見出し画像

持論展開

こんばんは。

ちょっとお久しぶりかな。


今日は「優しさ」というものについて

私の持論を展開していくコーナーをお送りします。


私の「優しさ」論の二大要素になる事柄が

二つほどあるのでその話をしていきましょう。


まず一つ目です。

とっても些細な短い瞬間だったけど

ずっと忘れられていないことがあります。

あれは高校1年生の時でした。

クラスに知的障害を持っている人がいました。

斜め前の席に座っていたその人が

授業中にプリントを落としたのです。

本人は気づいていなくて、気づいた私は

拾ってあげるか迷いました。

でも、落ちたものを拾ってあげるという動作って

全員が座って授業を受けている教室の中では異質な行為で、

それはその人が物を落としたことを

クラス中に広める行為になってしまうんじゃないかと

思った私は、どうにかして

さりげなくプリントを拾ってあげる

方法を考えました。

「ああ、そうか、

まず自分が教科書を落として、

それを拾うときに

プリントが落ちていることに気づいたふりをして

サッと拾えばいいのか」

と考え付いた瞬間、

授業が終わるチャイムが鳴り、

教科書にプリントが挟まっていないことに気づいた

当人が、自分でプリントを拾いました。

この数分間、私以外の全員にとって何の影響もない

ただの”時間”だったけれど、

私にとっては

いろいろな思考が駆け巡って、

結局何もできなかった、

無力さが強く刻まれた時間になりました。

ただの”出来事”なはずなのに

こんなに強く印象に残っているのは

なぜだろうと考えた時、

人のことを考えているふりをして

結局自分のことしか考えていない自分に

気づきました。

その人が物を落としたことを

クラス中に広める行為になってしまうんじゃないか、

なんていうのは、自分に向けて飾り付けた綺麗事で、

本当は

クラスの中で異質な行動をとる自分が

嫌だったんだろうし、

優しさを見せつけているように見えるんじゃないか

なんていう自分本位の懸念点が

「優しさ」を阻害したんだろうと思います。

そういう自分が本当に嫌いでした。

だからとりあえず私は

「分け隔てない人」を目指しました。

クラスの中でどんな立場にある人にも

変わらない笑顔で話しかけること、

誰にも悩みを打ち明けないこと、

怒ったり、悲しい涙を流したりしないこと、

こうすることで

いつでもどこでも笑っている

「分け隔てない私」が出来上がりました。

全体を見ている役に回ることで、

細かいことには気づかないふりが

できるようになりました。

「分け隔てない私」は平等だけど

平等に優しいわけではありませんでした。

どこか自分に疑問を抱えたまま、

自分に蓋をしたまま、

高校を卒業しました。

高校生活はとっても楽しいものでした。


そして、二つ目の出来事は

大学一年生になってからのことです。

「町田くんの世界」という映画を鑑賞しました。

主人公の町田くんという人間は

とにかく優しい人間でした。

本当に優しい人間でした。

prime videoでの評価は

あまりいい映画ではなかったけど、

私はその映画のおかげで

考え方を変えることができました。

というよりかは、

ずっと見ないふりをしてきた

考え方の蓋を開けることができました。

町田くんは、

優しさに遠慮がない人間です。

衝動のままに、優しくします。

町田くんの優しさは、

周りの人を温かくしました。

他人のことなんか関係ない世界は、

町田くんの世界には一つもなくて、

町田くんにとってはすべてが自分事でした。

町田くんは、

誰かの悪いところより良いところを見る人で、

周りの視線より、

目の前の人の笑顔を優先する人でした。

町田くんの周りの人はみんな笑っていて、

周りの人が笑うと、町田くんも楽しそうで、

私の笑顔もこういう製造過程がいいなと

思いました。

それに、

周りの視線を痛いものと思っていたけれど

こんな優しい映画が作られるくらいには

世界は優しいんだと思えて、

なんだか安心しました。

もし仮に、世界が優しくなくても

私の世界は優しくていいんだと

私の中に、ずっと欲しかった結論が

生まれた日でした。


ちょっと長い文章になってしまったけれど、

私は、何の目的も理由もなく

優しさを優しさと認識する前に

衝動のままに動いた結果が優しさになるような

そんな人間の完全体を目指して

日々精進(?)することに今はしています。

全然まとまらないけれど、

これが私の「優しさ」論です。


また何か書きます~


草々


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?