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読書メモ35「凍りついた瞳」

非常に古い本である。
持っていたのは文庫でなかった気もする。
しかし、捨てられてしまったのなら買うまでのこと!
というわけで購入。
「新」も読んだっけかなあ。
あったと思うんだけど忘れちゃった。
少なくとも10年は読めていないから。

私が「児童虐待」を知ったのは
児童相談所に一時保護された時だ。
だから40年近く前。
叩くとかは一般的な時代ではあったけれど
「首輪をつけられる」
「三つ指ついてお風呂に入らせていただきますお父様って言わなきゃいけない」
「家に帰りたくなくてお兄ちゃんと夜に歩いていて保護された」
「施設に行けるのが本当にうれしい」
と言っている子の話は、当時の私を心底驚かせるのに十分だった。

ちょうど外では「巣鴨子供置き去り事件」が起きていた。

あれから25年、というインナーきみまろが出てくるよりも
もっと長い期間が過ぎた。
そしたら虐待なんて知らない人がいないくらいになった。
子どもの数はどんどん減っていった。

育児環境は便利なハードウェアは増えたのに
人的資源は減っていって
社会で子どもを育てるなんて考えもなく
身も心も貧しい大人が増えていった。
経済がダメで、心もダメになるって、
貧すれば鈍するって、こういうことかーとか
衣食足りて礼節を知るってこういうこと?とか
考えてしまう。

あれから色々あった自分が今改めて読むと
虐待する親が虐待されて育ったのは当然として
親の知能が高くないのかなと思うようになった。
私だって知能が高いわけじゃないというか
IQを検査せずに済んでいるのだ。
多分、施設に入ったときに一通り検査したと思うけど
結果は知らない。
何も問題はなかったのだろう。
検査せずに済んでいるというのは、血液型も同じで
大きなケガも手術もしていないというような意味だ。
大過なくというものだ。

もちろん、虐待に関係するのは知能の高低だけではない。
情緒面での発達もあるだろう。
私も偉そうなこと、全く言えない。

子ども達を叩いたりしたから。
最初の子ども達は特に。
申し訳ないことをした。
そして手放してもいる。
これは私と一緒にいたら経済的に虐待になりそうだから
経済的に安定した方にというので調停でそう決めた。

私が虐待のことをうんぬん言うのはおかしいかもしれない。

ただ、言えるのは子どもは社会で育てるものだということ。
そうじゃない?
私の子ども達は全員成人した。
子育ては終わった。
だけど、すべての子ども達が
幸せな気持ちになることが多くありますようにと願うことを
やめない。

それを支える人になりたい。

おしまい。




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