見出し画像

村上春樹の牡蠣フライ理論と、私のnote理論

みなさんは
村上春樹の「自己とは何か (あるいはおいしい牡蠣フライの食べ方)」という文章をご存知だろうか。

「村上春樹 雑文集」におさめられている一遍である。

私が初めて読んだのは高校生の時で、
現代文の教科書に載っていた。

この文章は当時の自分にとってまさに青天の霹靂。
以来、意識的にずっとこの文章が忘れられない。

知らない方の方が多いと思うので、
今回は知らない方でも分かるように書いてみようと思う。

ー・-・-・-・-・-・

あらましをざっくりと説明するが

村上春樹はある時、読者からメールで
「先日、就職試験で原稿用紙四枚以内で自分自身について説明しなさいという問題がでました。僕には自分自身について説明するなんてできませんでした。村上さんならどうしますか?」
といった相談を受ける。

村上春樹の答えはこうだ。
「自分自身について書くことは不可能でも、牡蠣フライについて書くことは可能ですよね」

ん?!と思った方もいるだろう。
牡蠣フライどっから出てきたのだと。

村上春樹はこう説明している。
牡蠣フライについて書くことで、そこにはあなたと牡蠣フライとのあいだの相対関係や距離感は自動的に表現されることになります。それはすなわち、突き詰めていけば、あなた自身について書くことでもあります。それが僕のいわゆる『牡蠣フライ理論』です。」

私はこの牡蠣フライ理論に痺れた。
確かにその通りである。

牡蠣フライが好きだ。嫌いだ。

最近、ランチで同僚とアツアツな牡蠣フライを6個食べた。

よく亡くなったおばあちゃんが牡蠣フライを作ってくれたなぁ。

そもそもアレルギーで牡蠣を食べたことも牡蠣フライを食べたこともない。

初めて食べた牡蠣フライは冷たくてパサパサしていて、美味しくなかった思い出がある。

牡蠣フライを語らせたら人それぞれ。
そこにその人の自分自身が投影される。

ー・-・-・-・-・-・

自己紹介だって、結局自分を他の言葉で言い表しているのだ。
名前、年齢、職業、趣味。
それらは、自己を形作るものであって、自己ではない。
自己は他のことで言い表すしかないのだ。

私は色々なテーマでこのnoteを書いてきた。
その一つ一つに私が投影されていて、私について語っていることになる。

noteを書くということは自分を語ることである。
私の書くnoteは、私という人間がいたという証拠として書いている。

私という人間が、何についてどのように考え、感じたのか。
いつか死ぬ私という人間を、このデジタルの海に流して残しておきたい。

そういう想いで、書いている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?