二十歳映画監督 小川深彩の軌跡

※本記事は、宣伝会議 第43期 編集・ライター養成講座の卒業制作として作成しています

 2020年、若手映画監督の登竜門と呼ばれる田辺・弁慶映画祭にて「偽神(ぎしん)」でキネマイスター賞を受賞した現役女子大生の小川深彩(おがわみさ)さん。アメリカ合衆国出身の彼女は幼いころから演技の世界に目覚め、ミュージカルや自主映画出演など俳優活動に励んだ。のちに家族で移住した沖縄の地で映像制作にのめり込む。昨年4月に20歳の誕生日を迎えた彼女はこれまで何を思い、今日にたどり着いたのか。深彩さんと母・彩さんに取材した。

小川深彩とは・・・

 2021年12月某日、人気の賑わう渋谷ハチ公前に立つ明るい頭髪の女性を見つけた。
「金髪なのでわかりやすいと思います 笑」
このメッセージが届いてから、ほんの数秒の出来事だった。こちらも事前にマスク姿の顔写真を送っていた。ゆっくりと近づき、はじめまして、と声をかける。すると、高く透き通った声で「あ!はじめまして!」と元気な挨拶が返ってきた。彼女は20歳の現役女子大生でありながら新人映画監督としてその名を轟かせている小川深彩さん。21歳の私にとって、彼女の活躍は同世代として非常に刺激的だった。同じ20年間の歩みの中で、彼女は何をし、何を感じてきたのだろうか。今の彼女を動かす力はいったいどこからきているのか。ぜひ、話を聴いてみたい。

最近_広島

小川深彩監督(20)

 深彩さんは、人と話すことが苦手だと言っていたが、全くそう感じない。明るく朗らかな印象を抱かせる素敵な女性だ。話しているうちに緊張が溶け、互いに敬語を外すようになった。深彩さんによって時折挟まれるジョークが面白く、場が和んだ。
 大学の授業に、映像制作の課題、仕事を抱える彼女は毎日とても忙しい。しかも、新型コロナウイルスの影響でキャンパスには週に一度しか通えていないそうだ。息抜きになるはずのキャンパスライフも思うように送れていない。仕事のミーティングにも出席必須だ。だが、ここでリモート授業の利点が生きてくる。職場近くのファストフード店でパソコンを開き、授業に参加してから仕事に行くこともしばしばあるようだ。

 けれど、彼女はそんな慌ただしい毎日に、もしかしたら慣れているのかもしれない。取材をして、そう感じた。幼いころから学校と稽古場を梯子したり、高校に通いながら映画制作会社でインターンシップをしたり、大学受験のために2ヶ月で古文を勉強したり・・・。パワフルだと思った。興味を示すとなんでもやってしまうらしい。
「面白そうだな、というか、それをやっている人の考え方に近づくのが好きです。」
演技、オペラ、料理、水泳、そして映画制作。さまざまなことに挑戦してきた彼女はそう語った。そして、それは全て「映画」に繋がるという。

 彼女が撮る作品はホラー寄りだ。しかし、完全なホラーではない。ダークファンタジーやサスペンス。深彩さん自身、スプラッターやグロテスクな映像は見たいと思わないそうだ。
「私、汚いものは撮ろうと思えないんですよね。芸術ではないと思うんです。人間の心が動くのは美しいものを見たときだと思います。ビジュアルに限らず、汚い人間の美しいところもそうです。ひねくれた世界観が大好きです。」
彼女の作品は予告だけでも背筋がスッと冷たくなるような感覚がある。しかし、物語として読むと非常に考えさせられ、霊的な怖さはほとんど感じない。
 さらにこだわりを問うと、ビジュアルとツイストだと返ってきた。ホラー映画は美しくあるべきだと語る深彩さん。どれだけ血や心臓が出ても、美しく出すように工夫する。また、景色も同様だ。その点、撮影によく使う沖縄は灰色が少なく、自然の美しさが画面を飛び出してくるという。そして、ツイストにこだわるのは彼女のスタイル。どんなキャラクターにも必ず秘密を持たせる。最後のどんでん返しがない作品は作りたくないと言い切っていた。幼いころから家族で博物館や美術館を訪れていたという深彩さん。美しい芸術を観せたい、という価値観が作品に現れている。

本気で何かをやりたいと初めて思ったミュージカル 6歳で挑戦

 深彩さんが演技への扉を叩いたのは4歳のとき。母・彩さんに連れられて「アニー」のオーディションへと向かった。日頃、人前で歌ったり踊ったりすることに物おじせず、楽しそうにこなす娘の姿に才能を感じていた。しかし、結果は不合格。まだ幼く、オーディションというもの自体の状況をうまく理解できていなかった。それから、彩さんは彼女を新たなオーディション会場に連れていくことはなかった。
 
 1年ほどが経ち、深彩さんは友人のバレエの発表会を訪れた。公演が終わると母にこう言った。
「アニーじゃなくても良いから、またああいうのがあったらつれて行って欲しい!」

ミュージカル

深彩さん10歳で出演したミュージカル

彩さんはとても驚いた。娘の興味のあること、好きなことは一生懸命やって欲しいと思っていた彩さん。だが、住んでいた田舎の地域ではオーディションの機会があまりなく、さらに1年が経過しようとしていた。深彩さんが6歳のとき、ようやく手にしたチャンスを見事に掴み取り、「BIG(ビッグ)」というミュージカルでデビューを果たした。
「このときは必死に練習を頑張りました。子どもは台詞のある役はなかったので、歌のオーディションの後、解散だったのですが、他の大人たちのようにセリフのオーディションを受けさせて欲しいって無理矢理頼んで。最後には台本も読ませてもらって、それでやっと納得して家に帰りました。このとき、初めて何かを本気でやりたいと思ったのだと思います。」
と、深彩さんは当時のことを振り返る。

 それからは毎年、ミュージカルに出演した。アメリカでは地域の高校が主体となって、ミュージカルを開催。子ども役や老人役はその地域の人々で構成されていた。規模は市民ミュージカルのようなものだが、稽古はハードだ。子どもは学校が終わり、午後3時ころからスタート。夜になると大人が参加し、夜中の11時ころまで行う日もあったという。車社会のアメリカでは送迎が必須だ。片道1、2時間をかけることもあった。また、小道具や大道具、衣装を作るのには親の協力が欠かせなかった。だが、それらには両親ともに楽しんで参加していた。このミュージカル中心の生活が五年ほど続いたが、深彩さんは文句を言うことなく、取り組んだ。母・彩さんは彼女を、好きなことは苦にならないタイプなのだと思う、と微笑んでいた。当時の話から、今にも通ずる、好きなことに限界を作らず向き合う深彩さんのエネルギーを垣間見た気がした。

ミュージカル2

本格的に、俳優の道へ

 深彩さんが11歳のとき、父親の退職が決まり、アメリカを離れることになった。父親の新しい職場はドイツになったが、祖父の体調を考慮し、深彩さんと彩さんは東京で2人、暮らすこととなった。
 東京での生活が始まっても、深彩さんの演技への情熱は高まる一方だった。俳優養成所に所属し、劇団で活動し始める。だが、ここでアメリカ時代のミュージカルとのギャップを感じた。東京の子どもとその親は競争心が激しい。これまでは顔見知りの気心知れた仲間たちと楽しくやっていたが、子役の世界は厳しかった。オーディションを受ける上で、周りは全員、敵。そんな感覚に慣れるのに少し時間を要したという。そんな娘の様子を見て、母・彩さんは「辞めてもいいんだよ」と話した。しかし、深彩さんは首を振った。ここで実力をつけたい。固い決意だった。彼女の熱い眼差しを彩さんは応援した。

 東京での生活が2年間続いたころ、父親が沖縄で働くことになった。ただ、両親は当初、半年ほどの滞在を予定しており、その後は再びアメリカへ戻ろう、そう思っていたそうだ。深彩さんに沖縄行きを告げた。
「『は?』って思いましたよ。沖縄?こんなに劇団で頑張ってきたのに、沖縄?今まで頑張ってきたことがパーになるのではないかと思って。正直、ずっとアメリカの田舎に住んでいたので、都会は慣れず、少し落ち着いた場所に戻りたいという思いはありました。でも、沖縄って・・・どういうところか想像もつきませんでした。」
言われるがままについていくことしかできなかった。

初めて沖縄に

深彩さん(右)と母・彩さん(左) 沖縄へ出発!

演技から制作へ 映画との出会い

 当初、半年の予定だった沖縄での生活も気づけば1年が過ぎようとしていた。滞在が長引くことになり、深彩さんは高校に入学した。半年ほどだと思っていた舞台への我慢も痺れを切らし、演劇部に入部、さらに沖縄のミュージカル団体に所属した。あれほど抵抗のあった沖縄にもすっかり慣れ、もはや居心地の良さに虜になっていた。

 15歳のとき、所属団体で知り合ったプロの俳優から、自主映画への出演の話が舞い込んできた。タイトルは「Lost Sea」。ヒロインの募集だった。水泳が苦手だった深彩さん。しかし、この役を演じるには泳ぎのスキルが必須だった。監督と話し、「泳ぎます!」と公約。2ヶ月間の猛特訓の末、海で泳げるまでに成長した。これまで舞台での演技が主だったが、映画演技の魅力を感じた。
 この映画が第1回渋谷TANPEN映画際で入選し、東京での舞台挨拶に深彩さん一人で参加した。そして、この映画祭の後の懇親会で転機が訪れる。
「君も映画撮ったらいいよ」
監督や役者に言われた冗談を真に受けた。帰りの飛行機で、初めての自主映画となる「Fault Line」の台本を書き上げたのだ。

 この作品は苦しみ麻薬に手を染めてしまう女性の葛藤を描いた物語。監督たちの助言から台本を書き上げるまで、ものすごく短い時間であるが、実際に深彩さんのなかにあった問題意識から生まれた作品であった。
「沖縄にあるアメリカ軍基地は麻薬問題が蔓延しています。この作品は、主人公の人生は周りから見れば非難されるようなものだったかも知れないけれど、確かにそこに存在していて、彼女なりに一生懸命に生きていたということを認めてあげたいという内容です。もちろん、麻薬を肯定するわけではなく、恐ろしさも伝えながら。麻薬を始めるのには必ず理由があります。でも、そのメンタル状況などを見ずに、ただ悪者扱いしてしまう社会の風潮に疑問を感じていました。麻薬を始め、続けるのには必ず理由があります。そこに寄り添わないと麻薬問題は解決しないのではないかと。」

 深彩さんが小さいころから、やりたいことをとことんやらせるというのを大事にしてきたという母・彩さん。舞台も映像制作も、やりたいことをやれる環境を作るという意味で、サポートしていったと話す。
「『Fault Line』では、周りにも迷惑をかけ、反省点もたくさんあったかも知れないけれど、それを乗り越えてまた次の映画に取り組むという過程が大事だと思っていました。苦労や歯痒いところもたくさんあったけれど、全部ひっくるめて良い経験になっていると思います。好きなら、やればいいかな。」

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深彩さんの高校卒業式にてご家族と

映画はgive&take 物語は社会にある

 小川深彩の作品はどのように生まれるのだろうか。根底にある彼女の考え方に触れることができた。
「誰かが当たり前だと思うことは必ずしも皆にとっての当たり前ではありません。それぞれの当たり前と当たり前がぶつかりあって、そこに物語が生まれると思っています。皆、価値観を持って生きているんだけれど、人によってその価値観は驚くほど違っているし。そこに社会がある。そこに入り込まないと、社会の物語は書けないのではないかなと思います。」
だから、映画は問いかけではないと意味がない。深彩さんは、自身が出した問いかけに対し観客に、彼らのモラルを使わせて、その答えを出させることができると語る。
「観客がいてこそ、映画はできると思います。監督側だけでは物語にならない。観客が見て、観客の心の中で生まれるのが映画だから。映画はgive&takeです。」

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 取材を受ける深彩さん

 深彩さんは、アメリカのジョージア州に住んでいた。その地域はバイブルベルトといい、キリスト教を厚く信仰している。キリスト教信者でないと人間として扱われない環境だった。幼いころから、そこで育ち、いろいろ疑問を持ったという。決して恨みではない。彼らが信じているから、そこにそう書いてあるから、その考えに至るのだと気づいた。自分が日本人とアメリカ人のどちらの文化も持った人間だからこそ見えてきた視点だという。1つの文化に執着を持たなくなり、全ての問題点を見る視点を得られた。昨年の田辺・弁慶映画祭で入選した「偽神」はその経験から生まれた作品だ。強く信じる心を持つことに疑問を持たない人に対し、そこまで信じて良いのか、家族と宗教を選ぶのならどちらなのか、という問いかけのメッセージが込められている。

20年とこれから

 「偽神」の製作は、深彩さんが「夢がある」から「夢を追っている」に変わった瞬間だった。この映画の制作を経て、伝えたいものを伝えられた感覚があったそうだ。
「私は映画を作らないといけないんだな、と思って。こういう世界の変え方もあるんだって思いました。伝わる世界観は役者のものではなく、監督のものです。世界を作り出すのは監督なので。世界を変えたかったら出るのではなくて作るべきだな、と思いました。」
 「偽神」の制作時は17歳。だが、実際に届いたと思ったのは田辺・弁慶映画祭のときだった。作品を見てくれた方々の反応を見て、このために映画を作っていると実感できた。
「見ていただいたお客様、コメントをいただいたお客様にはこの上ない感謝を感じています。」

 母・彩さんは娘の成長を側で見続けてきた。「偽神」を撮った3年後、20歳になって撮った「二階のあの子」と「はじめの夏」の監督ぶりを通じて、「別人のように成長した」と語った。指示の出し方や監督としての現場のまとめ方、いざというときの判断など、自分で撮るという強い意志が現れていたそうだ。だが、親から見ればいつまでも子ども、とまだまだ思ってしまう。20歳でプロと同じ土俵に飛び込み、もがき、大人として扱われることで、変わっていくと感じているという。
「好きなことを思い切りやれる人生が一番幸せだと思います。親として、その過程でできることがあれば良いです。これからは自分の力で考えて行動していくようになるでしょう。困ったときは近くにいて、手助けできる存在でありたいですが、しっかり自分の道を歩んで欲しいです。」

二階のあの子

「二階のあの子」を撮影する小川深彩監督

 深彩さんの今後の目標は、「死ぬまで映画を作り続ける」こと。将来的にはジャンルに拘らず、人の真実や疑問を伝え続けたい。
「それをやり続けることができればどんなふうに人生が変わろうと私は幸せにやっていけるんじゃないかと思います。」

 その力強い決心に、未来の社会にカメラを向ける彼女が見えた気がした。

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