降ってさ、行かれなくなりでもしたら、どうしようと思って」

「大丈夫だよ、ほら」言いながら急いで指を振り、立体映像ホログラムを外部出力にする。週間天気予報が机に映った。

「今日は曇りだけど、明日からはずっと晴れだ」

「ほんとだ、なら問題ないね」

 颯斗たちが住むのは西日本のはずれである。ライブなどのイベント事に直接参加する場合、距離的にも金銭的にも大阪に出向くのが普通だ。ましてや中学生である、わざわざ東京まで行って見に行くライブは誰のものなのか。

「ライブって……」

「優ぅー。ちょっと来てー」

「はいはいー」

「ごめん、また」

 浅賀は困ったクラスメートの元へ走っていった。幸せな時間は一瞬だ。しかし、その一瞬でまた次の、いつ手に届くか分からない幸せを望んでしまう。

 机の天気予報に目を戻す。日曜日まで晴れマークが並んでいて、おまけに最後は祝日と表示されている。

 そうか、日曜が振り替えで、今週末は三連休か。

 颯斗は立体映像をおとして、窓を見る。先程までの粉雪は勢いを増して、大雪になっていた。

 

 目を覚ます。三連休の日曜日、窓には白んだ灰色の空から降る雪が視界を覆っていた。

 雪。あれ、浅賀がやばいんじゃ。

 そこまで考えて気づく。今日は日曜日で、彼女はとっくに東京に着いているだろうことに。

 振った右手に反応して、《NWグラス》が立ち上がる。だが、その視界には……、

 雪の日。傘をシャーベットのような雪が鳴らす、みぞれの日。

 透明と波紋と灰色の世界で、煌々と光を漏らす画面には晴天であるはずの東日本から届いた陰鬱な知らせが映っていた。

 

 東京都内で五人が意識不明により搬送。いずれも原因不明。

 

 見慣れたニュースメディアに踊ったそれらの文字列は、普段なら無視していたはずだった。しかし、脳内で何かが結びつく。心臓がうるさくなって体に寒気が走った。

 

 連休明け。教室に入ると、浅賀は居なかった。

 それ自体は珍しいことではない。颯斗が早く学校に着くなんてこといくらでもありえる、彼女の部活動は朝練も行っていたはずで、それ故教室に着くのは遅めになるからだ。

 だが、今日の朝は無情に時間が過ぎていく。

 恐る恐る見上げた時計の針はホームルームの開始を示していた。

 彼女は学校に来なかった。

 

「ねぇ、日曜日に東京であった事故のこと知ってる?」

「瑞樹が言ってたんだけど、浅賀さんも巻き込まれたんだって」

「事故っていうか、体調不良じゃねぇの?」

「これ見ろよ、被害に遭ったのは計五人で……」

 耳をすませば、噂なんていくらでも飛んでくる。教室に入った時点で彼女が登校してこないなんてことは分かっていたのかもしれない。しかし、この目で確かめるまでは信じたくなかった。耳が、頭が拒絶した。

 ホームルームが終わり、チャイムの音で皆が姿勢を崩す中、颯斗は机に向かって検索を始めていた。

 十二月二〇日、正午ごろ。東京都、千代田区で夫が空を見上げた後に倒れた、と110番通報があった。区内の病院に緊急搬送されるも意識不明の状態が続いており、都立大病院へ搬送されるという。同時刻に同様の通報が四件あり、いずれも意識不明の状態で治療が行われている。

 二〇日午前十二時五分頃、東京都荒川区千住緑町の飲食チェーン「丼の屋 千住緑町店」に、乗用車が突っ込んだ。荒川警察署によると、運転していた同区の会社員男性はアクセルを踏んだまま、気を失ったと見られ、その後飲食店に衝突したという。同署は同時刻に都内で発生した事件と併せ、事故の詳しい原因を調べている。

 これらは既に目を通したニュースだ。視界の外に押しやり、ネットの海を探っていく。

 だが潜っても潜っても、目ぼしい報道は出てこなかった。殆どが日曜日に公開されたもので、新しいものは見つからない。

 次はダメもとでSNSを検索する。日曜日の時点で事故・事件に直接関係のあるような投稿が見られなかったので、期待はできない。

 東京 事故、二一日 東京 意識不明 などと検索欄に入力し、視界をスクロールしていく。

 結局、トレンド、最新、と様々な方向から書き込みを洗ってみるも状況は変わらなかった。似たようなニュースと、それに対する不安や驚きを表した適当な投稿しか出てこなかった。

 唯一の手掛かりは、意識不明の状態が続いているということだ。ただ単に脳震盪などの外傷によるものだった場合、そのような報道があるはずである。しかし、どのニュースを見ても意識を失った経緯が記載されていない。合計五人が巻き込まれたと思われる今回の事件は続報がないことを考えると、現在も治療が難航しているのではないか。それならば、治療が行われていると報じられていた大学病院から何らかの発表があるかもしれない、そう颯斗は踏んだ。

 だが、被害者が搬送されていると思われる都立大病院のアカウントを見てみても、大きな動きはなかった。

 既に授業中だが、張っていた背中を崩し溜息をつく。

 評論家が声高に叫ぶほど、十数年前とは格段に発達したと言われるAIやインターネットを以てしても、クラスメート一人の安否すら確認できないことに落胆する。

 颯斗は自分のアカウントを開いて、フォロー欄から浅賀のアカウントを探す。大方のクラスメートとしか繋がっていないので、彼女はすぐに見つかった。

 開いてみると、彼女もとりあえずアカウントを持ち、友達とフォローし合っているような状態であることが分かる。故に、勿論投稿も行われていなかった。

 ネットが上手く使えていない可能性もある一方で、探しても見つからないなら、そもそも情報が存在していないことは多分に考えられる。今目にしているARスクリーンも、グラスがなければ見ることはできない。データがなければ表示もできない。

 ないものは、ないのである。

 一度、浮かんだスクリーンを落とす。無視していた授業に耳を傾ける。

 だが、途中から聞き始めた授業はいまいち内容が頭に入ってこず、ホログラムで表示された世界地図や黒板の文字から目が逸れていく。

 急に世界が厚みを失った気がした。結露で濡れた教室の壁は薄氷で、触れれば崩れ去るのではないか。今まで必死に覚えてきた歴史や外国語は解いたハンカチのように手からすり抜けていく。友達や親はいなくて、雪が降る灰色の町に一人で生活をしている。窓から見える山々はこの世の端で、その向こう側は存在しない。

 考えれば考えるほど、それが本当のように思われてきた。颯斗は怖くなってペンをとり、再び授業に集中した。

 チャイムの音で集中が途切れる。授業が終わった。

 仰向けで顔を覆う和樹。ペンを置いたノートの端には、確かに黒鉛で授業のメモが刻まれていた。

 

「お姉ちゃん、ほんとにライブ当たって良かったね」

「うん」

「いやあ、まさか四人当たるとはなあ」

「ねー」

 浅賀家は四人家族揃って東京に出かけていた。立ち止まる横断歩道の前には、立体映像のバーが歩行者を塞いでいる。

「はやくenLights見たいなぁ」

「ね、楽しみだね」

 妹の言葉に浅賀優は調子を合わせる。

「パパが見たいのって誰だっけ?」

「岸本ノヴだな、美桜知らないだろ?」

「うん、知らなーい」

 四人が当たったのは、様々なアーティストが参加するロックフェスティバルだった。最初に優が参加を切り出し、出演グループを見ている内に家族で行くことになり、参加形態をオンライン・オフライン問わずに応募したところ、現地組として当選したのである。

「しかし、良い天気だなあ。風も無くて、あったかいくらいだ」

「そうねえ」

「ママ、後でお茶買おう」

「はいはい。でももう少しでレストラン着くわよ」

「ううー……、お姉ちゃん、後どれくらい?」

 美桜は優に向かって振り向いた。だが、彼女は空を見て虚ろな表情を浮かべている。

「お姉ちゃん?」

 信号が青になった。行く手を塞ぐホログラムのバーが消える。

「ほら、行くぞ」

 両親とも交差点の白線に足をかけた瞬間だった。

 ドサッ、と背後で音がする。

「お父さん、お母さん! お姉ちゃんが」

「⁉」

 振り向くと、優が倒れていた。父が駆け寄るが、優はぐったりとしていて手足に力が入っていないように見える。

「なんだ、何があった?」

「分かんない、急に……」

「……、」

 突然のことに戸惑い焦りが強くなっていく、今までこんな娘を見たことがなかったからだ。

「母さん、とにかく救急だ」

「はいっ……」

 母が救助を求める中、父と妹は必死に呼びかける。

「大丈夫だ、絶対良くなる。聞こえるか? 父さんだ」

「……ひ、」

「なんだ? なんて……」

「……ひか、り……が」

「光だって」

 美桜が優の微かな口の動きを読み取る。

「光?……」

 父は辺りを見回す。だが、目に映るのは蒼い空を反射する高層ビルと、晴天の下、燦々と輝く太陽だけだった。

 

 看護師に連れられて、一家は診察室に入る。

 顔を会わせるやいなや、娘の容態への回答に迫る父を医師は冷静になだめ、着席を求める。

「娘さんの容態ですが、ひとまずのところ命に別状はありません」

 ほっ、と一家全員が胸をなでおろす。

「ただですね、意識の方が戻らないということも現状としてあります。そして意識不明に至らしめているものが良く分かっていません。今日は娘さんの他にも、同様の症状で搬送されている方がいらっしゃいまして、そちらの患者さんとの関連も調べているのですが、何せいずれの方もまだ意識が回復されておられないこともあって、判断しづらい状況です」

 白無垢の診察室に医師の言葉だけが虚しく響く。窓際に掛かるブラインドからは夕日がさしこんでいた。

「それでですね……」

 医師の言葉が止まる。彼が一瞬目を細めたところから、彼の視界に――NWグラスに、新たな情報でも滑り込んできたのかもしれない。

 数秒目を動かしてから説明に戻る。

「はい、すみません。今、今回の症状に当てはまる全ての方の検査が終わりまして、結果が来ました」

 医師は逸らした目線を再びこちらに向ける。

「検査から総合的に判断しまして、娘さんの症状は――」

 

 十二月二四日。世間ではクリスマスイブなどと騒がれる一日は颯斗にとってなんら楽しい一日ではなかった。ついに大学病院から記者会見を行うと発表された日であり、同時に二学期の終わりを告げる終業式の日だった。

 教室の窓からは雪が降っているのが見える。一週間前、浅賀はこの空を見上げていたはずだった。

 灰色の空。

 前見た時は色なんて気にならなかったのに、今はその冷たい石灰色がこの世の全てを包み込んでしまったかのように横たわっている。

 会見開始は終業式開始と同時の、午前九時。VR、AR、なんなら2D映像を投影するだけでも成立する学校長や教頭の有難いお話会は、しかし律儀に全生徒を体育館に集めて行われる。面倒くさい、と呟きながら列を成した生徒達が体育館に吸い込まれていく。

 この奇妙で、だが誰も大きく動いて変えようとせずそのまま続いている学校行事に颯斗は何も期待していなかった。

 今朝も担任教師から浅賀についての事情説明はなかった。あの日曜日、振替休日を経てから浅賀の席は空いたままだというのに。

 言われたことには従います、だから記者会見だけは見させてください。

 頼みの綱は、東京都連続不審負傷事件 都立大学病院会見と銘打たれたライブ中継だけだった。

 

 マイクから響く生徒会の開会アナウンスと同時に、待機映像になっていたライブ中継が動き出す。白地の布がかけられた長机の壇場に、スーツや白衣を着た数名が登壇した。

 イヤフォンのノイズキャンセリングを調整すると、体育館のアナウンスが会見の司会の声に切り替わる。

「それでは、校歌せ……」

「えー。お集まりいただきありがとうございます。先週に発生いたしました、東京都連続不審負傷事件について現状説明等させていただきたいと思います。よろしくお願いいたします」

 朝からライブを、それも平日のものを見ている聴衆はやはり少なかった。同時接続者数は百人を少し超える程度のものである。SNSを見ても、大手ニュースメディアが数多に流すニュースの一つに埋もれ、会見についてのものは大した反応がついていなかった。

 まず最初に、事件の概要から説明が行われていく。

 十二月二〇日。当該被害者は五名。いずれの被害者もこの事件で意識障害に見舞われたということが共通項として挙げられている。

「意識障害についてですが、自律神経系には問題が見られず、命の別状はありません。しかし、大脳の機能が正常に働いておらず、意識が回復しないという状況です」

 大脳についての言及は初めてだが、大枠はこれまでの報道と変わらない。

 東京にいた、ある五人が何らかの原因により意識不明になってしまった。そして、その中に浅賀が含まれている……。それが今回の事件の内容だ。

 グラスで中継を見ているのがバレないように、生徒に向かって話す校長の方へ顔を向けながら事件についての更なる情報を待つ。

「意識障害が起こった原因についてですが、こちらは現時点で不明となっております。被害に遭われた患者様、またご家族の皆様におかれましては、解明が進んでおらず大変申し訳ありません」

 頭を下げ謝罪を行う医師陣に、無音のフラッシュがいくつかたかれる。その光はNWグラスのヨロイ――レンズとつるの稼働部を繋げる箇所――から発せられたものだ。グラスの力により、手で四角を作るだけでフォトが撮れる今は、被写体に狙いを定めるその姿が場合によっては間抜けにも、また、まるでレンズに写る被写体の心の内まで見透かすようにもさえ見える。

「原因は断定出来ないのが現状ですが、仮説がございますのでご説明させていただきます。今回の事象により負傷された患者様は五名になりますが、患者様のご家族、また警察等にご協力いただき、状況を精査させていただきましたところ、意識が途絶される直前、ある〝光〟のようなものを浴びた可能性があると分かりました」

 この「光を浴びた」という情報はいくつかのニュースで報道されていた。改めて聞くと、それが理由だと言われても俄かに信じがたいが、そうなのだと受け止めるしかない。

 それよりも、この先の話を聞けないか、と颯斗は固唾を飲んで視界のライブ中継を見つめる。

「先程お伝えしました脳の状態に話が戻りますが、意識障害、意識不明の状態というのは実際は外から見た結果の容態になります。患者様の状態のより正確なご説明としましては、なんらかの原因により大脳で行われる思考や知覚等の処理が長時間完結せず、処理が終わらないことで他の行動を起こすことができていないのではないか、ということで医師陣らの見解が一致しています。この処理が終わらず、行動の指示を出すことができていないことにより、結果的に意識障害に繋がっていると推察されます」

 意識がない、つまり目が醒めないのではなく、目は醒めているけれど外に対して反応ができていない状態。

 颯斗は医師陣の言葉を反芻する。

 浅賀は今どんな気持ちなのだろうか。思考が終わらないということ。永遠に続く道をひたすら走る、檻のない牢獄の中にいるような気持ちなのだろうか。いや、そんなことすら考えることができずひたすら苦しんでいるのかもしれない。

 医師陣の説明によると、患者には微熱が見られることや、脳波の計測値を示した表などが、彼らの状態を裏付けているという。

 実物的な記録や証拠が出る度に、それらに刻まれている数字やグラフの向こうへ彼女が遠のいていく気がした。

 助からないかもしれない、もう二度と会えないかもしれない。そんな感情が颯斗の身体に震えとなって現れてくる。

 話が終わった校長へ挨拶をするために立ち上がる皆に、ワンテンポ遅れて立ち上がったことで動揺していることを実感する。

 会見はまだ続く。

「謎の光を網膜から情報として受け取ってしまい、それが思考に影響を与えてしまった、ということも考えられると思っております。脳研会では、既に今回の症状について命名がなされており――」

 遷延性意識障害Vegetative State。彼らの口から出た病名は一見聞きなじみのない言葉だったが、しかしよく考えてみると人生で一度位は耳にしたことがあるものだった。

 つまり、植物状態。それが浅賀の状態を端的に表した言葉だった。何らかの原因で大脳の機能が失われ、機能が残る小脳と脳幹によって生命維持は可能なものの、外部の刺激に対して自発的な行動を取ることが出来ず、意識がないとみなされるこの病状は、浅賀と颯斗の間にある長い距離そのものだった。

 しばしば悲劇の象徴として劇や物語で描かれるこの病名だが、実際に目の当たりにすると茫漠とした感情へ表しにくい気持ちに颯斗はなっていた。それは、今、彼が悲しみに暮れつつも情報を集めることを最優先として行動しなければいけないという意志に駆られているからか、はたまた、病床に横たわっているであろう彼女の傍に立ちあえていないからだろうか。おそらく、答えはどちらもだ。

 脳梗塞などによって引き起こされてきた植物状態は、従来から行われてきた薬による血栓の融化等に加え、高度通信によって離れた場所からでも操作可能な微粒子ナノマシンの普及が治療を支えたことで早期対応が可能になり、その症例を減らしてきたはずだった。

 だが今回の植物状態は血管に問題があるのではなく、大脳を銃弾等で物理的に欠損し陥るものと同じように、大脳そのものに問題があり、それらの技術も役に立たない。

 中学生には、そして報道陣にも大して理解できないであろう専門用語を交えた説明に、なんとか食らいついて聞いていると周りの声が少し大きくなり終業式が終わったことが分かった。

「今回の症状に対して特効薬となる可能性がある治療法についてですが」

「治療」という言葉が出てきたことで、片耳半分で聞いていた会見に再び耳を澄ませる。歩く震動で揺れるNWグラスのホログラムもある程度したら揺れに対して補正が掛かり、ぴたりと視界に張り付いた映像が眼前に広がっていた。

「治療法については現在、検討中のものがあり対応に向けて準備を進めている状況です。追ってご説明させていただきます」

 資料を持ちつつも、こちらを見て話す医師の目とその語気に少し好感が湧いた。

 教室に戻る頃には会見も終了したので中継を切った。確認したいことがあれば、またアーカイブを見ればいい。

 

 簡単な挨拶と掃除を済ませて下校になる。浅賀のいない掃除時間は退屈だった。何度掃除したってそこに現れる塵芥の存在は、掃除が無駄なものと思わせるのに十分だった。

 一緒に帰宅する前山はNWグラスでゲームをしているので、颯斗は手持ち無沙汰に空を見上げる。

 空からは粉雪が降っていた。

 東京はどんな空をしているんだろう。あの日と同じく、俺らのことなんか知りもせずに煌々と太陽が大地を照らしているのだろうか。

 空模様なんて見上げるだけで、グラスが反応し週間天気予報まで知ることができる。だけど知りたいことは明日の天気がどんなものなのか、なんて小さなことではなかった。

 ふと、体育館から教室に戻る時のことを颯斗は思い出す。

 颯斗の担任と浅賀の友達なはずの数人が一緒に階段を上がってきていた。颯斗達の列とは別で教室に戻ってくる彼らは目立っていたが、一人が泣きじゃくっているのが目に入り話しかけづらい雰囲気だった。

 彼らは特別に配慮され、終業式には参加せずにどこか別の教室で大学病院の中継でも見ていたのだろうか。

 颯斗は考え続ける。

 彼ら。浅賀の友達。他クラスに在籍している彼らは話したことこそないものの、浅賀とは部活が同じらしく仲良く廊下を歩いているのをよく目にしていたので知っていた。浅賀の容態が何なのか、初めて確定してしまったのは彼らのせいだし、知ることができたのも彼らのおかげだった。

 彼女達なら、今のこの状況でも浅賀の傍にいることは可能なのだろうか。

 浅賀の傍に行って、大丈夫? と声を掛けることが。

 でも、と颯斗は苦笑いする。

 でも、それは気持ちの悪いことだと。

 大体、自分は彼女の何なのだろうか。

 友達? あり得ない。クラスメート? 記憶に微かでも残っていれば良い方だろう。

 颯斗の頭の中に、どこかしら都会にあるであろう病院が映る。颯斗は息を切らしながら、さも一刻を争って急いでここまで来たかのように、眼前の病院を見据えている。

 病院の窓口には、奥へ続く通路の脇に特殊なグラス――サングラスのように目線が隠れる加工がされ、おおよそ各種探知機能にアクセスできるであろうもの――を掛けた警備員が見えた。その体に纏った重厚な装備と共に。

 バカだ、と颯斗は思う。

 心底呆れる。万が一にも、その警備員を突破して中に入っていこうと考えることに。そんな妄想に耽ってしてしまう自分に。

 気づけば、前山と別れ、玄関の扉が見えていた。

 扉。木目調の、温かくて大きな扉。凝視をしている内に、解錠の音が耳を抜けていく。

 二学期の終わり、冬休みの始まりは颯斗にとって大きな節目だった。

 中学受験の敗北。それを取り戻すために、次の高校受験へ向けて本格的な準備が開始される時期だった。

 ドアノブに手を掛ける。

 止まっていても、何も起きない。進む以外の道は用意されていない。

 思いっきり手前に引いて、足をのばす。

 薄暗い玄関に一瞬外の薄い光が差して足の影を作り、それが自動で点いた部屋の明かりに消されていく。

 振り向いて空を見た。向かいの家の屋根上に広がる白く煤けた空を、少しだけ恨んだ。

 

 塾の校舎を出て、指を振る。毎度恒例のニュース確認だ。

 冬休みに入って数日経った寒い夜には依然と雪が降り続いている。

 軽い夕食を取ってから覗いていなかった大学病院のSNSアカウントには新たな投稿が追加されていた。内容は記者会見、今度は治療法を中心に報告がなされるらしい。

 会見の開始時間は塾の授業が始まる時間と被っていたので、リアルタイムでの視聴はできない。学校の授業や校長の話とは違って、塾では先の学習範囲を学ぶのでよそ見をしている余裕がないからだ。

 なので、休み時間などでダイジェストを確認しようと決めて帰路に着く。

 路面の端で固まっている雪をザクザクと踏みながら、より良い知らせが聞けるようにと願いながら。

 

 駅前の、四角に切り落とした石のようなビルは雪と霙でその身を濡らしている。そのビルの一室。塾の教室として使われている部屋の窓からは、小麦粉をひっくり返したようにますます勢いを増した大粒の雪が降り積もるのが見て取れる。

 その部屋で、ある男の子はNWグラスをかけて昼食を食べるクラスメートが手も動かさず、茫然と壁に、いや自分の視界に目を釘付けているのが目に入った。

 颯斗の視界には、治療試みるも事態好転せず、と映っていた。

 大学病院が試みた浅賀らへの治療は失敗に終わったのだった。

 謎の光を見てしまったことで、思考が途切れず次の行動を取ることができない彼女ら。外からの刺激に応答するという行動に移れない彼らは、故に意識障害と認定されていた。

 では、ことの障壁となっている、持続する思考を停止させることができればどうだろうか?

 脳の活動は幾多にも張り巡らされている神経細胞のネットワークによって行われている。その細胞たちは電気信号によって生成される神経伝達物質を介すことで情報を受け渡し、思考を形成している。

 ならば、その情報の伝達を止めてやれば、思考は停止する。神経細胞内の電気信号はイオンの電位差によって生じるものだが、このイオンの活動を阻害する方法は十九世紀ほどの昔から既に存在する。

 つまり、麻酔をかけてやれば良い。この古典的に見える治療法が大学病院の試みたものだった。

 思考が持続している状態とはどういったものか。一般的な植物状態では、今回の浅賀らと同様にベッドで横たわり呼吸をしているという外見的特徴は変わらないだろうが、脳機能そのものが欠損または死滅しているため覚醒することができず、目を覚まし起き上がることができていない。

 だが、浅賀たちは脳機能こそ健全なものの、その機能が過活動を起こしていることで他の活動に手が回らず、結果目を覚ますことができていない。

 彼女らは寝ていても起きているのだ。細胞は活動をすれば老廃物が溜まっていく。

 あの事件の日以降、寝ていても睡眠をしていない彼らに健康面での懸念を医療チームも抱えていたが、各種検査機器が示すパラメータに異常は検知されなかった。

 そして、身体に観測できるほどの不振が見られなかったことの他に、もう一つ存在する懸案が麻酔を施す時期を遅らせていた。

 その懸案というものが、麻酔を施した後患者たちにどのような症状がみられるか、ということである。

 医療チームや被害者関係者は熟孝を重ねた。AIや高度コンピューターによるシミュレーションが行われ、懸案を飲み込み親族や後見人が同意した患者に麻酔が施されていった。

 結果、患者の脳活動は収まったものの、彼らは目を覚まさなかった。初めに麻酔を受けた患者の容態を鑑み、次の患者へと順次に行われていく、または中止されていく予定だったが、事件後五日経った辺りで発熱等の症状が悪化し、放置しておけばいずれにせよ疲労による老廃物が彼らを蝕んでしまうことが分かった。麻酔治療が施される前には何の異常も示さなかった計測機器類に半ば騙されたような状況に、医師陣は苦虫を嚙み潰すような気持ちになりながら、残りの患者にも麻酔を施していった。

 そして、起き上がるものは一人も出なかった。

 元々目を覚ますことが出来ていなかったことを考えると、脳の暴走が止まっただけ前進と言えるかもしれない。

 だが、メディアの煽り通り、親族らは落胆を隠しきれなかった。

 颯斗もその一人だった。

 冬期講習期間はより大きな校舎で授業が行われるので、電車に乗り町を離れ、講義を受けている。普通の塾生とは違い、成績の良い颯斗は上級クラスに配属されていた。

 お昼休憩の中、周りは有名私立に通うであろう生徒に囲まれて、一人で昼食をとり、肩を落としていた。

 イヤフォンを外し、グラスを取れば、何の変哲もない教室が広がる。周りからは笑い声と雑音と微かなクーラーの音。

 時々寂しくなる。それは常に聞いている音楽がデバイスを外したことで耳に流れて来なくなったからか、それともただ人間関係が希薄だからだろうか、と考える。

 自分の興味は何かしら合わないことが多い。皆それぞれのことに夢中で自分だけ何も持たず何処にも顔を向けていないように思える。

 だから、世界を近づける。NWグラスをはめる。

 だけど、そこはどこか浮いていて、掴み切れないように思える。

 画面を落とそうとして、机に置いたグラスを掛け直す。

 会見のアーカイブが絶えず流れているが、構わず切ろうとした時だった。若手の医師が立ち上がり、ホワイトスクリーンに手を向けながら話し出す。

 何を話すのか、流し見して終わろうとしたが、スクリーンに文字が躍り出す。

 白地の壁に〝細胞同調による意識回復法〟と表示された。まだ終わっていなかった。

 

 帰宅の挨拶も早々に自分の部屋へ走る。

 昼に見た吉報は自分にとって最後のチャンスに思えた。実際、今回の治療法が功を奏さなかった場合、米国の研究機関で検査が行われる手筈になっているらしく、颯斗が浅賀に手を伸ばせるのはこれが本当に最初で最後だった。

 報道された治療法は、人間が意思決定や行動を行う時に働く脳細胞を特定し、眠り続ける患者らが持つ同じ細胞を電気的に刺激することで、常人の思考パターンと彼らの脳内状態を同調させようというものだ。

 簡単に言えば、前の人の行進を真似て整列するように、脳内活動を真似させることで起きている者と同じ行動をさせ、意識を回復させる方法である。

 ただ勿論、人は全く同じ細胞を共有しているわけではない。だが、有する設計図は同じだ。人類が脳と呼ばれる部位に決まって大脳、小脳、そして脳幹と器官を発現させるように、共有している細胞群は存在する。

 その中の一つが〝普遍文法〟を思考する細胞たちだ。

 人間は誰しも言語を介するための土壌となる仕組みを予めその体に刻んでいる。英語話者は元々英語を話すように生まれたのではなく、遺伝子に刻まれた普遍文法を用いることで英語を習得していき、言語を獲得するのである。

 この仕組みを稼働させる細胞を人類は共通して発現しており、この細胞の活動具合を同調させることができれば、限りなく思考を一致させることができるのではないか、と今回考えられたのである。

 この普遍文法細胞だが、人によって癖があり、血液型と同じように四つのパターンが存在する。なので、協力者を募り、各人の神経細胞活動を記録することが必要だった。

 颯斗が手を伸ばすことができる理由はこういった理由だった。

 病院側が募る検査に応募し、自分の脳内パターンを提供することで眠り続ける彼らを、浅賀を救う手立てにしてもらう。

 傍から見ていることしかできない颯斗にとって、行動にすることのできる一番の方法だ。

 細胞活動のスキャニングは二回行われると発表され、急いでスケジュールを見直した。

 第一回目の一月開催は模試と日時が被っていたため、悔しいが参加は断念せざるを得なかった。いくらサボるといっても、受験しなければ足が付く模試は、この時期とあって流石に無視することはできない。

 焦りと祈る思いで緊張しながら、第二回開催の日程を確認する。

 こちらはなんとか参加することができそうだと胸をなでおろす。しかし、まだ問題はある。

 それは、移動費だ。専用の機器でスキャニングが必要になる今回の検査は、当該の大学病院がある東京に直接向かわなければいけない。

 颯斗は部屋に着くなり学習机の引き出しを開けた。確かもらったお年玉を隠してあったはずだった。

 上部が斜めに折れた封筒には、確かに畳まれた一万円札が二枚入っていた。リニアや新幹線に乗るには足りないが、夜行バスでの往復には足りそうだった。

 折り目を正し、再度引き出しに仕舞う。これまでは大したお金ではなかった。金額に見合わず、購入できるものは学習書や筆記用具のみに限られていたからだ。密かに電子マネーに換金し、音楽のサブスクなどには加入していたが、他に大きな使い道は存在していなかった。

 無事に当日を迎えられるように、より一層見栄えよく振舞おうと決心する。手始めに元気よくリビングへ戻って、冬期講習の進捗でも話そうと足を伸ばした。

 

 二月中旬。ついにその日がやってきた。

 親には友達の家で勉強会をしてくると言って、夜行バスに間に合うように夕食後すぐに家を出た。こういう時に有名校の名は役に立つ。進学校に通うお兄さんについてもらうとでも付け足せば、満点だ。どうせ親はGPS接続で自分の行動を把握できるとでも考えているだろうが、最新技術に疎い親なんていくらでも丸め込めると企み、NWグラスの設定を弄って駅へ向かった。まず、大阪駅まで電車で乗り継ぎ、そこからバスで新宿まで向かう。

 慣れない都市もグラス一つさえあれば難なく歩き回れ、普段は娯楽や連絡だけの使用に留まっていたグラスの真価を見た気がした。

 早朝に着いた新宿駅は休日にも関わらず、人が沢山だった。生活がオンライン化したことで、日中の生活人口が減少し、満員電車なども数十年前よりは緩和したと聞いたことがあった颯斗だったが、そもそもの基準が低かったので大して変わりはなかった。

 どこも満席の休憩所を探し回り、やっとのところで空いた一室へ腰を下ろす。初めての夜行バスは寝られず、睡眠をとるため横になった。検査では細胞の活動をスキャニングするため、余計な疲労が溜まっている場合、治療に役立てることが難しくなると事前の注意事項にも記載があったからだ。

 眠るために目を閉じるが、頭の声がうるさかった。ここまで来た高揚と、しかしそれを叱る自分がいるのを感じる。

 そんなことでいるから、自分は外野なのだと。

 だけど、ぐずぐず考えることで眠りにつけないことが一番嫌だった。できるだけ無心に努めた。

 

 軽く昼食を取って、指定の施設の前までやってきた。

 入口で電子申込書を提示し、待合室に入る。NPOの団体らしき人たちやボランティア活動家のような人がいただけで、颯斗のような学生は少なかった。第二回目であるということも理由として考えられそうだが、一気に恥ずかしさが増して頬が紅潮する。

 顔を隠すように端で丸まっていると、見覚えのある顔ぶれが部屋に入ってきた。

 彼らは終業式、別室で参加していたであろう颯斗の同級生たちだった。つまり、浅賀の友達のはずである。

 颯斗は彼らと知り合いというわけではないが、一度顔を見たことぐらいはあるはずである。目が合えば、同じ学校の同級生だとバレるのは間違いなかった。

 颯斗はさらに顔を下に向けて、目を逸らした。

 恥ずかしいという気持ちが勝ってしまった。

 これだけでまた気分が落ち込む。こんなことをするぐらいなら来なければ良かったんじゃないかと。助けに来て、「助けに来た」と言えないなんて厚顔無恥にも程がある。

 ここから消えたくなった。これなら本当に勉強会をやっている方がマシに思えてきた。全て自分の自己満足で、こんなこと誰も望んじゃいない。それこそ金の無駄遣いだ。

 だが、パイプ椅子で震える颯斗に、待合室にいる検査の協力者たちに声が掛かった。検査のための説明と準備があり、いよいよ脳細胞のスキャニングが始まった。

 

 検査の内容は運動と筆記だった。どちらも頭に軽いギアを被り、行われていく。

 運動は軽いウォーキングとツイスターゲームのように、信号を基に体を動かすことが求められた。

 こちらは特に問題なくこなしたが、筆記が颯斗には難関だった。

 事前に検査内容は示されていたとはいえ、実際に検査開始の合図が出ると手が止まってしまった。まるで模擬試験かのように、被検者全員が一斉に紙に向かって筆を走らせていく。勉学の模試であれば、颯斗はむしろ何の障壁もないが、手が止まっているという罪悪感と書いた内容が他の人に見られるという恐れが脳に染みついてしまった。

 こちらもまた確認事項に記載されていることだが、筆記自体はあくまでも手がかりなだけであり、重要なのは文字を書いていたり文章を組み立てていたりする最中の脳の働きである。筆記物は真っ白の白紙であり、書かれた内容も検査のデータ精査等以外で使用されることはない。

 だが、颯斗は手がどうしても動かなかった。

 同級生たちの方へ目をやって、何を書いているのか想像してみる。ガリガリと鉛が削れていく音がするだけで、彼らは立派だな、と思う。

 自分の感情。これも脳細胞の活動による現象でしかない。とすると、自分の気持ちは固有のものではなく、同調可能なものだということになる。

 それは自分の気持ちがバレることを意味しているのではないか。

 ここまで考えて、先ほどのように、体の芯が熱くなっていくのを颯斗は感じる。

 気持ちがバレる、バラす、明かす。

 それは告白を意味することなんて一々言葉にしなくても理解できる。

 だけど、この二文字になるだけで印象が大きく変わる。

 ドクドク、と体が鳴っているのが分かる。

 告白というものは何なのだろうか。それをすれば、一体何になるのだろう。

 自分の好意を伝えて、相手が受け取り、または断る。

 受け取ってもらえたら、幸せなのだろうか。もっと一緒にいることができるようになる。もっと相手を好きになる。

 好きとは何なのだろう。

 颯斗は浅賀のいる教室を脳裏に浮かべようとする。

 怒った声が聞こえて、顔を上げる。目を合わせたいのに、まるで磁極が反発するように目は合わせられない。怒られているのに、なんだかちょっと楽しいような不思議な気持ちになってくる。

 窓の外を見渡す浅賀を思い浮かべて、ふと恐ろしいことに気づく。

 はっきりと思い浮かべることが叶わないのだ。

 彼女はどんな顔をしていただろう。

 どんな風に笑っていただろう。

 思い出せないそれを見ると、温かな気持ちになることは心が覚えている。

 だけど、肝心の笑顔がどんなものだったか思い出せない。

 記憶力に異常があるわけではなかった。教科書や単語帳で覚えた用語や年号はすぐに出て来るからだ。

 しかし、彼女は輪郭が途切れ途切れ朧げに浮かんでくるだけで、今一つ要領を得ない。

 顎に手を付けて悩んでいたら、気づけば検査終了の合図が聞こえてきていた。

 結局、最後まで思い出せなかった。白紙の用紙には簡単な日本史の事件年号や英単語しか並んでいなかった。それを裏返して残し、部屋を後にした。

 

 夕方の東京。関東平野を包む夕日がビルの合間から差し、感傷的な気分になった。

 ふと立ち寄った公園のベンチから空を見上げる。

 ビルと雲と電線で狭まった青空を鳥が横切っていった。

 謎の光は振ってこなかった。

 

 

 あれから丁度一年。無事高校受験も終わり、中学生活も残すところ卒業式のみとなった。公立組より一足先に、隣の県の有名私立高校に入学を決めた颯斗は高校での学習範囲について予習をしながら、去年の今ごろ、ちょうど彼女の事件が起こった時のことを度々思い返していた。

 結局、彼女たち、東京都連続不審負傷事件の被害者らは目を覚ますことはなかった。二度の同調実験、そして再度他の協力者からスキャニングを行い、合計四度の同調実験を行ったが彼らの覚醒という結果には至らなかった。

 彼らは米国に搬送され、治療が続けられることになった。

 その後の動向も颯斗はチェックしておこうとしたが、向こうのどこの病院や施設で治療が行われるかということは報道されなかったため、よく分からなくなってしまった。

 彼らを時の狭間へ追いやってしまった〝謎の光〟についても同様だ。

 人間の脳を混乱させ、一定の行動を強制し続けるほどの光とはどのようなものだろうか。研究員の考察として、その光を情報として脳が処理しきれなかったのではないか、というものがあったが、そもそも被害者の五人だけにピンポイントで影響を及ぼす光線が存在するのかといった疑問や、仮にも存在するとしたら衛星等が感知しているはずだという意見によって都市伝説と化していった。今では、細胞による突然変異が起因したアナフィラキシーショックの一種であるとする見方が強い。

 しかしそれも小さなネットコミュニティからの未確認情報だ。学者でもなければ、一般人の、それも一介の中学生に判別など出来るわけがない。

 受験が終わって、浅賀の友人たちのSNSを覗いてみたが、彼女の容態が改善した等の内容は投稿されていなかったので、つまりそういうことだろう。

 姿見を見ながら、中学生最後の制服に袖を通す。初めは慣れなかった学ランも今はなんということもない。むしろ高校からはブレザーに替わるので、感慨深い気持ちになる。

 高校入学に合わせて新調したNWグラスをはめて、玄関へ向かった。

 

 紅白の帯で飾られた体育館で校歌を歌う。NWグラスに没頭し、あまり聞いたことの覚えがない校長の話も今日は最後まで聞く。

 植田颯斗。その横の席、浅賀優の席は空いていた。

 浅賀は三年も同じクラスになったが、最後まで登校することはなく、またそれについて担任の口から何か発せられることもなかった。

 もう何も感じない。それが颯斗の心境だった。そういうこともあった、そしてこんな形で終わりを迎えることもあるのだと自然に受け止めていた。

 もしかすると、三年生になって人脈が広がったことで、大して人付き合いに執着が無くなったということも関係しているのかもしれない。

 式が終わり、受験期に仲が良くなったグループと写真を取りながら、そのように解釈してもみる。

 中学生生活も振り返って見れば悪くなかった。元々掲げていた高校受験でのリベンジは親のスパルタ教育が功を奏し、難なく成功した。

 写真を取り終わって、思い残すことは何もないと教室を後にした。

 桜が窓の外で散っていた。

 

 しかし、その桜の花は風に煽られ、ひらりと一回りした。

 開いた窓から吹く花びらがNWグラスに張り付く。

 グラスを外し、視界を覆うそれを拭った時だった。

「あ、ねえねえ」

「植田……だよね? 覚えてるかな?」

 顔は上げられなかった。上げなくても誰だか分かるから。

「……あ、ああ。久しぶり」

「わ、ありがとう。もう忘れられてるかなと思って」

「……、」

「えっと、皆は教室にいるかな?」

「うん、まだいるよ」

「そっか、じゃあ私教室に行ってみるね」

 ぱたぱた、とせわしなく階段を上がっていく。

 振り返って、後ろ姿に目を合わせた。

 彼女だった。

 忘れているはずがなかった。

 彼女は助かった。颯斗の脳活動サンプルが役に立ったのかは分からない。だけど、確かに彼女は生きてそこにいる。

 NWグラスは右手に握ったままだ。だから、目の前の彼女が幻覚やグラフィックバグであるはずがない。だけど、何かがこみ上げてきて、視界がぼやける。

「浅賀!」

 もやを振り払うように、声を張り上げた。まだその顔を見ていない。ここで振り向かなければ、浅賀の顔はぼやけたままだ。

「ん?」

 ふわりと頬を隠す程の横髪が揺れて、彼女がこちらを向く。

「……、」

 笑っていた。何かを期待しているような、明日が楽しそうなその笑顔がそこにあった。

 そこが好きなんだ。

 その笑顔を待っていた。

 さらに気持ちが昂り、声が上擦る。

「また、高校生活も頑張って! また!」

「……うん、またね」

 走った。残したものなんて何もないから。

 好きだ、好きだ。

 君が生きてて良かった!

 身勝手だけど、君が好きだ。

 こんなこと口にはできない、する権利もないかもしれない。だけど、言わせて欲しい。

 好きだ。

 一緒に笑ってくれて、ありがとう。


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