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モノローグでモノクロームな世界

第十部 第四章
四、
 陶器のようにきめ細やかな肌。
気持ちよさそうに眠る表情を浮かべるその顔。
絶えず不快な振動音を発生させている羽根の存在が無ければ、きっと何時間でも、それらを見つめていられた事だろう。
背から生えた薄い羽根は硝子細工のように繊細だった。
 二匹の蜂が入った、透明なケースの前には、電子パネルがついており、ケイが片手を翳すと、パスワードを入力する画面が現れた。
彼はそこに、神代真飛の部屋で得たコードを入力していく。
これで止まるはずだ。
最後に実行ボタンを押す。
だが、TheBeeはその振動を止めようとしなかった。
入力したコードが違っていたのだろうか。
そう思い、再度コードを入力するが、やはり結果は変わらなかった。

 何の変化も無いまま、二匹の蜂達は、今も背の薄い羽根をこすり続け、不快な音を部屋一杯に充満させている。止む事の無い振動音は、確実に彼の神経に負担をかけていった。
激しい目眩と頭痛。まるで脳を直接、鋭い爪で引っ掻き回されるような苦痛が、度々彼を襲う。
 その度に、彼は幻覚を見た。
ある時は、海辺に居た。
手品師になった彼は、海岸で出会った男から片目を貰い、代わりに自分の影を渡した。
また、ある時は、黄金色に輝く子供を見た。乳白色のニンフを。
 言葉が彼の脳内に浮かびあがっては、次々と消えていく。
掴んだと思ったら手から滑り落ちていく言葉の数々は、彼に虚無感を与えた。
 誰かが話す声が聞こえた。
すすり泣く声が聞こえた。
真っ赤な太陽が染め上げる世界の果てで、彼女が彼を撃った。
ケイの脳裏に映った彼は神代真飛のようにも見えたし、ツツジのようにも見えた。もしかしたら彼自身だったのかもしれない。

 幻覚は、始めの内、一つ一つ確立した個を持っていたが、数が増す内にその境界線は曖昧になり、今や、どこまでも続く幻覚の海の真っただ中で、彼は彷徨っていた。
海の中で、マドカに会い、父に会い、母を見かけ、アレグロやハナをそこに見つけた。沢山の音を聴き、沢山の色を見た。
かつてこの世界があった頃の景色を見た。
花々が咲き誇り、清らかな風に吹かれ、人々が笑いあい、動植物と触れ合う世界。
文字を書き、文字を読み、沢山の言語で沢山の世界を読みとき、世界を創っていく。
 このまま幻覚の海で、手を離してしまおうか、そう何度も思った。
痛みを受け入れてしまえば、今この瞬間にも自分は救われる。
そう、思った。
二匹の蜂達は、この世界から消えてしまった物、消されてしまった物を忘れないために、ここに居るのかもしれない。
彼等はずっとここで、哀しみと共に羽根を震わせていた。

 頭痛が酷い。現実と幻覚の境が曖昧になっていく。
もう諦めろ。
そう話す自分に、ケイは首を振る。
駄目だ、約束をした。
ツツジに、戻ると。昔話をしようと。
マドカに、見せると。色づいた世界を見せると。
 自分の足で立っていられなくなった彼は、硝子ケースにへばりつくように凭れかかりながら、何度もコードを打ち続けた。
壊れてしまったように、何度も何度も繰り返されるエラーの表示。
狂ったように、何度も何度も入力する同じコード。
その繰り返し。
自分はこんな所で死ぬのだろうか。
覚悟はしてきたはずだ。だが、こんな風に何も変えられないまま死ぬのではないかと考えるのは怖かった。
 自分の名前も捨て、ツツジを巻き込み、マドカの望みも叶えられずに、それこそ無駄死にする事がただ、怖かった。
視界が徐々に暗転していく。
もう持たない。最後の望みをかけて、全神経を指先に集中させる。
今度こそ、止まってくれ。
今度こそ、エラー表示が出ませんように。
 瞳をぎゅっと閉じる。ぎりぎりまで保っていた意識の綱が、彼の意思とは関係なしに解けていくのが分かる。
耳元で誰かの囁き声を聞いたような気がした。
ふと気づけば、部屋は不気味な程の静寂に包まれていた。

「と・・・・・・止まったのか?」

 二匹の蜂は、最後に名残惜しそうに羽根をゆっくりと震わせると、その羽ばたきを止めた。
ケイはその光景を最後に、意識を手放した。

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