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映画メモ46「ギルバート・グレイプ」

「そういえば見てない」
という映画はたくさんある。
見てないものの方が絶対に多い(本もそうだけど)。

というわけで「ギルバート・グレイプ」。
開始5分で
「ディカプリオ、すげえええええええええ」
となった。
息子にも「とりあえずここだけでいいから」と見せたら
「すげえええええええええ」
となってた。
レオナルド・ディカプリオは、ただのイケメンではなかった。

ギルバートが、閉塞感しかない町で
死んだ魚のような目をしながら暮らす。
私たちと変わりない。
少しのいいこと、少しの楽しいこと、
たくさんのめんどうなこと、いやなこと。
小さな小さな欠片。
大きな事件はそうそうない。
毎日が小さな喜怒哀楽でできている。

動画の中で「ハレ」の日を楽しんで
ウェイウェイやってるような人と比べる意味はない。

ママの燃えるような愛情。
その愛情ゆえに、パパが死んでしまって動けなくなったんだろう。
今の私には、ママの気持ちになってしまう。
ベッドに行けなかったママの気持ちも。
私は食べられなくなったけれど、食べ続けたママの気持ちも。

今の閉塞感の中で生きる若い人なんかは
ギルバートかな。
どこかに出るったって、別に自分、何もないし・・・
ここで仕事あって、ご飯食べていけるしとか。

熱かったり、冷たかったり、極端じゃなく
あったかく、肌寒い程度の毎日を
生きていくことのつらさ。
手にした薄っぺらな板の中では
歌ったり踊ったり楽しそうな毎日がハレな人。
倦んでなさそうな笑顔で。

私も何かできるんじゃないか。
と思うけれど、私には何もない。
何もない方が多数派。

今でいうところのヤングケアラーか。
良い文脈では語られることはほとんどないだろうけど。
今の日本で当てはめるとしたら
マイルドヤンキー層とかかもしれない。

私はずっと同じ場所にいない。
根無し草だ。
ずっとそこにいる強さはない。
長くそのことで劣等感を抱いていた。

けれど、ずっとそこにいる人からすると
何もかもを躊躇せずに新しくする私を
強いと思うらしかった。
単なるないものねだりだなと気づいたときに
劣等感はなくなった。

違う「強さ」なのだ。

何もなくても、その足元を見てほしい。
そこにいるという強さがあるから。

「ギルバート・グレイプ」は滋養溢れる映画。
じんわりと噛み締めて観てほしい。

おしまい。




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