なぜ人間は社会を騙し、 社会に騙されるのか :政治家の言い逃れ答弁から 見えてくるもの( 根本正一)
根本 正一
(博士(学術)、ジャーナリスト、一般社団法人社会科学総合研究機構 理事)
主要著書:『民主主義とホロコースト』(現代書館)
■「私は公共の福祉しか考えていない」
自民党の河井案里議員が夫の河井克行前法相とともに昨年の参院選を巡る公職選挙法違反(買収)容疑で逮捕・起訴された事件が、話題を呼んでいる。選挙区広島の首長や議員が現金受領を認めて次々と辞職しているのに、河井夫妻が議員の座に固執しているのには驚きを禁じ得ない。昨年の当該選挙戦は自民党が複数候補を擁立したことと絡んで、巨額な資金の動いた経緯とか党本部の様々な思惑が交錯したと考えられるが、この問題はまだ裁判前とあって軽々に決めつける訳にはいかない。ただ、メディアに攻め立てられる河井夫妻の言動から、多くの政治家の抱える欺瞞を感じざるを得ない。
河井案里議員は記者の囲み取材で議員辞職しない理由を問われ、「日本を変えたいからです」と答え日本中がドン引きした。夫の克行氏は昨年の段階で法相は辞任したが(法相が法を犯していたとすれば何をかいわんやだが)、その際に「法務行政への国民の信頼が損なわれてしまってはいけない」というのが辞任理由だった。河井夫妻を含めて政治家が係争中の問題に説明責任を求められると、決まって「捜査の進行に支障をきたすことになるので、コメントは差し控えたい」と逃げを打つ。
一連の政治家の発言から言えることは、「自分には全く私心はない。常に公共の福祉に資することしか考えていない」という表明である。つまり、違法行為について説明責任を果たすことなく、自分がいかに国民のために粉骨砕身働いているか、例え辞任を余儀なくされたとしても、それはあくまで社会を混乱に陥らせたくないという、どこまでも利他主義を強調する。政治家の「二枚舌」と言われる由縁で、そうした強弁を聞かされる国民も苦笑いするだけだ。
しかし、そうした本音と建前を使い分ける習性は、我々現代人のなかに深くしみ込んでいる精神と言える。我々が日々接している会社とかの組織社会を考えてみよう。
■本音を隠した建前が社会をダメにする
どこの経営者もまず、「社会への貢献」といった抽象的な企業理念を建前として掲げる。ただ、この資本主義社会において本音としては利潤の極大化が第一義的にあるから、経営者もその下で働く従業員も二つの顔を使い分けなければならない。社外に対しては自社が利害で動いていることはおくびにも出さず、社内的には利潤極大化のためのあの手この手が論じられる。日本を代表する企業でここ数年相次いだ無資格の従業員による検査や品質データの改ざんの数々は、まるで社内に企業倫理など存在しないかのようである。それが明るみに出るのは内部告発によることが多いが、その正義感を燃やした人間は「裏切り者」としてその後憂き目を味わうことの方が多い。
組織のヒエラルキーのもとでの上位の意思決定と下位への伝達の過程は、各構成員それぞれの本音と建前が絡み合って複雑な様相を呈する。経営者が意思決定する際に利潤の極大化という前提となる目標が存在するならば選択肢は限られ、企業倫理としてどうかと思うことも下へ降りてくる。その指令を受け取る中間管理職たちはそれに疑問を感じながらも、自らの成果を示し出世につながるならば、と末端の従業員にそのまま伝えてしまう。巨大ヒエラルキーのもとでは自分だけが反論を述べ立てても排除の憂き目に遭うから、皆が公的には黙ってしまう。例え誰かが「王様は裸だ」と叫んでも、儀式は粛々と進んでいく。
先の河井夫妻にしても、自民党という巨大な組織のもとで口を慎まなければならない苦悩はみて取れる。政治にしても経済にしても、社会全体のシステムが人間の本音を隠したまま、上滑りの建前論議に終始するなら、立場や考え方の違う人間同士が討議を通じて社会全体の利益を理性的に決定する民主主義の根本原理は砂上の楼閣となってしまう。あくまで公共精神からの論理的帰結を訴えても、その衣の下に鎧が透けて見える状況で、彼の本音が歪んだ形で現れたのが公式見解なのだ。国会論議の言い逃れと罵倒に終始する姿は、その象徴だろう。
誰にも利己心はある。そして、それをむき出しにすれば嫌厭されるし、それではホッブスの言うところの「万人の万人に対する闘争」に成り下がってしまう。だからと言って、人間が表面上の空虚なコミュケーションに終始しては、その陰でお互いの本能が熾烈なつばぜり合いを演ずることとなる。大事なことは全て密室で決まる。
では、どうすればいいのか? 本音と建前が一致すれば訳はない。人間が本音を語らぬのは、その本音が卑しいことだと自ら感じているからだ。利権を漁る政治家、欲の深い経営者、出世欲に駆られるサラリーマン――みな、同じ穴のむじなである。人間の利己心をある程度容認しながら、それを客観的な論理のもとに取り込んだ社会というのは可能なのだろうか。
■自己欺瞞の層を積み重ねるエリートたち
人間の社会との関わり方は、大きく二つに分かれると思う。一方は、人間は自らの運命を切り拓くために手練手管を駆使することを厭わないタイプ、片や、正直にしか生きられず社会システムに飲み込まれてしまうタイプ。前者はエリート層に多く、彼らは幼少から自信に溢れ、自らの合理的判断のもとでは不可能なことはない、そのためには社会を上手く操作することが肝要と考えている。
思い出されるのは、学校法人「森友学園」への不透明な国有地売却問題だ。財務省の佐川宣寿理財局長(当時)は土地売却手続きに問題はなく、交渉記録も廃棄したと国会で答弁した。森友問題には安倍首相夫人が絡んでいたことで安倍政権の瓦解を防いだと評価の声もあり、佐川氏はその後国税庁長官に転任している。しかしその後、財務省による決裁文書改ざんが明るみに出て、その関与を疑われた佐川氏は、国税庁長官を辞任する羽目となった(ただ、佐川氏を含めた財務省幹部への告発容疑は全て不起訴となった)。当時、役人による政権への「忖度」が揶揄されたが、佐川氏としては国会答弁を上手く切り抜けて意気揚々とした気分だったろう。ただ、東大を出て財務省エリートとして日本の政策決定に関わってきた人間として、自らに恥じるところがないのか聞いてみたいものだ。
森友問題を巡っては、国有地売却に直接関わった財務省近畿財務局において決済文書改ざんを強いられたことを苦に職員が自ら命を絶った。自殺職員の手記公表を受け野党は決裁文書改ざん問題の再調査を要求したが、政府は検察の不起訴を盾にこれを拒否。佐川氏をはじめ当時の財務省上層部は口をつぐんだままだ。官僚を巻き込む社会の不正が発覚した際に下級官吏一人に罪をかぶせてのうのうと生き続ける上層部の姿は、作家松本清張が昭和30年代を中心に戦後間もない混乱した時代の世相を盛んに描いていた。その基本構図は戦後75年を経た今も変わっていない。そこには、社会を自らの野心のために利用しようと騙し騙し生きる人間と、その犠牲となる騙される側の人間がいる。
社会心理学者の岡本真一郎著『なぜ人は騙されるのか――詭弁から詐欺までの心理学』(中公新書、2019年)では、「第4章 言い逃れる――詭弁を弄する政治家たち」を設け、ここ数年の安倍首相や大臣、官僚たちの国会答弁でいかに「ごまかし答弁」が行われているか事例を多く挙げて細かく分析している。そこで用いられる手法を「語意のすり替え」「質問の焦点ずらし」「答弁の改変」「応答の冗長化」「批判による対抗」「常套句の頻用」とに分類している。そこでは、佐川氏が先に述べた衆議院予算委員会(17年2月24日)で「記録が残っていない」と答弁、その後森友学園との交渉記録が残っていることが判明して参議院予算委員会(18年3月27日)で「虚偽答弁ではないか」と追及されたところ、悪質な語意のすり替えによって答弁を行った事例も挙げている。
森友学園問題に続いて獣医学部新設に絡む加計学園問題、さらに首相主催の「桜を見る会」を巡る疑惑と、国会では政官を含めて言い逃れとしか言いようのない答弁がまかり通った。歪んだ動機と嘘のオンパレード、その結果歪められたコミュニケーション――アメリカの精神科医M・スコット・ペックはその著『平気でうそをつく人たち――虚偽と邪悪の心理学』(草思社)において、「邪悪な人間というのは、他人をだましながら自己欺まんの層を積み重ねていく」人々と称する。彼らの最大の欠陥は「罪悪そのものにではなく、自分の罪悪を認めることを拒否することにある」と言う。その意味で、凶悪な犯罪者の方が自らの犯罪を意識している分だけ正直者とも言える、と逆説的に論じる。
ペックは「われわれがうそをつくのは、正しくないと自分で気づいている何ごとかを隠すためにほかならない」と分析する。すなわち、「虚偽の人々」は他人を欺く前に自分自身を欺いているのであり、自責の念とか良心のやましさに訴えることは最も耐え難いのだと言う。「彼らは社会的規範というものにたいして、また、他人が自分をどう思うかについては、鋭い感覚を持っている」から、「道徳的清廉性という外見を維持しようと絶えず努める」と人並み以上の努力と奮闘は惜しまない。
ペックは「転落の前にうぬぼれあり」という一般に膾炙した言葉を持ち出す。「自分自身を照らしだす光や自身の良心の声から永久に逃れつづけようとするこの種の人間は、人間のなかでも最もおびえている人間である。彼らは、真の恐怖のなかに人生を送っている。彼らを地獄に送りこむ必要はない。すでに彼らは地獄にいるからである」。
■「普遍的価値を求めて自律的に生きよ」
哲学者カントは人間の道徳倫理を扱った『実践理性批判』において、「君の意志の格律が、いつでも同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ」と説いた。「格律」とは個人が主観的に持つ行為基準で、これが万人に通用する普遍的な価値を持たなければならないということだ。そして、その道徳的法則は何かを為すための手段であってはならず、それ自体が目的であらねばならない(定言的命法)。だから、他の人間に対しても断じて彼を手段として扱ってはならず、人格はそれ自体を目的として扱わなければならない。それは自分の生きている環境に束縛される他律的な生き方ではなく、自ら立法した道徳的法則に従う自由な意志(純粋意志)に従う自律的な生き方を選択しなければならないとする。
このカントの実践理性からすると、これまで述べた本音と建前を使い分ける政治家や企業人は自らは普遍的な原理に従う道徳的な人間であることを標榜しながら、それを例えば個人の社会的上昇という目的を達成する手段として用いている狡猾な人間と言える。そして、他人をも手段として扱うことから悲劇も起こる。その犠牲となるのが、自分の気持ちに正直に生きている人間である。彼らはそうした裏表のある人間の存在を理解できずに、狡猾な人間のねじれた論理に取り込まれて最後は裏切られる羽目ともなる。
しかし、自分の気持ちに正直な人間も自律的に生きているかといえば、そうでもない。カント流にいえば、その生き方も単に経験に根差した選択であって、純粋意志から出たものではないからである。狡猾な人間のうわべの論理を無批判にそのまま受け取る人間も多く存在し、彼らもまた普遍的価値を持っているとは言い難い。不正を働く政治家を選んでいるのも一般の有権者なのだから。
一般に人間は好悪の感情に伴う固定観念に縛られており、それに合致した情報だだけを受け取る傾向にある。そうであればあるほど、自分は常に物事を客観的に判断していると思い込みがちである。そうした人間心理を他人を騙す人間は十分に心得ていて、彼らの耳に心地よい情報を流し続ける。そうして騙し騙されの構造が社会に増幅していき、偏った世界観が醸成されていく。政治家も含めてSNSを駆使する時代、それぞれに都合のよい情報だけを受け取る集団ばかりが増えれば社会の分断化がますます進むことになる。
民主主義社会が立場や考え方の違う人間同士が討議を通じて社会の最適解を見出すのが根本原理であるなら、純粋意志同士の切磋琢磨がなければならない。しかし、表立っては上滑りな論理だけで討議が行われ、その裏に潜行する互いの利己心が別の場所で闘わされて意思決定されているのが現状だ。その反動として、アメリカのトランプ大統領のように利己心に基づいた本音を前面に打ち出し、抵抗勢力を排除する強権政治を国民が望むことになりかねない。人間が自ら普遍的原理と考える論理を以ってそれを本音で闘わせるならば、人間の叡智でもってもう少し健全な社会ができるだろうか。